現の散歩道
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11/11 ふろふき大根と蕪
たまには料理のことでも書こう。秋はいろんなものがうまい。
◆ふろふき大根◆これがすごくおいしかった。そして、作り方はいたって簡単。まず大根を2センチくらいに輪切りし、皮をむく。それを米のとぎ汁でゆでる。わたしは米のとぎ汁がなかった(すでに米をしかけてしまっていた)ので、かわりに生米をいれてゆでた。表面が少し透明になったら(15分くらい)、いったん水を捨て、今度はコンブを鍋底にしきつめて、もう一度コトコトと煮る。竹串がすっと通るくらいまでひたすら煮る。20分くらい煮たと思う。できあがったら、皿に盛り、ミソをつけるだけ。なんともいえないシンプルかつ奥深い大根の味。この季節、絶品のひとしな。ふろふきって、大根を風呂に入れるってことだろうか?
◆カブ◆ふろふき大根がうまく行ったので、カブの煮つけ。こちらはだし・醤油・酒・みりん・砂糖・塩で味付け。けれども、カブは煮るとどうも歯ごたえがなさすぎてしまう。やはりカブはナマもしくはヌカヅケが一番だなあ。葉は少量の塩でゆでて、おひたしにした。こっちは歯応えもよく、すごくうまかった。カブの葉がこんなにうまいとは。最近は葉のついた大根はめったにないが、今度は大根葉のおひたしをしよう。カブというのは、大根よりも早く日本に入ってきていたらしい。このあいだ読んだコールドウェルの「タバコ・ロード」という小説の冒頭は、カブの奪い合いからはじまる。奪ったカブをナマでガリガリかじるのが印象的だった。

11/6 食い意地
急激な寒さのせいか、はたまた公演後の虚脱感か、やらなくちゃならないことは山積みなのに、ちっともはかどらず。先週の後半は寝込んでしまったし。
編集前のかもめのビデオのことや、犯罪友の会、黒テント、平成中村座のこととか、寝込みつつも何冊か読んだ小説のことなんかを書いておきたいと思いつつも、時間と体力・気力がついていかない。
昨日は火曜サスペンスなんかを見てしまう。これがまた面白くて、結局最後まで見てしまった。何年ぶりだろう。
もしかすると、今はとてつもなく食い意地だけが盛んな時期なんだろうか? いや、精神的にだよ。

10/30 「かもめ」公演を終えて
◆やっと片付けも終わってきた。体調の方は終わった途端にくずれっぱなしで、まだ頭はボウっとしている。公演中は、雨の中も結構元気だったのだが・・・。打上げまでみんなとはなかなか会えないが、みんなもだいたいそんな感じだろう。みなさん、ほんとにお疲れ様でした。雨の中、スタッフも役者もずぶぬれになり、また、機材がいかれたり、大変でした。お客さんも、寒かったことと思う。ただただ、みなさんに感謝。
◆芝居はおおかた好評だったと思う。ある劇評家には、「今まで他国のも含めて10本以上の「かもめ」を見たが、今回の「かもめ」が一番面白かった気がする」と言っていただいた。また、知りあいの作・演出家には、「今年のベストワンだ」と言ってもらった。素直に喜んでおこう。自分たちの現在の水準で、やれることはとにかくやった。思い切ってやってみた屋根なしの舞台も、3日のうち2日は雨が降ったのだが、それでも気持ちがよかった。4箇所の出入り口の隙間から芝居を覗いていて、この身が震えたのは、寒さのせいだけではなかったと思う。それぞれの役者たちがいとおしく、目に焼きつけておきたいと思った。
◆はじめての既成の台本に、どっぷりと漬かった半年だった。舞台へ向けての造形の模索と、その模索の中での発見の連続。発見は戯曲の中にも、役者の中にも、自分の中にもあった。極力言葉にしたい、明確に、意識的に演出していきたいと思ってきたので、本番が近づくにつれて、迷いがなくなっていった。はじめは壁に見えたものの中に、ドアらしきものを見つける。すると、壁のシミだと思っていたものが、実はドアノブであったことがわかってくる。そのドアノブに手をかけると、壁の向こうの世界が開かれる。喩えれば、そんな作業。壁に絵を描いてしまうのではなく。今後、オリジナルでもこのスタイルでやれればいいのだが、オリジナルの場合、それはまた急にむずかしくなるのかもしれない。「かもめ」を演出していく中で気づいた大きなことは、それぞれの人物の抱いている欲望が、どんどんはっきりと、強く意識されるようになり、それを強く表に出せば出すほど、それぞれの人物は滑稽にもなり、同時に孤独にもなり、その滑稽さと孤独さと背中あわせのように、他者との関係性や、関わり方、傷つけ合い方などが激しくなっていくということだった。この欲望は、エゴと言ってもいいだろう。エゴを意識的に剥き出しにしていくことが、一つの重要な作業だったということだ。これは、必ずしも戯曲の内部だけのことではないだろう。また、剥き出しにしていくことは、かなり残酷なことなのだが、私の今までの本にはそういう残酷さがまだまだ足りなかったような気がした。
◆一方、野外でやることにいったいどんな意味があるのか、雨の中で何度も考えた。その答えはいくつもある。小さな劇場で上演するよりも、自分たちなりの大劇場―なにしろ私たちの劇場では、舞台は直径10mある―でやりたいということ。それは同時に、この世界や世間と、芝居との距離を測ることでもあること―いわゆる劇場の中の芝居は、私には箱庭的なイメージがどうしてもある。物理的にドサ回りなどができない私たちにとって、生活や風景となるべく近い舞台を設定することで、どこか生きて芝居をしているという実感が沸いたりすること―もしかすると、単なる疑似体験かもしれない。芝居を観客と作り手の関係だけでなく、どこか「捧げもの」のような意識を持っていること―それは劇場でも同じではないか・・・。いろいろ考えては浮かんできた。それらは全て、「なぜ芝居をするのか」という問いとほとんど同じ問いのような気がしてくる。劇場で芝居をしなくなって、もう数年になる。ずっと野外の、しかも円形劇場でやってきている。その中で、少しずつではあるが、芝居を投げ出すようにして、人様に見せることができるようになっているかもしれない。今回、屋根をなくしてみて、その感覚はより強くなってきた。そのためか、うちの芝居はますますざっくりと編まれた手編みのセーターのような感触になってきた気がする。私自身は、そんな感触のために野外でやっているのかもしれない。もしくは、そんな感触を自らの中に、常に再発見するために。
◆客演の人たちはともかくとして、楽市の役者たち、つまり女優たちのことだが、彼女たちはこの芝居を通してはっきりと大きく成長した。決して複雑なことがあれこれできるようになったという意味ではない。むしろ、シンプルに、演技(艶技)に何が必要なのかが、それぞれわかってきたように思える。今後、もっともっとシンプルな艶技が可能になることだろう。音楽も、今回は前回に比べて一段とシンプルにしたのだが、むしろそれがうまく行ったように思える。大胆に、単純に、これから芝居を作っていきたいと思う。唄はかなり賛否両論だったのだが、私としてはまだまだこれからも唄のある芝居を作っていきたいと思っているので、知りあいのKING堀内さんを招いて、唄のレッスンをしてもらおうと考えている。

10/16 昨日はどしゃぶり
◆昨日は夕方どしゃぶりの雨で、あっという間に舞台の土の部分は水没。楽屋にたどりつくのにも、くるぶしまで水につかり、靴の中はぐしょぐしょ。雨が降ればこうなるとはわかっていても、大変だ。これは、音響の大西氏が昨日から来たからで、雨男なのである。ということで、稽古はお休み。場当たりのためのスタッフ打合せをする。役者たちの仕込み疲れがちょっとでも取れたらうれしいのだが。みんな風邪とか引かないように。舞監の谷本さん、ホントにご苦労様。それから、キャッピーさんも、雨の中ありがとうございます。
◆3日間の連休、それから思っていた以上にたくさんの協力者に恵まれて、仕込みはまず順調といえる。一昨日には三幕までを通してみた。立体的な舞台が美しく、役者たちの生き生きした動きを引き出している。客席の後ろをシートで囲んだら、急に声も通るようになった。音と灯りが入れば、もっと芝居は立ち上がってくるだろう。
◆仕込み二日目の夜、劇場を抜け出して「くじら企画」を見に行く。永山則夫を扱った悲しい芝居。感想はたぶん公演が終わってからになるだろう。
◆今日は場当たり。音と灯りのきっかけ合わせと、役者のデハケ、衣裳や小道具の確認をする。できれば4幕だけは通してみたいのだが、時間があるかどうか。パンフレットをコピーし、二つに折りながら、客入れの音楽を考える。今回のオンボロ野外円形劇場にはブルースがいいかもしれないと、スリーピィ・ジョン・エステスを聞く。やっぱりこれかなあ。
2002年10月16日 10時34分05秒

9/28 劇団態変「夏至夜夢 まなつのよのゆめ」
◆大阪城公園、浪花グランドロマンのテントにて。原作、シェークスピア。作・演出、金満里。舞台は多少の美術はあるものの、ほとんど素舞台。途中、舞台上のロープの美術がもぞもぞと動くが、これがいい。客席は超満員。通路は全て埋まり、坐る場所のない客は両サイドに立っていた。
◆久しぶりに態変の芝居を見たら、すごかった。いつのまにか、態変の芝居作りはすごいものになっている。逆立ちの美学とは、こういうものをいうのだ。それがシェークスピアの世界をなんとよく体現していることか。
◆態変は障害者たちの劇団である。歩けないもの、うまく喋れないもの、腕のないもの、じっとしていられないもの、そんな役者たちが芝居を演じる。そでの近くまでジタバタと近づき、最後は黒子が現れて、役者を片付けることもある。確か最初に見たのは10年以上前、旗揚げだったかもしれない「ゲリラクヨクヨの・・・」で、「誰か僕を舞台にあげてください!」という叫びから始まる、障害者の恨みを前面に押し出したパフォーマンスのようなものだった。このときは台詞もあった。マイクをつけていたが、よく聞き取れなかった。ラストには、電気製品の箱などに使われている発砲スチロールの大きなかたまりが、そのままのカタチでゴロゴロと上から落ちてきた。この中の、2台の電気車椅子のダンスは圧巻だった。車椅子からピョンとつき出た足。2台の車椅子はクルクルとワルツを踊り、まるで村上龍の世界のようだと思った。
◆2度目はアイホールで、このころはもう言葉がなかった。美しい布が舞台に張られ、その中を障害者たちが、踊り、這いまわっていた。ラストはたしか戸川純のバッハ原曲の唄で、肉体を抜けてタマシイとして、この宇宙と一体になりたい、この肉体をも肯定していきたいという想いが感じられた。それは彼らにとっては最も重要なことだっただろう。けれども、私には正直なところ物足りない気がした。旗揚げの表現の強烈さに比べると、きれいでありすぎるような気がしたのだ。
◆今回の「真夏の夜の夢」は、それらとは全く違っていた。ここには、「笑い」が満ちている。自分らの身体的な奇形性(もしかしたら良くない言葉なのかもしれないが、あえて使わせてもらいたい)を前面に押し出し、その愉快ささえ感じさせる余裕。いや、むしろ優越。平凡なからだよりも、もっとずっと表現に溢れたカラダ。「ゲリラクヨクヨ」は、「いつもゲリしてクヨクヨしてる」ある男の物語だったが、ここではすでに糞尿さえも愛と笑いに、そして皮肉に感じられる。何度もゾクゾクし、その強烈さに脱帽させられた。台詞は全くないのだが、物語はよくわかる。また、テンポの速いロココ的な音楽と、何度も使われるフットライトが、映画でときどき見たことがあるヨーロッパの街角のレビューのような雰囲気を作っている。これだけシンプルな装置・音楽・照明も珍しいほどだ。以前は衣裳もレオタードだけだったように思うが、今回はいくつか衣裳も使っていて、それが役を明確にしていると同時に、そのレビューのような雰囲気を一層かきたてる。そうなると、レオタードの裸っぽさが、ひときわ引き立ち、ドキドキする。
◆作・演出の金満里は、役者としてもとても魅力的で、ぞっとするほど美しい。牛頭の男と抱きあい転げ回りつつ、両足はぐにゃぐにゃと曲がり、今までほかでは見たことのないような愛欲のせつなさを見せてくれた。また、パック役の福森慶之介は、ユーモアたっぷりで、背中をまるめながら飄々と演じ、客は何度も大笑いした。他の役者たちも、たぶんたくさんの課題を抱えながら本番にたどりついたはずだが、そんなことは未塵も感じさせず、陽気なお祭り騒ぎの作品となった。ラスト、フィナーレが終わって役者紹介が終わるまで、金はお辞儀をしなかった。その堂々とした態度には威厳さえ感じた。拍手はなりやまず、手拍子となり、再び役者たちは現れて踊り、そして最後、金は黒子たちに抱えられて去った。

9/26 寺門孝之展
◆ギャルリ・ムスタシュに寺門氏の個展を見に行った。会場の外のデッサンにまず驚く。線のデッサンがいい。彼がホームページで書いていたことを思い出す。生徒たちにデッサンを教えるとき、対象をよくよく見て、そこに新鮮な線や形をみつけなさいということ。この世でたった一つの線。人の顔は普段は大雑把なイメージで捉えられているけれども、その鼻の線、耳の線、いや鼻や耳という概念をも越えて、形や線を見出すこと。私はそんなふうに読んだのだが、まさに、そんな新鮮な線。
◆中に入ると、たくさんの天使たち。少女たち。メインは「闇の妹」のシリーズと「ドラゴン」のシリーズだった。前者は個人的な、夢の奥に住んでいるような少女。暗示的な光景。一方、後者は歴史や物語の中に住む、人々がこれまで何度も空想してきたドラゴンが、意外にもとても明るい色彩で描かれている。まるで天使の別のバージョンにようなおどけたドラゴンに見える。水や土の中、月の下で紡がれる夢と、空や風や光の中を浮遊する空想なのか。ドラゴンはいつでも光に溶けてしまいそうだった。
◆その二つをつなぐものなのだろうか。いや、そんな勝手な位置付けはつまらないことだろう。「シンデレラ」や題名は忘れたのだが、大きな桜が咲いている絵。はっきりとなにかの物語の流れが詰め込まれているかのような2枚の絵が気になってしょうがなかった。もしかすると、これらは絵としてはまだうまくいっていないのかもしれない。他に比べると、なんだかちぐはぐで、寄せ集められたイメージという印象なのだが、他の絵にはない、血の温かみのようなものが滲みでていた。それとも、声の気配とでも言うべきか。動き? 生身や肉声を感じたのは、その物語がたんに身近に感じられたからというだけではないような気がする。
◆「闇の妹」にしても、「ドラゴン」にしても、また「シンデレラ」にしても、デッサンもまた、絵に収まらないだろうことを、絵を描くことで追って行こうとしている。そんな気がした。

9/23 野外演劇フェスティバル シンポジウム「野外劇の魅力」
◆急に寒くなった。シンポジウムというのは、もともと「共に酒を飲む」という意味らしい。三人の批評家(九鬼さん、太田さん、西堂さん)がそれぞれ野外演劇の歴史(日本だけでなく、ヨーロッパの野外劇の話なども出た)や、野外劇に期待することを語った後、やっている方が、質問にぽつぽつと答える。互いに意見が活発にやり取りされるというわけではなかったが、なんだか終わってみると、みなずいぶん近い意識を持っているような気がした。
◆印象に残った言葉◆「野外でやるのは、自分らをもっと世間にアピールしたいから」(態変・金さん)そうそう、私がラフレシアでやるのも、OMSなんかでやるよりも、自分たちを特化してアピールできるからだ。「野外も、室内も、既成の戯曲も、もちろんオリジナルも、なんでもやりたいというのが本音」(遊劇体・キタモトさん)そうそう、私も自分がどんどん芝居というものにはまって、もっともっと芝居の奥深さに分け入りたくて、チェーホフをやってるのだ。「テントの芝居のポンポン喋るスタイルは、素人の役者が下手に見えない一つのやり方で、自分には抵抗がある」(犯罪友の会・武田さん)たしかに、チェーホフをやってみると、スピード感とか、迫力とかいう以前の、もっと沢山の技術が必要だと感じる。「小さい頃から、父親に連れられてテント芝居を見てきた。わけがわからなかったが楽しかった」(満月工場・藤本さん)こういう世代が出てくるってのは、すごいことだ。「演劇なんていらないと言いつつ、どんどん演劇に惹かれていっている気がする」(演劇家族・益山さん)こいつも、はまってきたな。
◆野外劇の危機感のようなものも、どこかあるような気がする。野外の魅力といっても、野外であれば何かが必ずプラスされるというわけではない。そこでは制約がないぶん色んなことができるのだが、一方ではまりこんでいる難点もありそうだ。それが、それぞれの試行錯誤にもなっている。

9/22 立稽古32 二回目の通し
◆音響・照明スタッフに通しを見てもらう。少し芝居の流れが見えてくる。それぞれの役が、それぞれの役者をとおして見えるようになってきたと感じる。特に前半はだいぶ。もちろん、まだまだ課題は山積み状態だが。時間さえあればどんどんよくなるし、今までにない「かもめ」になるという確信が持ててきた。一、二幕と、三、四幕を分けて、途中に休憩を挟むことにする。二幕のあとの幕間はなくす。
◆通しをし、その後、何箇所もピックアップしながらダメ出し。唄の部分がまだまだなのだが、先日ドクトル・ミキさんと会って、演奏・録音を手伝ってもらうことになったので、音楽が出来上がったら、稽古ももっとはかどっていくことだろう。昼の1時から通しをはじめ、夜の10時に稽古を終える。その後、竜ちゃんと照明の打合せ。彼が言うには、前半、互いの人間関係があまり見えなくて、なかなか物語に入っていけないとのこと。そういえば、こちらは関係の特殊な方(たとえばDとPが密通している愛人どうしだとかのこと)にばかり気を取られていて、その基本になる関係(とりあえずPとSが夫婦だということなど)をきちんと押えてこなかった気がする。基本がちゃんとあって、特殊が見えてくる。
◆また、キャラクターは今回あまり作らないとして演出してきたが、それぞれの関係の中での位置は、もっともっとはっきりさせなくてはならない。たとえば、アルカージナは「有名な女優」としてきちんと登場し、センターで演技しなくてはならないし、マーシャのコースチャへの思いも、もっと強くあちこちで出さなければならない。それもまた、基本的なことだ。キャッピーさん(殿村)から、4幕のポリーナはコースチャが金を稼げるようになったからこそすり寄っているのではないかという意見が出た。そんな視点は今までになかった。いやあ、「かもめ」は面白い。いや、この芝居作りが面白いのです。

9/21 浪花グランドロマン「KAI」
◆作・演出:浦部善行 場所:大阪城公園太陽の広場内特設大テント 大テントとあるだけに、立派なテントだ。外側は銀色に輝き、内部は黒く塗られている。客席は階段状になっていて、後ろの方はずいぶん高い。舞台の間口も広い。横から丸ごとのセットが滑って来たり、転換も大仕掛け。映像も使っていた。
◆物語◆町なかの生命保険の会社がメインの舞台。そこに何人もの女性社員がやかましい。どうもちっとも仕事をしていないらしく、案の定、倒産することになる。その倒産を待っているのが怪しい女不動産屋なのだが、どうも保険会社の社長が持っているDVDが狙い。それは、その保険会社社長の死んだ妻が残していったもの。ハッカーに手伝ってもらい、それを開くと、3本鳥居のある異空間に皆飲み込まれてしまう。そこでは不動産屋の女社長が雪女となっていて、失った自分の息子をその異空間の中に住まわせている・・・。もしかすると、ちょっと違うかもしれないが、だいたいこんな物語だったのではないかと思える。芝居はドタバタと進んでいき、メッセージはシンプルなのだが、そのDVDをめぐる人間関係がどうも私にはわからなかった。後半ほどわからなくなる。死んだ妻と女社長の関係、異空間の中の子どもとハッカーの男の関係など・・・。
◆笑いとロマン◆この芝居に特徴的なことは、ドタバタとした笑いに満ちた部分と、ふいにやってくるロマン(独白が多い)の部分があることだ。けれども、どうもそれがうまく行っていないように思えてしかたがなかった。つまり残念なことなのだが、笑えないし、うっとりできない。私自身あんまり笑いが得意ではないので、どうしてこううまくいかないのかよくわからないのだが。ひとつ言えることは、笑いにしても、ロマンにしても、どうも意外性に欠けているということ、また、詰めが甘いような気がするのだ。(以下自分のことは棚に上げて)舞台転換にしても「おお!」というような、強烈なやり口になっていない。せっかくの大仕掛けが生きてこない。横に動く転換は、どうしてものんびりした印象を与えるものだが、そこにロマンを乗せようとしても無理がある。むしろ、あえてノンビリした仕掛けの見せ方でもよかったかもしれない。独白の台詞も、言葉の選び方は工夫されているのだが、そこに切羽詰った状況がないため、役者の感情は美辞麗句のように空転してしまっている。ラストのメッセージも、今までの物語とは別に用意されたものように、突然語られているような気がした。それらが劇的になるためにはもっとていねいな状況と関係の描き方が大事だし、もっと緩急自在の、ひしひしとリアルに感じられるようなセンス(感覚)が必要なのではないだろうか。客とやりとりするような呼吸。客の呼吸を感じながら、客を乗せたり、引っ張ったりするような呼吸が問題だ。
◆役者◆役者たちはみな頑張っていて、それがこの芝居の雰囲気を最終的に爽やかなものにしていた。ここの役者のいいところは、決して人間離れしたところではなく、とても身近に感じられるところだ。特に男優たちの、どこか謙虚な、照れも含んだ芝居には思わず顔がゆるむ。そんなことがもっと感じられるようにするには、もう少しテントが小さく、桟敷席の方がいいように思えてならなかった。たぶんその方が仕掛けの効果も広がるんじゃないかな。なんて、これは勝手な言い分か。

9/16 小道具製作・立稽古29
◆昼間、小道具の製作。今回衣裳はほとんど作らないが、小道具は逆にかなり作ることにしたのだ。これが大変だ。小道具を美術として扱うためなのだが、劇団員一同、手を使いながら首をひねりつつ素材と格闘。小室、顔ススだらけにして、思わずチラシ挟み込みのことを忘れてしまう。なんとか仮面11個と、舞台に配置する花12個、鬼火のための桶4つをこしらえる。なかなか面白いものができてきたように思うのだが・・・。素材は秘密です。キリコ、かもめの死骸にも挑戦するが、うまくいかずボツ。かもめには一番難儀しそう。あと、ランプのたぐいや、いくつもの荷物、猟銃、小さなテーブル、エトセトラ・・・本番までに間に合うかどうか心配だ。
◆夕方から3幕と4幕の稽古。先週あまりにまだまだと思われた3幕・4幕だが、何度もくり返しやっていて、少し芝居が見えてくる。およその基本的なつかまえどころはできてきたように思う。田口さんの芝居がヒョコヒョコと面白い。台詞まわしにもあの手この手がはいる。自分の芝居だけでなく、人の芝居にも積極的にダメ出し。演出の私はタジタジであったが、言ってることは実に正しいのであった。役者の台詞の捕まえ方に対する意見なのだが、さすが役者だけあって、具体的で的確なのだった。キリコ7とエビの「濡れ場」を具体的に指導。すごくよくなった。芝居の中のリズムが大事だ。もっと激しく、そして流れにメリハリが欲しい。もっとたくさんの明るさと、もっと深い暗さを演じて欲しい。色気も。そして、どう客に呈示するかをもっと考えたい。まだ100倍はよくなるはずだ。
◆あと一ヶ月で本番がやってくる。ここから本番が終わるまで、本格的にかもめに狂おう! ああ、私の芝居もなんとかせねば!

9/12 いしいしんじ「麦ふみクーツェ」
昨日は体調があまりに悪く、稽古を休んでしまった。自主稽古とした。たぶん今回はじめてじゃないだろうか。家で寝たり起きたりしながら、買ってあった小説をゴロゴロ読む。これが面白かった。ほとんど童話なのだが、大人が読んでも面白い。いや、読者のほとんどは大人だろう。ブラッドベリや高橋源一郎などとも似ている。こんな作家がいたんだなあ。1966年に大阪に生まれるとある。若い。
「ぼく」はときどき麦をふんでいるクーツェという人物を見る。といっても、彼だけに見える小人だ。たん、たたん、たん、とクーツェは麦を踏む。「ぼく」はおじいさんと父さんの三人で暮らしている。ばかでかくて、学校ではつまはじき。おじいさんはティンパニストで、村の合奏団を指導している。父さんは数学の先生で、素数の研究をしている。村にねずみが降ってきたり、かもめだらけの船が流れ着いたりする。父さんはねずみを数学的に研究しはじめ、「ねずみ男」と呼ばれる。「ぼく」のあだ名は「ねこ」。ああ、うまくこの物語を説明するのはむずかしい。この物語はわりと長く、「ぼく」は成長を続け、村を出て、盲目の元ボクサーや、変なテェリストに出会いながら、指揮者になっていく。
少し情緒的な部分が多すぎるのではないかとも思うのだが、あっという間に読み終えてしまった。久しぶりの夢中になれる小説だった。この人には、ほかに「ぶらんこ乗り」という話もあるらしい。そのうち読んでみたいと思う。

9/8 立稽古25 はじめての通し稽古
◆さあ、もうあとだいたいひと月で仕込みだ。タイトルのバックも赤にして、気を引き締めよう。はじめての通し稽古。いつもなら、このあたりで合宿をするのだが、今回はなし。なんとかタンタンとしたペースで本番に向かいたいところだ。
◆舞台のおよその形を床にしるし、仮ながら衣裳も着ての稽古となった。通しの前に、三つの幕間とプロローグ、フィナーレの段取りをおさえる。なかなかうまくまとまらず、時間がかかる。なんとか形になって、1幕から通そうとするが、1幕の出来があまりに悪かったので中断、テンポ、声の大きさなどを指摘して、もう一度1幕からやり直す。思ったより時間がかかり、結局4幕の途中で時間切れとなる。
◆途中何度も台詞がひっかかったり、余計な間があいたりしたためもあるが、思った以上に長い。実際の長さも長いが、見ていても長く感じる。芝居がうまく転がっていない。細かいところにこだわりすぎていて、大きな流れがつかまえられていない気がする。新しく唄も入ったので、そのとまどいもある。1幕、2幕はわりといい。役者の輝きが少しづつ表に出始めた。3幕4幕がまだまだだ。
◆もちろん、はじめての通しというのは、「落ち込むために」ある。当然だ。しかし、飲みに行く元気も残ってなく、皆多少暗い顔で、解散・・・。いや、これからです。落ち込みの原因のいくつかは、はっきりとわかっているつもり。これから次第に役者たちがガンガン照り輝いていき、おもしろくてたまらない、ゾクゾクするかもめにしていこう。

9/7-2 LOVE THE WORLD「ジャム」
◆作・演出 西田シャトナー 場所:アイホール
◆舞台◆四角い40畳ほどの素舞台。役者は40人ほどで、みな若い。マイムによる表現、集団演技、照明や音のキレの良さで、2時間半の芝居があっという間だった。最初のうち、演技は少しぎくしゃくとしていたが、ラストに近づくにつれ、客としてのめり込んでしまい、感動すら覚えた。
◆物語◆壮大な物語だが、シンプルでもある。戦時中、不死になってしまった日本人科学者片岡をめぐる物語。彼をめぐって各国が争奪戦を繰り広げ、結局世界の指導者たちが人類滅亡のボタンを押してしまう話、人類が滅亡した後に彼とロボット達が暮らしている中、地球の月に小惑星が衝突する話、人間とほとんど変わらないアンドロイドと彼が、地球上の最後の生物であったコケを失い、そのアンドロイドも失ってしまう話。およそこの3つの話が、交互に時間を行きつ戻りつしながら展開していく。
◆演技◆40人の役者はときに群集になったり、建物や飛行機やエンジンなどになったり、また他のいろいろな人物になり変わったりして、楽しい。もう少し客とのやり取りがうまくいけば、もっと笑いも出たと思うのだが、おそらく始めのちょっとしたもたつきやテンポの悪さで客が固くなってしまったようだ。以前「惑星ピスタチオ」を見たときもそう思ったのだが、演出がやろうとしていることは、実は楽市でやろうとしていることともかなり近い。演技のサーカスだ。唄はないが。特に今回は若い大勢の役者たちで芝居を作っているので、演出で見せる部分が前面に出てきていた。ピスタチオでは、達者な役者たちの個性的な芝居がこの上にさらに乗っていくことで、より強烈になっていたかもしれない。逆に、今回の「ロボット」という設定はそのぶん成功していて、大勢の役者たちがそれぞれの雰囲気を持ちながら演じているロボット(衣裳は二の腕にちょっと筒を加えただけ!素晴らしい!)が、けなげに思えた。とくにロボットたちが小惑星と月との衝突をシュミレートしながら、なんとか自分たちでどうすればいいかを考え(このとき片岡はずっと気を失っている)、小惑星を破壊するために自分の身を犠牲にするロボットがいて、最後は結局衝突を回避できないのだが、このあたりはゾクゾクした。(ただし、BGMにずっとバッハのG線上のアリアが流れていたせいもある。この曲が流れるととにかく私は弱い。)
◆この芝居、一年かけて稽古を積んできているそうだ。再演といっても、ずいぶん手間がかかっている。今回、ラフレシア円形劇場祭の企画の中で、西田シャトナー氏という人物と少しずつ親しくなりつつあるのだが、うーん、面白い。と同時に、負けてはいられない。

9/7 あうん堂「あざるはなる」
◆作・演出 服部はるか/場所 ウイングフィールド/出演 杉山寿弥・はたもとようこ・寺川努・紀伊川淳・池上和美・山田一幸・大澤慶子
◆舞台◆いつものウイングと少し違う使い方。その細長い形がそのまま洞窟(トンネル)の内部になっている。客席はいつもより段の勾配が高く、その左手にちょっと地の底から這い出るような雰囲気も感じられる花道。全体にずっと暗めの照明。音楽もなく、時々かすかな水音。一本のトンネルではなく、何本もに枝分かれしているらしい。
◆物語◆物語というより、次第に明らかになるそれぞれの人物の背景。杉山の演じる男(以下杉山とする)は、以前勤めていた会社をやめていて、どういうわけかそのトンネルに迷い込む。そこには、うっぷん晴らしに、棒を振り回しによく来ている女(うーちゃん)がいる。また、ブランド品をむやみに買い込んではトンネルの中の箱に仕舞いこんでいるカスミという若い女がいる。そのカスミの買って来た品物を返品しようとするお人良しのマアマアという若い男がいる。そこに、杉山を追ってきたストーカーのような女がやってくる。彼女はかつて杉山の得意先の女でもあり、一緒にホテルまでは行ったのだが、拒絶し、今は杉山を常に追いかけていて、彼のいらだつ顔を見るのが楽しみになっている。彼女は「スマタ」と名づけられるのだが、これらの名前全てをつけるのが「らーちゃ」というそのトンネルに住みついているフーテン(古い言葉?)のような男である。らーちゃはカスミの買ってきたお茶を茶香炉に入れて香りを楽しんだり、瞑想にふけったりしながら、それぞれの人間のこだわっているところ、躓いている部分を指摘していったりする。次第にそれぞれの人物の背景が明らかになって行く中、うーちゃんが姑との関係に悩んでおり、理想的な嫁を演じてはいるものの、夫(かーくん)はそれに全く気がついていないことがわかってくる。あまりスーリィらしい展開はないが、小さな言動が互いを傷つけたり、かばったりするという中から、それぞれの抱えている問題が少しづつわかってくる。そして、うーちゃん(妻)はかーくん(夫)に少しずつ理解されるようになり、杉山はスマタと愛を確認するようになる。人は自分の傷を認識することで、他人にも優しくなれるのか。
◆感想◆それぞれはもうすでに大人になっている人間たちの、やわらかい子どものような部分。らーちゃのトンネルは、それを正直に出すことができるような、現実から逃げ込める場所だ。とてもリアルで、静かな演じ方をしているが、これは一つの大人のメルヘンだと思った。それぞれの役者も好演していたし、芝居自体もとても個性的なものだった。服部はるかは、見るたびに自分のやりたいことを明確にしていると感じる。ただ、私自身の体調の悪さもあったし、またあまりにずっと暗く、静かであり続けたので、途中眠くて椅子から落ちそうになる。私は基本的に「静かな演劇」があまり好きではない。それは、やっている側が自らを「静かな演劇」であると規定して、そのスタイルにたよることで、芝居になっているかのように錯覚しているように思えるからだ。確かに静かであるということは、普段ガヤガヤしているのとは違い、一つの激しいことではある(これは「野外劇」とか「アングラ」とかにもあてはまる)。また、手法として、どうしても場所や時間に限定された時間・場所・人物の一致から離れられないことが多く、劇が本来持っている自由さや解放感に至れないところがあるからだ。この芝居では前者はほとんど関係ないように思えたが、後者に関してはやはりそうで、途中時間が経過しているはずなのだが、それがこちらに伝わってこない。頭では理解できるのだが・・・。勝手なことを言わせてもらえるのなら、もう少しメルヘンにするか、逆にもう少し日常的にするか、どちらかにするべきだったのかもしれない。いや、その中間を綱渡りしているのがあうん堂か。

9/4 かもめ経過報告・ラフレシア円形劇場祭経過報告・稽古場
◆最近とても忙しくて、なかなか書き込む暇がない。稽古の経過報告も気がつくともう約1ヶ月書いていない。もちろん、稽古は進んでます。立稽古も23回が過ぎた。一人一人の役を中心に稽古をしていたのだが、それも終えて、今週から幕ごとの稽古になっている。みんな本が入ってきたので、台詞を身につけていく期間とでもいうか、あまり止めずに、大局的なつかまえ方を大事にする。
◆この間、実はいろんなことがあった。一つは、役者が一人仕事の忙しさのために芝居を降りることになった。そのため、配役は多少変更になり、私も出ることにした。私の役は貧乏教師のメドヴェジェンコ。今必死で台詞を覚えている。みんながうまく見えてしょうがないが、役者の私と、演出の私は別人と思いたい。
◆それから、唄を10曲ほど作った。一度はどうしようかとも思ったのだが、やはり最初に「かもめ」に対して思っていたことをやってみようと思う。激しく、おかしく、そしてとてもつらい「かもめ」。小道具の統一イメージも固まってきた。
◆まだまだやることが山盛りある。幕間の演出も固めなくてはならない。唄の伴奏はもちろん、音楽はもちろんまだまだ作らなくてはならない。本番スケジュールや図面を作ってあちこちに提出しなければならない。舞台の図面を書き、叩かなくてはならないし、単管やレンタカーを発注しなくてはならない。小道具も作っていかなくてはならない。当日の協力者を募らなくてはならない。置きチラシもすでにそれぞれが地域を分担してあちこちを回った。私は画廊を何軒か回ったが、もう一度行くことになりそうだ。うう、分身が欲しい! 日曜日には、はじめて全幕を通してみる予定だ。
◆ラフレシア円形劇場祭(こういう名前になった)の方も少しづつ進んでいる。2度目の大阪市との交渉。場所の確保が予想通りなかなか難しい。3ヶ月という期間が一番のネックになっている。最初話を持って行ったときは、もうほとんど無理な話としてすごく渋い顔をされたのだが、今日6人(くじら企画の大竹野氏、満月動物園の戒田氏、第2劇場の阿部氏、劇団浮狼舎の神原さん、ことのはの関川氏)で行ってみたら、多少の可能性が出てきたようだ。
◆それから、ひょっとして、楽市が稽古場を持つことができるかもしれなくなってきた。来年の2月で今借りている伊丹の倉庫を出なくてはならなくなって倉庫を捜していたのだが、家のすぐそばに稽古もできそうな倉庫が見つかったのだ。金銭的問題がクリアできれば・・・もしかすると・・・。

8/24 新宿梁山泊「吸血姫」
◆作 唐十郎/演出 金盾進/場所 扇町公園特設紫龍テント
◆以前見たテントよりずいぶん小さくなっている。入ってみると客席も前は段状の椅子席だったのが、桟敷になっている。しかし舞台の門口は広い。こんなに広くて間延びしてしまわないだろうかと思わず心配になるが、始まると全く気にならないばかりか、大勢での唄や踊りには必要だったと納得した。客席も桟敷の方が私はやはり好き。劇場との一体感がある。暑かったのだが、何度もその暑さをも忘れた。
◆唐のこの戯曲はなじみ深い。学生の頃エチュードに使ったりもしていた大変好きな本なのだ。猥雑なイメージが絡みあい、混沌としたなかに、はっとするような鮮烈さがほとばしっている。梁山泊はその戯曲を忠実に、可能性を全て舞台化したようにも思えた。練りこまれた演技と演出。先日読んだ新聞に昔の「小芝居」というものについて書いてあった。「小芝居」というのは、「大歌舞伎」に対して町のあちこちで開かれていた料金も安い芝居なのだが、そこでは様々な役者たちが大歌舞伎を目指したり、また大歌舞伎の合間を縫って、研鑚を重ねていたという。芝居はわかりやすく、重要なポイントは三つ、「笑い、泣き、あこがれ」。「あこがれ」は「カッコイイ」と言い直してもいいと思うが、この三つが今回の梁山泊にはそろっていた。なんというエンターテイメント。唐の台詞の弱者の気持ちを訴えるようなところはいつもせつなくなる。役者たちもひたすらカッコイイ。演出もあらゆることをきちんとやり遂げていて、スキがない。キレのいい、楽しさに満ちた演出。新しい人物が登場するたびにドキドキした。2時間半の芝居があっという間だった。私の中には多分に唐への思いもあったことと思う。今年、初めて挨拶もしたし・・・。なんて役者に向けてひたすらに書かれた台本なのだろう。ほんとに生き生きとした舞台だった。ただ、あんまりエンターテイメントだったので、少し地味ないい台詞の立ち方がどうもぐっと来なかった。たとえば、婦長の額の3本ジワの解説のところなど、すごく好きな台詞なのだが。
◆見ているときはあんなに楽しく、ワクワクし通しだったのに、見終わって夜中になると、よろこんでばかりではなくなってしまった。なぜか。それは、どこか「聖なるもの」の足りなさではないかとも思えた。私は別に特に立派なことを指して言っているのではない。この芝居では、大久保鷹は聖なる衣を纏っていたように感じる。彼は強烈に平凡で、決して上手な役者ではないのだが、状況劇場という場所から生まれた匂いがある。聖なる匂いは、小便やウンコや唾や血の匂いだったりするものだ。唐が「特権的」と呼んだ何か。そんな圧倒的な何かはそこにはなかった。あるのは演劇的な素晴らしさだった。それでいいんだろうかという疑問が沸く。そんな聖性なんてものは、私たちが過去に抱く幻想にしかすぎないのだろうか。けれども、そんな祈りに似た感情が、芝居をすることの根底にあり得るのではないか? 状況劇場にはそれがあったのではないか? たとえば、維新派の松本氏が巨大な劇場を建てるのは、決して巨大さで客を圧倒するべく表現しようとしているのではなく、自らが圧倒された、もしくは圧倒されたいと願うある聖性のためなのではないか? この芝居では、残酷な挫折に満ちた現実を越えて、自由で冷たい荒野としての満州が夢見られる。けれども、その荒野は見えてはこなかったように思う。それは、満州というものに対してのこちらのリアリティのなさのためではないだろうかと、見ているときには思っていたのだが、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。

8/17-2 演劇家族「シガレットチョコレイト」
◆作 山本握微・益山貴司/演出 益山貴司 難波宮跡地
◆舞台◆ほとんど何もない原っぱ。照明も少ない。奥にタバコ屋と大きな煙突。白塗りの役者たち。ほとんどは子どもたち。床屋のオッサン。電気屋のオッサン。頭のよくなる枕を売るセールスマン。タバコ屋のお姉さんとおばさん。など。どこか昔の子ども時代の記憶を並べた、エッセイのような芝居。それらを断片的につないでいく。ラスト、客席に線香花火が配られ、ぼつぼつと皆がそれに火をつける。それが終わると、どうやら全て終わったようで、「アンケートにご協力ください」と言われた。「もう終わり?」という声がささやかれ、拍手も出ない。
◆感想◆維新派のやり口とよく似ているが、もっとずっと子どもっぽい遊びに見える。私にはどれもこれもモノマネに見えてしまって、記者会見のときに「演劇はもういらない」などという主張を聞いていたので(そういいつつ、「演劇家族」という劇団名がおかしい)、ちょっとがっかりした。これは模倣の演劇じゃないか。別に新しいスタイルというわけでもない。維新派はもともと美術の視点から出発したように思う。また、そのスタイルには舞踏との共通項がたくさんあった。演劇家族はそれを演劇のスタイルとして受け取っている。まあ、それはそれでもいいかもしれない。誰でもどこかのスタイルを模倣してはじめていくのだから(私もそうだ)。しかし、演し物には強気の部分などどこにも感じられない。どこかで見たもの(マンガなどで)ばかり。つまらなく、さびしい。夜空の月ばかり見ていた。そうか、これは「幻滅」がテーマの芝居だったのかもしれない。
◆一日に二つの芝居を見て考えたこと
◆新撰組と演劇家族を一日で見たので、どうしても比較して考えてしまう。新撰組の方はもう長いこと芝居をやってきていて、第26回公演。演劇家族の方は平均年齢はまだ10代で、これが2本目とか。前者はなんとかオリジナルなスタイルを作ろうと模索しているように思え、それが演技の濃さや、物語のひっぱり方にどこか無理を生じさせ、芝居が軋んでいるように感じた。おそらく今何か厚い壁を前に手探りを続けている。私もおそらく同世代であり、似た部分があって共感できてしまう。一方、演劇家族はよくある台詞芝居ではなく、コロス的な芝居のスタイルを選ぶことで、それを気軽に自分たちのスタイルとして提示しているようにみえる。それは模倣でしかないが、芝居に軋みはない。私にはそこがおもしろくない。芝居には、必ずしもオリジナル性ばかりが必要ではないとも思うのだが、いや、しかし・・・。

8/17 大阪新撰組「シュメールの五線譜」
◆作・演出 当麻英治/ウイングフィールドにて
◆舞台◆ウイングに多量(2トンといっていた)の砂を持ちこみ、舞台に敷き詰めていた。うーん、なかなかやるではないかと感じた。冒頭、黒い人々がその舞台にうずくまり、花道で少女と老婆がガンガン喋り出す。(ここは花道の奥の方で、前の方の客には少し見づらかった。少したつと見るのをあきらめてしまった人たちも多かった)その後、その二人も交えて、砂の上でのダンスがはじまった。このダンスが迫力もあり、うまい。かっこいい。
◆物語◆5年ほど前にペルシャ料理店があった空き地をたずねるアベックの話と、50年前から届いた手紙によってその空き地にたどりついた様々な人間(着物の少女とその従者のような老女、謎の女風水師、三人の怪奇オタク?の男たち、緑の服を着たデザイナー)がからみあっていく。アベックはそこで楔形文字(5,000年前のシュメールの文字)の記されたレンガを発見し、男はそれを自分が書いた文字だと言う。風水師はその場所がいろいろなものが集まってくる場所だと予言する。ラスト近く、色の組み合わせが一つの鍵になるのだが、それは砂の中から掘り出されたオカリナ(それは土でできた楽器)の音色だった・・・。
◆感想◆記号としてのイメージを様々に組み合わせながら連想を拡げていくという物語の紡ぎ方は、野田秀樹などとも共通するやり方だ。私もそういう組み合わせが好きで、結構使っているように思う。5年、50年、5千年という時間を超えて話が飛んでいく。そして、日本や中国を越えてメソポタミアへとつながるシルクロードの距離。私の「黒薔薇園夜想会」では、その5000年を文字よりも鉄の歴史として扱ったのだが、なかなかうまくいかなかった。こっちの方がうまく物語にしていたかもしれない。役者もそれぞれかなり意識的に個性的に演じている。クセや個性を全面に押し出してやっている。これは方法論としてやっているのだろうが、たぶん好き嫌いは別れるだろう。物語の爽やかさと演技の押しの濃さがこの劇団の特徴なのかもしれない。けっこう笑いもあった。ラストの方、オカリナ以降はどうも納得がいかなかったのは、そんな演技の濃さが消えていってしまったからか。それとも、言葉による繋がり方にあまりリアリティを感じられなくなっていったせいだろうか。冒頭のようなダンスがもう何ヶ所かあれば、見ていてもっとイメージが膨らんだだろうか。芝居全体がキリキリと軋んでいるように思えた。満月工場でも感じたことだが、言葉によってイメージを拡げていくようなスタイルの芝居の難しさをつくづく感じる。正直なところ、観客としてなかなかついていけないのだ。

8/15 奈良旅行より
◆3日間かけて、奈良の寺をいくつも廻ってきた。日本が誇る世界遺産の数々。圧倒的な建築と仏像群。
◆1日目◆まず興福寺。5重の塔が美しい。宝物殿の仏像群が力強い。千手観音の異様さ。この表現の強さはすごい。竜灯鬼像はマリーさんのようだ。阿修羅像の物思わし気な表情。奈良公園で鹿をスケッチし、奈良国立博物館へ。次に東大寺。大仏にはやはり威圧される。ここの法華堂でも金剛力士をスケッチする。夜には燈花祭というのをしていて、奈良の街が蝋燭などの灯りがともる。その中で、シタールとタブラのライブを見た。いやあ、よかった。
◆2日目◆自転車を借りて少し足を伸ばす。元興寺では、この辺の寺が決して当時からそのまま残ったのではなく、衰えたり埋もれたりしながら、復興されたことを知る。それから春日大社へ。寺とは違った広々とした空間。当時の人間たちの賑わいが感じられるようだ。たくさんの小さな幟が立っていて、その作りが面白く、スケッチする。宝物殿で巨大な火炎太鼓を見る。また、鹿の背に榊の木を立て、そこに鏡をつけた絵を何枚も見る。薬師寺ではギリシャ・ペルシャ・インド・中国といった様々なデザインが台座に使われていることを知った。唐招提寺は本堂工事中とかで、中はあまり見ることができなかったが、たくさんの蓮を見ることができ、満足。ここ数年、蓮の花が好きだ。暑さにヘトヘトになりながら結構な距離を自転車で走ったので、休憩のつもりで映画を見る。「トータル・フィアーズ」というアメリカで原爆が爆発するというものだが、これがすごく面白かった。反テロ映画ではなく、むしろ国家の理性的な判断を求めるという映画。
◆3日目◆奈良を少し離れ、斑鳩へ。まず宮本憲吉記念館。有名な陶芸家である。その若い頃の作品からずっと見て、努力と共に作品が自由になっていく流れがあるような気がした。それから発起寺へ炎天下の中を歩きに歩く。三重の塔の内部をたまたま見せてもらい、塔の中心に一本柱が通っていることを知る。ここでどしゃぶりになり、しばしスケッチ。なかなか止まず、句をひねる。「雨宿り塔の瓦が黒光り」「さるすべり雷雨叩いて花揺らし」それから法隆寺へ。一度来たことがあるはずだが、こんなに広かったか。まるで総合大学のように寺が軒を並べる。夢殿の形は落ち着く。百済観音像のやさしい表情。九面観音像はどれも個性的な表情をしていて忘れがたかった。また、玉虫の厨子に未だに光る玉虫の羽があったのには驚いた。
◆あっという間の3日間でまだ消化できていないが、たぶん何かを受け取れたことだろう。さまざまな仏教の教義に基づいてそれらが作られているのはもちろんだが、人の心がそれらを造形し、また人の心がそれらを受け取ってきたということ、そのことが一番の基本だとあらためて思う。

8/10 満月工場「シャングリラ」
◆場所:南港ふれあい港館・テント/作・演出 藤本阿理以
◆テント◆巨大なテントだった。さすがに1ヶ月の仕込みをかけただけはある。舞台の両サイドには広い袖もあり、そこから装置や戦車が現れた。客席の両横には回り舞台。テントの内部はほぼ暗幕で覆われている。花道の途中にはおそらく地面を掘って作ってあるだろうスッポンまであった。テントというより、立派な劇場といっていい。途中に唄などもあるが、そのときは音響脇のボックスでピアノが生で演奏された。やりたいことは全部やろうというパワーが感じられた。
◆物語◆物語にもあらゆることが放りこまれていた。終電の終わった地下鉄の駅から、ホームレスとサラリーマンの二人の男が「シャングリラ」という一種の理想郷へと誘われる。そこは様々な物語の交錯する場所。ラストはまた地下鉄の駅へと戻っていく。上演時間は2時間半。
◆感想◆「やりたいことを全部やる」という方向で芝居を作っていると思うが、その中にはかなり唐の芝居へのオマージュが感じられた。とくに冒頭の障子を使った部分。そして、独白の多さ。ただ、演技も舞台の転換なども今ひとつキレがなかった。集中度に欠けてしまう。拡散は狙った上でのことだと思うが、遊びの強さも、気持ちの込め方もまだまだ甘い(これは自戒も込めて)。芝居という方法を遊ぶことが全面に出ていて、自分が何を込めて舞台に立っているのか、芝居をやっているのかが問われていないのかもしれない(これも自戒を込めて)。だから切実さがない。舞台は遠く美しく収まってしまう。何度もくり返し叫ばれる「踊ろう」と「愛してください」が耳に残った。そして対象的な、ほとんど聞き取れないようなかすれた叫びのラストの「I LOVE YOU」。

8/9(金)立稽古14
◆覚えていようがいまいが、本を離して四幕を立ってもらう。ほとんどの役者は台詞が入っているが、覚えていないものもいて、全てプロンプとなる。役者にとっては針のムシロだろう。少し情けない気もするが、尻を叩くしかない。本来の予定では、お盆までには本が離れていなくてはならない。
◆明日から1週間休み。その後はそれぞれの役を取り上げ、その役を中心とした稽古をする。ここで役を掘り下げることができればいいが。
◆舞台のデザインを少し変えてみる。中央の丸いテーブル舞台を、丸ではなく、大きなカモメの形―島のようにも見える―にしてみる。作るのは手間だが、こちらの方がよさそうだ。

8/7(水)立稽古13
◆キリコ・シン・田口・森江・高橋・広尾が休み。照明の昇竜之助が家族で来る。アカリちゃんが大きくなってもう一人で堂々と歩いている。最初はとまどっていたが、30分もしたら「舞台慣れ」してはしゃいでいた。休みが多かったが、四幕をはじめ、いる人間でできるところをピックアップしながら、細かいシーンをやっていく。流れがつかめないのでなんとなく盛り上がらない。三幕、トリゴーリンとマーシャのからみの途中に現れるヤーコフ(荷物を持って通りすぎる)は、メドヴェジェンコがやることにする。その複雑な思いや、婚約の決まった状況が出せたらおもしろい。帰り際に、皆に「かもめ評釈」(池田健太郎)を読むように言う。台詞の解釈や、スタニフラフスキーの初演のエピソードなどがわかっておもしろい。今なら身をもって読める。

8/6(火)立稽古12
◆キリコ・高橋・広尾が休み。三幕を重点的に稽古する。後半はアルカージナとコースチャに集中。他の役者は外で台詞合わせをしてもらう。一旦、コースチャの演技から抑揚を取り、もっとぶっきらぼうに演じてもらうが、これはダメだと思い、やり直す。今回はもっとしなやかに考える必要あり。また、あまりキャラクターや性格を考えるべきではない。その場その場の台詞だけが手がかりだ。決めつけは禁物。ギンカの声がよく出ていた。きのこ、もっと動きを考えること。全体に動きが少ない。言葉をもっと全身で語ること。また、じわじわと動かずに大胆に動くこと。三幕の皆が家から一度去った後、小間使いがスモモを取りに戻ってくるところ、ドールンが遅れてやってきて、スモモをかじって出て行くことにする。それにしても、三幕になぜドールンはいないのか。「12時に来ると言ってたのに、もう2時だ」(コースチャ)という台詞もある。無用な深読みはしないつもりだが。

8/5(月)住基ネットを許すな
◆電子戸籍◆「国民総背番号制」である「住基ネット」が様々な疑問や反対を押し切って、ついにはじまった。これは、免許証番号や保険証番号などとは、全く異なるものだ。なぜなら、国民全て(おそらく皇族をのぞく)に番号が振り当てられ、それがコンピューターによって管理されるからだ。一部情報漏れの心配なども取り沙汰されているが、たとえ情報が漏れなくても、国家によって個人の情報が使いやすくなることは間違いない。今は住所や氏名など4項目だけだが、これからなし崩し的に情報量は増えていくことは確実視されているし、免許証番号や保険証番号、また納税や銀行口座、前科や病歴なども加えられていくことだろう。不審な個人の弱点を掌握するにはもってこいになる。これは、「電子戸籍」といっていい。「戸籍」は、生まれや育ち、引越し歴、親や親類、結婚歴などの関係性をふくめて、個人を国家が管理する、ただそのためだけに存在する、日本だけに特殊なものだ。その「戸籍」が今、「電子戸籍」として、装いも新たに、かなりのバージョンアップを目指して立ちあげられたということだ。
◆「マスコミ規制法」「有事法制」との3点セット◆この住基ネットは、表向きは住民票を取りやすくなるとか、作業の効率化などと言われているが、実はそんなことはほんとに表向きのことだ。多大の予算を用い、自治体にむしろ多大な労力をかけ、安全性などにも問題を残しながらタカ派と呼ばれる小泉が何をしようとしているのか、それはこの住基ネットと共に提出されてきた二つの法案をみればよくわかる。その二つとは、「個人情報保護法」と「有事法制」である。「個人情報保護法」は住基ネットの前提として考えられたものとされているが、名前とは全く逆の「マスコミ規制法」という名前をマスコミ側からつけられている。つまり、政治家や企業の不法を暴こうというマスコミの活動に制限をかけることができる法律であり、一般の個人のプライバシーを守る法律などではない。この法律が成立すれば、国家がこっそりとやっていることを暴露したり、裏を取ることはとても困難になる。どちらかといえば、「国家情報保護法」の意味合いが強い。また、「有事法制」はもちろん有事の場合には国家に機密の存在を許し、また自治体が国家の命令に完全に従わなくてはならないとする法律である。この場合、有事が何かは定義されない。国家が今日から有事だと宣言すればそれで有事となるのである。この二つとセットになっているのが「住基ネット」なのだ。すでに「盗聴法」は通っているから、これらが揃えば国家による市民管理は万全となる。
◆全体主義的管理国家◆この3点セットが成立すれば、これはどこからみても、立派な全体主義国家だ。おそらく世界中が注目することになるだろう。賞賛されるというより、日本という国が再び何かをはじめようとしていると考えられてもおかしくはない。ジワジワと管理の網目を細かくしていき、気がつけば身動きも取れなくなっているということになりかねない。
◆もちろん、そのような管理そのものが目的の法なのだが、その管理は一体なんのためなのだろう。今、国家は一体なにをしようとしているのか。
◆その目的―テロ対策◆ひとつは、対テロ政策だろう。オウム以降テロには過敏になっていたが、アメリカでの9・11にもショックを受けているに違いない。しかし、テロに対して管理の強化をいくらしても、テロがなくなるとは思えない。むしろテロリストは必ずもっと地下に潜るだろうし、むしろ管理の強化によって、支援するものは増えるに違いない。理由のないテロはないのだ。スターリンは全ての国民をテロリストと疑っていたかもしれない。そのため徹底した管理と支配を行った。3点セットが揃えば、それも可能になる。国家には、管理と支配をしていこうという意思が自動的に目的化されている。周囲がそれを抑制する手段を絶たれれば、必ず暴走を始めるといっていい。これからの行政に必要なのは、管理と支配ではなく、むしろ市民に対するサービスと情報公開のはずなのだが、それに全く反したものだ。
◆目的2―有事◆もう一つの目的として考えられるのが、実際の有事だ。これは北朝鮮や中国との戦争に参加するということを想定している。アメリカは何か理由が生じれば、たちまち攻撃を始めるかもしれない。もしくはどこかで内部紛争が起きたとき、そこに「調停」を理由に軍事的な行動を投入するかもしれない。その場合、日本もアメリカにならって、「有事」として軍事介入をするということだ。この場合、すでに法整備がなされていれば問題なく軍事行動がとれるし、そのことによって日本という国家の「威信」を取り戻せると考えている。
◆目的3―憲法改正◆上の目的のために邪魔なのが、憲法9条だ。この改正をしてはじめて一連の法改正は仕上げられる。そのためには反対論者を表に出さないようにしていく必要がある。3点セットや盗聴法があれば、そんなことも可能になるかもしれない。一方で「国歌・国旗」や、「歴史の見直し」によって、若い世代から愛国者を育てていくという教育方針もすでに取られつつある。
◆目的4―封じ込め◆どんな目的があるにせよ、国家が何かをしようとする時の反対者を封じ込める役には十分すぎるほど役立つ。コンピューターというブラックボックスを通すことで、さまざまないやがらせが可能だし、人為的ミスを装うことで、情報を意図的に漏らすこともできる。その証拠を調査することも「個人情報保護」の名目でできなくなるだろう。これらは公の情報公開を進めるという方向とは全く対立した考えなのだ。小泉は「氏名とか住所でしょ。こっちは何から何まで公開されちゃってんだから、こっちの方が守って欲しいくらいだ」とニヤニヤと言っていたが、あれは十分「本音」だと考えていい。「あんたらの情報は全部握らせていただきますよ、変なことしたらすぐに対応できるようにね。こっちの情報は出したいものは出すが、出したくないものは出さなくてもいいようにちゃんとしていきますよ。」そう語っているに等しい。
◆いかに闘うか◆どちらにせよ、すでに稼動を始めた住基ネットだが、これと闘っていく必要は十分すぎるほどある。もちろんプライバシー保護という理由も当然あるが、そんな生ぬるいものではないということも自覚しておいた方がいい。とりあえずの戦い方として、櫻井よし子さんが呼びかけている、自治体への訴えを取ることにしよう。また、私の友人でもある戸田ひさよしさんがあらゆる情報と戦い方をホームページに乗せている。一人の芝居するものとしても、絶対に許すことはできない。今からでも遅くない。
戸田ひさよしホームページhttp://www.ne.jp/asahi/hige-toda/kadoma/

8/4(日) 立稽古11
◆昼の1時から6時半まで稽古した。役者はイチハラ君以外全員集まる。森江さんの奥さんであるピョンさんが見学に来る。美人です。また、入団希望の広尾君来る。途中休憩中に入団が決定。未経験だが、やる気満々。28歳の男。
◆舞台図及び役者の動きのレイアウトを作っていったので、それを伝え、試していく。円形劇場では客が全方位にいるので、映画でいうと、固定カメラではなく、手持ちカメラやレール上のカメラで撮っているような感じだ。そのために、レイアウトは絵ではなく、将棋の棋譜のようなものが必要になる。
◆まず久しぶりに皆で体を動かす。皆固い。年齢もあるのだが、もっと軟らかく、敏捷さが必要だ。そして体力も。声の力も。前日遊劇体を見たせいか、声に少しこだわる。今から出しておかないと、それこそ本番持たない。結局一幕と二幕しかできなかった。それでも、多少は本番の舞台が見えてきた。
◆稽古の後、飲みに行く。演出の疑問点など。私は今回演出に関しては具体的なことだけでなく、なぜそうなのか理由も明確にしたいと思っているので、ついつい説明が長くなり、役者が動いている時間が短くなってしまうのではないかという不安を持っていたのだが、役者の方はそれで納得がいっていいようだ。ただし、役者はそのぶん稽古場以外でも自分で仕込んでこなくてはならない。それがまだまだ遅れている気がするのだが。盆休みが終われば、あっというまに本番が来そうだ。

8/3(土) 遊劇体「二人で狂う」
◆作:イヨネスコ/演出:キタモトマサヤ/出演:菊谷高広・大熊ねこ・坂本正美・小寺有紀・三輪圭介・こやまあい・晴邦・源馬美樹・石垣睦/場所:扇町公園特設野外劇場
◆舞台◆客席の前に部屋の空間。その左右に足場で組んだ塔。奥にも塔があり、その頂上には月か太陽かの美術がある。それらの向こうには、公園の風景がずっと見えている。そこで遊んでいる者たちの声も聞こえる。何度も人が通り過ぎる。コロスの役者が鉄塔の美術を叩くと、それは半鐘のように鳴った。そして金網が吊るされ、部屋は金網で囲まれた。
◆物語◆話はあってないような、よくわからない話。密室の中の男と女。ほとんどナンセンスな会話。カメとカタツムリが同じだと主張する女と、それは違うという男。どうやら二人とも家庭を捨てて一緒になったらしい。そしてここに閉じこもっている。外部では戦闘が激しい。ドアの外では石が降ってくるし、壁に穴があき、上からは様々な物体が降りてくる。いつしか、外の戦闘は止んでいる。・・・ラストのあたりは台詞などどうでもいい気分になってしまい、どこからどうなったのか、よくわからなくなってしまった。
◆感想◆次々と繰り出される演出的仕掛けが楽しかった。冒頭の半鐘といい、次々と襲う外部からの攻撃、上から降りてくる物体、ボールを金網にぶつけては繰り返すキャッチボール、ラスト近くの遠くでの旗振り、そしてフィナーレのしゃれたダンス。これらが密室劇を解体していく快感。それらはイヨネスコの戯曲自体の魅力というより、イヨネスコの解体でもあった気がする。イヨネスコの戯曲そのものは、もっとナンセンスな軽さに溢れていて、それが理屈っぽいいやらしさのような気がするのだが、演出はそんなところを無視しているような気がして、それが快感となった。二人の役者も全力をふりしぼっての演技で好演。きっぱりとした強い舞台だった。キタモト氏の自信が感じられる。
◆批評◆パンフにもイヨネスコのことを「キライじゃない」とあったが、やはりこの戯曲を好きというところまではいっていないんだなと思う。だから、戯曲の言葉のニュアンスなどふっとばしている。芝居にしないで、ショーにしたともいえる。それはそれで潔い。しかし、その力技の影には、一抹の淋しさも感じる。明るい廃墟。貧しい言葉。イヨネスコの台詞の自虐的な部分や笑いやからかいは感じられなかったし(まあ、いらんと言えばそれまで)、ラストのあたりの台詞もこちらに入ってこなかった。
◆翻って◆私達の「かもめ」の作り方から言うと、正反対だともいえる。私は戯曲が好きでたまらなくて選んでいる。こちらは戯曲の言葉を自分たちに身近に、ずっと感情的にとらえようとしている。声も張るばかりではなく、もっとしなやかにもって行きたいと思う(声の響く大きさは必要だ)。演劇をもっと引き寄せて、掘り下げ、「艶劇」にしたい。芝居を解体・進化させるのではなく、どっぷりとはまって、深化させること。今回は特に、「生きた人間」を艶じること。キタモト氏は男女二人のからみを「死者の語り」としたが、そこが一番違うことになるかもしれない。

8/2(金) 立稽古10
◆シンさん来る。連絡なしで休んだり遅刻したりすることを厳重注意。一幕・二幕をあまり止めずにやってみる。ぜんぜんダメだ。少し焦ってきた。こんな調子で本番までに間に合うだろうか。

7/30 立稽古9 と 挟みこみ
◆海老氏、萩原氏、殿村氏、それから高橋が休み。一幕を最初からやっていく。だいぶ本が離れてきた。まだまだ固いところが多い。これから先は本を離さないと、進めなくなってくる。もっと動いて欲しいからだ。もう7月も終わり。これで、全体の1/4の稽古数が過ぎた。日程としては1/3を過ぎていることになる。今回、日程としては余裕を持って望んだつもりなのだが、それが逆に変な余裕の気持ちを生んでしまっているかもしれない。いつもなら、1月前に本があがったりして、みんなあっという間に覚えてくれるのだが・・・。うーん、まあ、それがいいわけではないが・・・、それにしてもちょっと遅れている。次の日曜には通すつもりなので、そこでは本を手放してもらう予定なのだが、大丈夫だろうか。それから、うーん、休みが多いぞ、萩原慎! 読みあわせを含め、今までの稽古の1/3くらいしか出てきていないぞ! 事情はわかるのだが、なんとかならないか? ・・・と、今日は頭を抱える演出のぼやきでした。遅れていた本があがると、いつも急に強くなりたがる?
◆チラシとチケットが上がってきたので、昨日チケットのナンバリングと当日精算の判子押しの作業をした。今回のチケットは二つ折。ちょっとかわいい。これを喫茶店の片隅などにちょっと置いてもらいたいと思っている。チラシも野外演劇祭以外に挟みこみをせず、あちこちに置いてもらったり、貼ってもらうつもり。だから枚数も少ない。貴重で大事なものとして扱いたい。
◆そのできたてのチラシを持って、遊劇体と満月工場の挟みこみへ行く。暑い中、どちらも大変だ。遊劇体はいつもより小さい舞台で簡素ながら、いい雰囲気の美術。舞台は金網で囲まれていた。その奥の鉄塔の一番上のタンカン組みをちょっとだけ手伝う。ホントは5月にさんざん手伝ってもらっているので、もっともっと協力しなければいけないところなのだが・・・。ごめんなさい。で、その足で行った満月動物園は、テントにしてはこりゃでかい! そでもたっぷりあって、いろいろ隠されている様子。ダンボールでできた戦車などがチラリと見えた。7月のあたまからずっと仕込み続けているのだ。挟みこみをしているあいだも、まだまだトントントカトカは続いていた。あさって本番のはずだが、大丈夫なのか、とも心配するが、みんな落ち着いた感じだったから、大丈夫なんでしょう、きっと。私は今週の土曜に遊劇体へ、満月工場は来週に行こうと思っている。いやあ、楽しい挟みこみだった。
◆その足で創造館へ場所の申込へ行き、もうついでだと、中之島の場所の下見に。木々のあいだの場所をうろつく。あと2ヶ月半先には、すっかり秋になっているだろう。

7/29 新聞から
◆あさはかな事件◆群馬で、36歳の男が高一の女子を殺したあとで、身代金を要求、逮捕された。また、東京駅のコンビニで万引きした34歳の男が、店長を刺し殺す。執行猶予中で刑務所に入れられると思ったという。あまりにあさはかな殺人。池田小の宅間もそうだ。これら30代の男たちは、しかられたくてわざとイタズラをする幼児に似ている。他者と関係を持てなくて、そのあげくの殺人という関係衝動。なにか無茶をしなくてはおさまらない気持ち。
◆ケータイ◆この世界は「ノレンに腕押し」「ヌカにクギ」的な、手ごたえのないものであり、人々はみな薄ら笑いを浮かべた「ノッペラボウ」で、自分は「透明人間」である。そう感じていた時代があった。今でもふいにそんなときもあるが、仕事や芝居など現場でのすったもんだで、少しずつ自分や他者がわかってきた。いろんな人のおかげで。私たちの世代は「鍵ッ子」、もっと下の世代の孤独はより大きいだろう。だからケータイが十字架のように大事になる。けれども、人となれあうだけでは互いに透明になるばかりだ。10代20代のケータイ所持は約8割、忘れると不安を感じ、相手が出ないとイライラするという。
◆自己と他者◆犯人たちは、関係衝動というより、何者かになりたい衝動として感じているのだろうが、その2つは背中あわせになっている。「人にはわからない。自分は自分だ。」というのもある程度大事だが、それは実は自分をも消していくことになる。自己は鏡のように他者に照らされながら現れるからだ。ところが、鏡にいくら自分を映して確認したところで、自己はだんだんわからなくなってしまう。他者の持っている別の自己を見つけてこそ、自分の自己も成長できていく。それには体と頭をまるごと使う労力が必要だ。最近、テレビゲームを続けていると脳のベータ波が下がることがわかった。ゲームをやめてもなかなか戻らない。労力をかけるのがしんどいという、孤独好きがまた増えていく。
◆世代◆関係性の希薄さは、この日本の決定的な特色だろう。日本人は「言わなくてもわかるし、わかってほしい」という感情が言葉より優先するほど、本来濃い人間関係をもっていた。今でも、私たちは相手の言っている内容よりも、言外のことに対して敏感だ。一度感情的になると、全てはその感情の上でしか聞こえなくなる。ところが、その言外についての感覚は、逆に鈍くなり、それぞれが自己中心的に考えがちになっているように思える。いつから崩れたのか。現在の60代以上の人たちは、戦中・戦後に育った。あまりかまってもらえなかったが、まだ大家族があった。また、戦後の価値転換を経験し、その後の社会変化も大きい。その子どもたちが現在の30代〜40代。価値観や生活スタイルはもう無茶苦茶だ。もう少し下は団塊の世代の子どもたちになる。親子ともに問題をかかえている。
◆自殺と虐待◆去年の自殺統計も発表された。4年連続で3万人を超えている。99年をピークにほんの少し減りはじめているが、60代が最も多い。この60代と30代〜40代は親子にあたる。そして、どちらもこの日本で関係性の希薄さに押しつぶされているように思える。老人に対する虐待も問題になっている。下の世代ももちろん例外ではなく、児童虐待はこの10年で16倍の件数に増えている。孤独とギスギスしたイラツキが、日本中を覆っている。警察に捜索願いが出された家出人も、17年ぶりに10万人を越えた。労力を惜しんで互いが理解しようとしなければ、わかってもらえないと早く結論を出したくなる。互いに待っていられないからイライラする。
◆言わなければだめだ◆もはや、互いに言わなければだめな時代だということを、確認しよう。私たちはつい人の言外のことにばかり注意を向けてしまうが、それよりも語られたことに注意を向けたほうがいいし、また恐れずに語るべきなのだ。「言外」のための礼儀や理解力そのものが、すでにかなり衰えているのだから。たがいに生活習慣やもっている意見も違ったりするのだから。たとえ家族でも。外国人同志の陽気さ、気さくさ、汗をかきながら一生懸命語る姿を見習うくらいの気構えでないと。それはスマートなことでも、おしゃれなことでもないだろう。謙虚さが美徳というのとは相容れないだろう。もちろんケンカ腰である必要はない。多少感情的になってもいい。「言い方がヘタで、つい墓穴を掘る」なんていう思いも吹っ切っていこう。そんなことは、持続的なつきあいの中なら十分修復可能だ。

7/28 ラフレシア演劇祭(仮称)のための集まり
◆うちとくじら企画、満月動物園がとりあえずの発起人ということで、「ラフレシア演劇祭(仮称)」なるものを現在企画中だ。来年の春、ラフレシアにいくつもの劇団が集まり、連続で公演を行うというもの。この日は、そのための何度目かの打合せだった。
◆最初はなかなか集まっても参加を表明する団体・個人は少なかったのだが、劇団浮狼舎を皮切りに、だんだんと集まりつつある。この日は、第2劇場の安部氏、未知座小劇場の河野氏、西田シャトナー氏、フリーの猪岡氏、水の会の奥野氏らが集まった。第2劇場は参加を表明、河野氏、西田氏も、積極的に考えてくれるようだ。あと、この日は来れなかったが、大阪新撰組も前向きに検討中。面白くなりそうだ。
◆新しく来たメンバーたちに「なにがやりたいの。なんでやりたいの。」と突っ込まれ、たじたじの発起人たちであったが、大竹野氏の言うように、企画にあえて強い意味付けを避け、集まったものたちが主催者として企画を立ちあげていくことに意味がある。それぞれ、なぜ自分がここに来たのかを語り、その中で、この企画に意味を捜していく。今回の会議では具体的なことはまだ決まらなかったが、その後の飲み屋で、あれこれといろいろな企画案についても話が盛り上がった。
◆わたしたちも、以前何度か演劇祭なるものにも参加している。しかし、大阪以外が多かったせいもあり、他の参加劇団との交流はほとんどといっていい程なかった。今回は参加者同志の交流が面白いし、一番意味のあることだと思っている。自分らが企画して、自分らがやる。世話人はいない。それでうまくいくのかどうかはまだわからない。互いの芝居についても、これからもっと語ってもいい。同時に、世間に向かっても、自分たちの芝居のことを語ってみたいと思う。この企画がそんな機会になっていけば、どんどん面白くなって行くはずだ。次回、18日にまた集まる予定。その日にはまたメンバーが増えていることだろう。もし、これを読んで興味を持たれた方がいましたら、ご連絡ください。誰でも参加できます。くわしくは、楽市楽座のHPを見てください。

7/26 立稽古8
◆翻訳が終わった。読みこむほどに、いい戯曲だ。終えてますます気がひきしまってきた。なんとかこれを史上最高唯一無比の「かもめ」にしたい。まだ、ト書きの書きかえがほんとは残ってる。それは稽古場で練っていこう。
◆萩原慎・森江流・睡きのこが休み。こうなると、なかなかできるところがない。ソーリンとアルカージナのからみ。ニーナとトリゴーリンのからみ。四幕のロトゲームのところをやる。何度も何度も細かくダメだししながらやっていく。なぜそのセリフがあるのか。
◆もっと動きが必要。視覚的でない芝居など、芝居ではない。じっと立って思いを語る芝居など、見ていられない。芝居はなによりも、見世物だ。役者は汗をかかねばならない。たとえチェーホフだろうと、それは変わらない。なにしろこっちは「演技のサーカス」を標榜してるんだからね。「言わずもがな」の演技など、艶技ではない。広い場所で長時間の稽古がしたくて、8月4日の稽古を決める。
◆終わってから、制作計画について話し合う。今月末にはチラシ・チケットもあがる。さあ、これからだ。

7/24 立稽古7
◆全般◆きのこが明日本番のため休みだったが、あとは全員揃う。四幕の途中までを渡す。あとちょっとだ。全体的にまだまだの印象が強い。一幕のソーリン・コースチャ・ニーナのところ、四幕読み合わせ、三幕全体をやる。まだほとんど皆本を持っているのだが、セリフの解釈を伝えていく。そうしないと、芝居がだれてしまい、はっきりとしてこない。
◆それぞれの役者の課題◆
シン:野性的なコースチャが見えてきた。セリフ多いがもっと頑張って欲しい。姿勢かたい。目を細めない。もっと反応を。
キリコ:セリフがだいぶ入ってきて、毎回思い切った芝居をしてる。もっと意識的にからだに軟らかさを取り入れること。
ギンカ:かなりニュアンスに富んだ芝居ができてきたが、流されず、素早い反応を。声を作らない。発声練習必要。
コムロ:セリフ入れること。もっとキリリと明確に。肉体訓練必要。
イチハラ:セリフほとんど入っている。芝居も明確だが、動きかたい。もしかすると肉体訓練が必要かも。
トノムラ:思い切った芝居が気持ちいい。場面を切る、そんな役割が見えてきた。セリフを正確にすればもっと拡がり、余裕もでる。
タグチ:生き生きとして、相手にうまくあわせている。多少相手を挑発するくらいに。
モリエ:今日はあまり出番なし。まだまだこれから。いかに真剣さがでるか。
エビ:まだまだだが、なんかやってくれそう。セリフの長いところもがんばって欲しい。もっと芝居を作りこみ、引っ張って欲しい。
キノコ:(今日は休みだったが)いい感じがでてきた。あとはリズム・テンポ。この芝居、四幕とも冒頭にマーシャがいるのだ。
◆演出の課題◆
 終わってから、ひょっとしてこちらがいろいろ言うことで、役者が自分で考えることを阻害してしまうんじゃないかと心配になる。もっとていねいに、もっと生き生きと。次回そう役者に伝えよう。一方客演にはまだ演出が足りないかもしれない。皆さん遠慮がち。台本があがったら、通してみよう。もっとはげしく。
 四幕、2度ほどコースチャが「メランコリックなワルツ」を舞台の外で弾く。ギターにしようと思う。
 訳しながら、四幕ニーナの登場には思わず泣けてしまう。ここ、一度コースチャを去らせ、舞台に一瞬誰もいなくなる。なんて心憎いことするんだろうね。そして、冒頭の2人のときとほとんど同じセリフ「誰かいるわ」「誰もいないよ」。これが状況がまったく違っている。こういうことがいくつもある。馬を出す出さないのやりとり。マーシャのあがき。
 コースチャが一つのドアに鍵をかけ、もう一つには鍵がなく、椅子でドアをふさぐという行為の指定。ここもやるよなあ。トリゴーリンに雑誌を手渡されたコースチャのセリフ「自分のは読んでるくせに、僕のはページも切ってない」。無視の残酷さ。この言葉のあと、彼が部屋を出ていくその気持ち。その後のトランプ遊びの中、マーシャが何度も繰り返す数字は、まるでカウントダウンのようだ。再びコースチャのワルツが聞こえてくるが、そのことは誰にも語られない。この音が止む箇所の指定はないが、きっと知らない客はちょっとぞっとするんじゃないだろうか。けれどもコースチャは静かに戻ってくる。この不在の描き方。これらをただすんなりやってしまう手はない。それでは、複雑であいまいになる。多面体のように明確に立体化すれこと。この本はほんとに面白い。

7/23 「生きかた上手」日野原重明
◆こんな人の本◆ちょっと前に読んだ本なのだが、書いておこう。今ベストセラーになって、本屋で平積みされている本。著者はすでに90を越えている現役の医者。テレビでこの人を見て、あまりの元気さに興味を感じたので本を読んでみた。この先生、平均睡眠時間は4、5時間で、しかも週に一度は徹夜して原稿を書き上げるそうだ。階段も普段から2段抜き。すごい! タフマン! 明治の人! 私、長生きの人間は尊敬してしまう。また、「成人病」を「生活習慣病」とすることで、予防医学の重要性を提案し続け、終末期医療(ターミナルケア)を実践している人でもある。「聖路加国際病院で死にたい!」という人も大勢いるらしい。
◆内容◆読みやすい本ながら、奥の深いことがたくさん書いてある。たとえば、ボランティアはほのぼのとした好意だけではダメで、やるならきっちりとプロフェッショナルな仕事をしなくては、周囲にも本人にもためにならないこと。医療の原点は「手当て」であり、患者とのコニュニケーション・触診・会話が最も重要であること。自分をとことん見つめ、愛し、そのうえで人と十分にかかわることの大切さ。与えることが自分を愛することにつながること。患者の自覚・知識の重要性。人生のビジョンはいくら大きくてもよく、自分が達成できなくてもバトンタッチできればいいこと・・・。(これらはかなりの部分、ハーディの著作とも重なる)
◆音楽療法士◆まだ国家認定はされていないが、この病院にはこういう人がいるらしい。ひとりひとりの患者のために音楽のテープを作ったり、患者の書いた詩に曲をつけたりするそうだ。人は生まれる前から、そして死ぬ直前まで聞こえるという。これは「病気を治す」から「患者を癒す」への一番の方法的実践だ。こんな仕事がこの世にあるとは知らなかった。素敵な職業だ。

7/22チャールズ・ハンディ「もっといい会社、もっといい人生―新しい資本主義社会のかたち」埴岡健一訳
◆どんな本か◆原題を訳すと、「飢えた魂・資本主義を超えて―現代社会における希望の探求」となるだろうか。実は訳者が私の古い知りあいなんだけど、ひいき目ではなく、面白かった。著者はイギリスの著明な経営思想家。でも、単純なビジネス書ではない。現代の資本主義社会において、どういう理想が考えられるかを述べている。理想の労働、企業、社会、教育、政府にまで話は及ぶ。
◆内容・前提◆まず、現在資本主義が陥っている問題として、カネ至上主義と、膨大な貧富の差があげられる。世界の労働人口の1/3は失業もしくは不完全就業にあるし、米国の金持1%の所得合計は貧乏人40%より多く、その金持400人の資産合計はインド・バングラデシュ・ネパール・スリランカの国民総生産に匹敵し、また世界貿易の70%を牛耳っているのは大企業500社であり、そのうち70社ほどは多くの国家よりも大規模な経済単位として君臨している。一方、若者たちは昔よりも将来に希望が持てないし、人々も生活が向上していると思えなくなり、さまざまな環境も悪化している。これらはほぼ間違いなく効率化と独占を生み続ける「市場」が作り出した世界だ。
これに対して著者は「適正な自己中心性」が重要だと説く。これは、他者を前提とした自己中心性ということだ。あくまで自分の人生の価値を探求することが人間にとって最も重要なことなのだが、それは「カネを多く儲けて、成功をおさめる」という単純なものではなく、むしろ現代において人々はそういうものに価値を見出さず、「自分を超えたもっと大きな目的」のために生きたいと思い始めているというのである。これは盲目的な宗教性ではない。それはときに「自己中心性」を奪ってしまう。彼は、「自己中心性というのは、必ずしも自分自身で完結するわけではなく、むしろ他者のために生きるとでもいうこと、または社会のためになりたいということ、またそれら他者や社会からうけいれらえたいということなどと密接な関係にあるのだ。また、それは他者や社会に対する責任ということでもある」と主張する。つまり、適正に考えてみると、自己中心性というのは他者をも含まないと成立しないということ、それを自覚することの重要さを説く。
ここからどのようなことが考えられるか。
◆企業◆企業におけるカネ以外の存在目的の重要性があげられる。企業がカネ至上主義である限り、労働に自己実現はない。けれども、自己実現のない労働からはどんどん人材は離れていく傾向がある。そのため、さまざまな企業がカネ以外の理念を持ちつつあり、そのため永続的な活動を実現しているという。メリー・ケイ・コスメティクス(化粧品:女性に無限の機会を与えること)メルク(医薬品:人々の生活を守り、改善すること)ソニー(公共の利益のために技術を開発し応用する喜びを、経験すること)ウォルマート(ディスカウント・ストア:普通の人々に金持とおなじものを買う機会を与えること)ウォルト・ディズニー(エンタテインメント:人々を楽しませること)などがそうだ。このような理念を持つためには、企業は人材を「所有」しているという考えを捨てる必要がある。むしろ町や村のような公共の場に近くなる。労働者は傭兵ではなく、市民になるべきだ。そこには経営に関する全ての情報開示、大組織の中の小組織が独立した決定権などを持つこと、労働者が管理者を「雇う」システム、カネ以外の価値に対する積極的な企業関与と責任(市民としての企業)などが必要となる。これは労働組合による企業運営のようにみえる。事実著者もそれに近いものとして考えているようだ。処罰や管理ではなく、いかにして積極的に、価値あるもの、また責任あるものとして個人が労働をとらえることができるか。そのための互いの信頼をどのように作り出すかが具体的に考察される。
◆教育◆同様に、社会の基礎としての教育のあり方にも言及する。彼は現在の学校を「あまりに多くの人々が学校生活を挫折経験として体験し、無残な自己評価とともに卒業し、自分は愚かで無能で未熟だと思っている。これは、これから職を求めたり、独力で人生に対処しはじめるための出発点としては、考えられるかぎりで最悪の出発点だろう。」と批判する。学校がもっとプラスの自己評価を得る場所にならなくてはならない。誰にも何か得意なことがあり、それを見つけるべきなのだ。また、学校ももっと子どもに責任とやりがいのある仕事を与えるべきだ(学校は職場をまねるべき)。同時に、もっと体験的な学習が必要であり、実際に起こる前に学ぶばかり(今の教育はほとんどそうだ)ではなく、体験から考えたり、学んだりすべきだともいう。(このあたりは、今よく読まれている斎藤孝の主張とも共通する点があるように思う。彼は現在実際の教師もしていて、もっと具体的(教室的)に「コメント力(要約力・質問力を含む)」「段取り力」「まねる盗む力」をあげ、それらをまとめて「生きる力」を育む重要性を説いている。)
◆政府◆政府の責任としては、まず第一に冨の再分配があげられるが、これが実はうまくいっていない。政府は市場に引きずりまわされ、一方で財政は逼迫し破綻寸前である。(現在の欧州連合に参加している15ヶ国では、政府は自国の国内総生産の42%から59%の政府支出を行っている。米国と日本は35%、シンガポールと香港は20%以下)支出は次世代からの借金という構造を持ち、そのうち半分を占める福祉と年金は、高齢化に伴い増大していく。これに対して、著者はもっと用途別の税の導入や、直接民主主義による決定を求める。市民陪審制・市民自治などで、責任と自覚を高め、一方で行政サービスの多様化と選択可能性を広げる。最低限の部分の保証を広げ(たとえば最低限の衣食住の無料化)、一方で多様な働く場を創出し、少しでも働くことの意義を拡大していくべきだという。重要なことは、市民のための情報開示と、意思決定権の拡大なのだ。そのぶん負うべき責任も大きくなるが、自覚も増していく。人民が国家に仕えるのではなく、国家が人民に仕えなくてならない。国家政府はさまざまに民営化され、国際的な問題にかかわる機関としての役割が主となる。
◆感想◆かなり説得力に富んでいると思う。今の資本主義を踏まえた上で、一体どのようなことが可能なのか。働くことや学ぶことの意味をもう一度考え直す重要さを示唆してくれる。自己中心性を適正に肯定し直すこと。他者を信頼し、肯定し直すこと。企業や労働や市場を適正にし、価値あるものとして肯定しなおすこと。教育や政府を、とくに民主主義を再定義し、肯定し直すこと。そんなさまざまな新たな肯定づけがここにある。
しかし、その実現過程への具体策が描かれているわけではない。政府も企業も変わろうとしているだろうが、今の日本を見る限り、そのようなトップダウン方式では変われそうにないようだ。なにしろ、トップにい続けているものにとっては、メリットよりもリスクの方が大きい。また、下からの改革にしても、すんなり行くようなシステムがあるわけではない。情報公開ひとつにしてもそうだ。(戸田氏のホームページを見よ)企業も社会も変えるためには、どれだけ情報開示を求めていくか、個人が自覚を持ってさまざまなことにどれだけ関与していくかが問われるだろう。
実際のところ、これだけ市場経済がわけのわからない巨大さを持ち、誰がどういうわけで失職したりするのかよくわからず、株や為替で儲けてるやつの金額が実体経済をはるかに超えて世界を支配しているとなると、「もうなんでもかんでもやってくれ。どうせわしゃしらん。好きにさしてもらうわ。」という感覚も蔓延してくる。2極化は経済だけではないのだ。そうやってジリジリジリジリ尻に火がついていくような生活感覚を、わりと若い連中ほど持っているような気がしてならない。そこにはすでに他者性が消えかかっていることが自覚されてもいる。そんな悲鳴とも呟きともとれる声が満ち満ちている。「適正な自己中心性」どころか、「自己」を守るのに必死で、「自己」の中でクルクルと遊んでいる。
重要なのは「他者」なのだ。他者と出会うこと。確かにそこにしか「自己」を見出すことはできない。わたしには、まずそういうメッセージとして読めた。そして、その「他者」との出会いの根拠は、斎藤氏がいうように、自分のからだの感覚だ。日本ではそこまで壊れかかっているのかもしれない。まず、からだを、自己を、他者を肯定し直すこと。
芝居にも社会的な価値があるとすれば、そこにあるような気がしてならない。この本を読んでいて一番考えたことは、自分たちの芝居には社会的価値なんてもんがあるんだろうかということだった。きつい問いだ。

7/21 WI’RE 「MESS」
場所・住之江の倉庫/作・演出・美術 サカイヒロト/出演 江口恵美・中平みほ・三好淑子・後藤七重・酒井アンナ・久保亜紀子

◆前評判◆ワイアーというのは、劇団ではなく、サカイ氏一人で人を集めてやっているそうだ。サカイ氏は以前クロムにいたという。倉庫を長期間借り切って仕込んだ芝居で、観客はヘッドホンを耳に芝居を見るという、しかも出演者は女のツワモノばかり、そんな前評判を聞いていて、そりゃすごくおもしろそうではないか、と思って出かけていったのだが、残念ながら期待はずれだった。
◆がっかりしたこと◆まず最初に倉庫に入ったとき、その倉庫の風景はほとんどビニールできれいに覆われていて、ちゃんと舞台はこっち、客席はこっちとなっていて、あれれと思う。舞台奥には映像が写されていたのだが、どこにも野蛮さが感じられない。かといって豪華とか異様というわけでもない。それに、ヘッドホンといってもウォークマンのイヤホン。一応ステレオだが、つけてくださいという合図のときにつければよくて、またつけなくても別にいいらしいと説明を受ける。私は遊園地のヘッドホンによるヴァーチャル恐怖館のようなものを期待していたのだが(まあ、勝手にだが)・・・。だから、必死にLとRを確認もしていたのだが、結局芝居の途中でこれはあまり関係ないみたいと、つけるのをやめてしまった。
◆芝居と感想◆ちゃんとストーリーのある芝居で、エステサロンが舞台で、そこに来たOLが変なエステをされたり(後半はほとんどほったらかしだが)、死んだはずの女優がかくまわれていたり、秘密を握ったライターが殺されかかったり、エステの副社長みたいな女が新入社員の女の子の顔を剥ぎ取って顔を入れ替えたり、化粧品のセールスレディが何度か入り込んで暴れたりと、わりと客を楽しませようとしている。けれども、私にはいまひとつ入っていけなかった。なんだか最初から最後まで同語反復を繰り返している。芝居の転換もスッキリしないので、いろいろやっているわりには変化に乏しい。これは自分の好きなものを集めて並べただけで、つっこみが甘いんじゃないか? あなたの好きなものがどんなものかはわかるが、別に紹介してくれなくてもいい。オマージュならオマージュとしてもっとやり方があるだろう。たぶん、もっともっと女たちへのオマージュにするべきなのだ。女優たちは皆堂々としていて、バリバリ芝居をやっていてステキとは思うのだが、それが集結していかない。せめてもう少し倉庫性があれば、女たちのレザボアになったかもしれないが。チラシには「顔がキライ」とあったが、「顔がスキ」にして(実際女優たちはみなオノレの顔に自信がありそうだった)、もっともっと自分本位な愛をガンガン追い詰めて欲しい。これじゃ、まだ「異形の美」とはいえない。もちろん、こんな企画をやれるだけのエネルギーはすごく高く評価されていいし、しけた芝居が多い中、熱いものはあると思う。だからこそ今回は惜しい気がする。次回に期待したい。もっとやってくれ!

7/20 清流劇場「うさぎの電報」
◆扇町ミュージアム◆久しぶりに行った。便利な場所だ。劇場としても悪くない。心に残っている芝居もいくつかある。青い鳥の「シンデレラ」、クロムモリブデンのカメラが汽車のように現れた芝居、少年王者館の「マタタキノの館」(?)、エーテルの三人姉妹、犬の事務所の「あ・うん」、遊気舎のエレファントマンを扱ったもの、など。そう考えると、いろいろ見せてくれた小屋だ。ただ、私は自分がやっていないということもあって、あまり思い入れはない。思い入れがあったら、なんとかやってみたのかもしれない。パンフレットと一緒にどっさりと渡されるチラシの量が、この小屋の役割を示しているような気がした。今回、私達のチラシはこの中には入らないことになる。
◆「うさぎの電報」◆ある村でのダム建設反対運動を描いた芝居。全員が最初に喪服で現れ、失った村を回想していくという形式をとっている。作者はずいぶんと資料を集め、運動をまじめに受け止め、かなりの部分実話を再構成しているようだ。役者のほとんどは出ずっぱりで、周囲の階段に座り、出番のときには前に出て、語る。音楽もなく、照明変化もほとんどない。ゼラも使わない。暗転もなし。ときどき、吊るされたドラム缶を叩くだけだ。非常にまじめで、笑いなどない。会話にもほとんど動きはない。話は元衆議院議員の男が村のダム建設に反対する中で、議員をやめ、結局村はダムに沈むまでの、彼と彼の妻、彼と共に戦いつつ、結局村を去った農民などが描かれる。何度もくり返し語られる言葉、「勝つ」「負ける」「政府」「民主主義」「正義」。
◆感想◆ラスト近く、死んだ夫(元議員)を否定するような妻の言葉に唯一リアリティを感じることができたが、芝居は死んでいた。悲観と理屈ばかり。実際の運動はもっと生き生きとしているはずだ。人の営みが見えてこなかった。ただ、資料を伝えるためなら、芝居にする必要はない。むしろ会話として切り取るだけに、話は狭くなる。資料の全てを見せることはできないし、映画のようにたくさんのカットや実際の風景を見せることもできない芝居なのだから、なお一層客の想像力を刺激するような仕掛けが必要だ。役者の肉体や感情ももっと使うべきではなかったのか。ずっと苦みばしるばかりではなく。台本としても、たとえば現在の「痛みをともなった構造改革」とはどうなのか。また、農民が土地を得たのはまさしく戦後政府の農地解放によってであり、そこを伏せて、奪われることだけを描くのはどうなのか。土と地面は違うというセリフがあったが、言葉だけでなく、どう違うのか。被害者的感傷だけではどうしようもない。知りあいの役者が2人(西宮さん、杉山氏)が出演して、がんぱっていただけに、残念でしょうがない。他の役者も悪くない。切り詰めた演出も、考え方としては悪くはないし、堂々としているともいえる。けれども、芝居はおもしろくなくては。闘争もまたそうであるべきだし、実際そうなのだ。そこにこそ、勝ち負けを超えてもなお残るものがあるはず。

7/19 立稽古6
◆今日も止めながらの稽古。ソーリンを中心に進める。田口さんは艶出の要望に即座に答えてくれる。思い切りがいい。ほかの役者も打てばどんどん響いてくる気がする。まだまだ本を持っているにもかかわらず、かなりいいところにきている。今日は森江氏が風邪で読むだけ。萩原氏が休み。海老氏が終わり近くに来て、一度長ゼリのところをやった。この三人はまだあまり稽古になっていなくて、これからということになる。
◆あまりキャラクターを考えたりしすぎないこと。それより、その人物のおかれている状況、人物が思っている心情、セリフが誰に向かって、どのような意味で発されているのか、そういう具体的なことから、具体性をもって見せていくこと。見せるということよりも、その気持ちと状況に入ってみること。これらを極力意識化し、言葉にして確認していくことを心掛けよう。イメージやキャラクター(性格)よりも、状況と心情を優先することで、ステレオタイプを退け、より生き生きとした艶技が出てくることを期待したい。自分の戯曲ではないから、こんなに理性的にやれるのだろうか。
◆一幕でニーナの舞台となった丸テーブルは、二幕ではまわりの腰掛をなくし、二方の出入り口にむけて板をかけ、スロープにする。そこはちょっとした丘になる。だんだんとカタチが見えてきた。しかし、まだ「これはこれは!」と驚くような艶出の仕方は見つかっていない。戯曲を艶技によって生き生きとさせるだけではなく、客がおどろくような仕掛けを考えたい。さあて、何を仕掛けよう。艶出的な「劇しさ」。ひかえめではない、打ち出し方。
◆あちこちに「唄」を仕込もうとも考えている。唄と音楽、そして集団的な動きも。
◆チラシまきをほぼやめることを話し合う。劇場での挟みこみをやめてみることを決意。今回のチラシは大切にまくことになる。

7/17-2 立ち稽古5
◆細かく止めながらの稽古。まだ台本を持っている役者がほとんどなのだが、もっと生き生きとした艶技を引き出すために、どんどん演出(艶出)をつけていくことにした。感情の道筋をつける。私なりに台本に対して考えていることをどんどんしゃべる。その結果、一幕をやるのがせいいっぱいだった。この芝居、役者の仕事はほんとにたくさんある。
◆舞台についてもだいたいの案があるので、それでやってみる。いつも約9mの円形の地面が舞台なのだが、今回はその中央に低めの円形テーブルを作ってみようと思っている。だいたい直径は4.5m。一幕では、そこがニーナの舞台ともなる。ニーナは一度その中にはいり、フタを開けて出てくる。その周囲に腰かけられるものを並べる。できれば、それぞれの役にとって背負っているものを表すものにしたいのだが、具体的にはまだ決めていない。それらは最初の役者たちが運んできて、並べたい。そういうふうにして、幕間を作り出し、舞台転換をしていく。
◆なんとかお盆に入るまでに、セリフを入れてもらい、そのあとにはもっとさまざまな艶出をもちこんでいく予定を考えている。役者のみなさん、よろしくお願いします。
◆チラシのデザインがあがる。今回のチラシはすごくシンプルだが、なんともいえない味わいがある。チラシのまき方は、次回に相談したい。
◆稽古のあと、久しぶりの萩原慎が我が家にきて、飲む。かなり酔ってしまった。

7/17 ドクトル・ミキさん
◆ドクトル・ミキさんと昼飯を食った。Dylan's Childrenの人である。ギターの先生でもある。エッチな歌(という歌)を唄う人である。谷九の加奈泥庵で、あぐらをかきつつ、チキンカレーとチャイ。つきない話題で楽しいひとときであった。いろんなことをよう知ってはる。寅さん映画の原典となっているフランス映画のこととか、池波正太郎の小説の話とか、パソコンの話とか。あっという間に時が過ぎた。
◆帰ってCDを聞いた。「煙が目にしみる」というカバー曲を集めた一枚と、オリジナル曲を集めた「水の人」。深くやさしい声。ギターがほんとにいい音を出してる。すてきです。オリジナル曲の方では歌を全面に出すために、たぶんギターは控えめなのだろうが、カバー曲集のギターはどれも絶品。ブルースあり、ジャズっぽいのあり。私もならおうかな。「サマータイム」の訳詩がすごくかっこいい。この曲は「サマータイム組曲」となっていて、前半は長いギターソロが2分半。これがまたすごくいい。「サマータイム 銀の陽射し/遠く海では トビウオが跳ね」
ほかにも、「彼女の部屋の壁の色」「嘘は罪」「指をからませて」など、すごくシャレた大人の味。
◆一方「水の人」は、もっとホンネのささやきに満ちている。「子供のような君の身体から/俺は悦びを絞り出そう」(真昼のマリの唄)なんていう色っぽいフレーズもあったり、「淀川を眺めていたのさ/ソーセージパンといっしょに/まぶしさを齧りながら」(淀川叙情)なんかは、とても身近に感じる。スガワラケイスケの詞・曲の「ピノキオ」もせつない。

7/11 台風一過
◆台風情報があって期待していたにもかかわらず、しとしと雨が降る程度で大風は吹かなかった。けれども、今朝になって、蝉が鳴き始めた。しかも、うちの近所だけではない。あちこちで。蝉は雨のあと鳴くのだろうか。
◆西田シャトナーと会う。なかなかの好青年だった。こんな言い方は失礼かな。芝居への情熱しきり。私自身はそんなふうになかなか語れない。自分がどんな芝居をしているかも、語ることができない。しかし、シャトナー氏、ラフレシアでやるかもしれない。その舞台はおもしろくなることまちがいなし。
2002年07月12日 00時30分50秒

7/10 立ち稽古2
◆今日は三幕の訳ができ、もって行く。戎屋海老、萩原慎、森江流が休みだったが、代役で読む。田口さん、おもしろし。一回読み合わせののち、一幕から本を持って立っていく。セリフがなかばは入ってきているものもあるが、まだまだこなれてはいない。
◆こっちも演出を全然考えてはいないので、てきとうにやってもらっている。基本的なこと、役や動きというより、役者の問題点を指摘する程度。役者はたくさん仕事をしているのに、演出がまだぐずぐずしてるのがちょっとうしろめたいのだが、まだあまり作り込まない方がいいかもしれない。演技の調子も多少落としてもらって、リラックスとポンと自分を入れるやりかたをとる。
◆4幕の訳が上がり次第、舞台については詰める必要がある。今日は一幕で椅子をぐるりと並べてみたが、二幕では不要になる。これらの転換をどうするか。また、舞台のセンターに丸いテーブルをおいてその下からニーナが出てはどうかなど、いろいろ案はあるのだが、まだ決めていない。
◆野外演劇祭のチラシができてきた。けっこういい。前回と全然違う。ズラリとならぶ演目をみて、じわりと闘志が沸いてきた。
2002年07月10日 23時39分34秒

 7/7 おはなしの会
おはなしの会の「冬のカフカ―笑うしかない―」を都住創センターで見る。カフカの短編・童話と田口さんの(演出・出演)の日記を組み合わせた朗読。出演者は田口さんと女性三人(砂原悟空・京ララ・思い野未帆)朗読といっても、ただ読むわけではなく、立って動きもする。読まずに語る部分もある。森田悦子(サックス)と藤田慎二(ベース)の生演奏での音楽が入る。芝居と朗読の中間のよう。とても贅沢なライブだった。
 こんなライブがちょこちょこあちこちであったら、なんて日本もちゃんとしてきてるんだろうと思わせるような、そんな水準の高さを感じた。ほとんどが客の想像力にゆだねられている。気楽に見ていながらも、ウーンとうならせてくれる。カフカはたっぷりとユーモアに満ちていた。私は宮沢賢治のことをも思ったりした。田口さんの日記は、ハゲのこと、発砲酒、そのほか日常のひとこまがやはりユーモラスにとらえらえていて、豊かに生きているなあと感じた。私達の稽古のときも、ときどき小さいノートに何かを書いたりしている田口さん。その生き生きとした演技は、素晴らしかった。さすが。

ノート―ゑんず
◆前回、「演技」は本来「艶技」かもしれないと書いたが、「演じる」という言葉は、「怨ず(ゑんず)」からきているのかもしれない。「ゑんず」というのは源氏物語にもよく出てくる言葉で、「恨みをあらわすにする」という意味だという。(「源氏物語のもののあわれ」大野晋)「うらむ」というのは、心の中で敵意を秘めることだが、たぶんこれは「裏」とも関係があり、もともとは「心に強く思うこと」であるに違いない。表に出さずに、内にこめることだ。裏にこもる強い思い。「思う」にしたって、「重う」ととても近い関係にあるだろう。「ゑんず」は、その秘めたる重いを外に吐き出すことなのだ。「ゑ」は「絵」であり「会」でもある。また「笑」でもある。これらはすべて「外」と深い関係を持つ。「酔う」にしても、「ゑう」という。心に深く思うモノを、外にあらわにすること。これが「ゑんず」であり、私には「演じる」という言葉の本来の意味であるように思える。だとすれば、「艶ずる」と言いかえても、おかしなことではない。「艶」もまた、内に秘めたるものが表に出ることなのだ。
◆以前「BLACK MARKET 闇の市」という芝居の中で、「呪う」という言葉を「祈る」という意味に使う少女を描いたことがある。「呪う」という言葉は今はとてもネガティヴな意味にだけ使うが、本来は「祈る」と同じなのだ。ただ、祈る対象がマイナーになったために、祈りの言葉は、呪いの言葉に聞こえるようになったのだ。しかし、「呪う」という言葉には、「祈る」という言葉にはない力がひそんでいる気がしてならない。きれいごとの「祈る」にはないものがある。人が強く願うことの中に、いかにネガティヴなことが多かったことか。そんなことも思う。「○○に△△を祈る」と使うように、祈るはたぶんに他力本願的に使われる。「○○という神に△△という願望を祈る」というわけだが、一方「××を呪う」というのは、「○○を願う」ということではなく、「××という相手に災いあれと願う」ということになる。このへんが「祈る」と「呪う」の違いで、「世界平和を祈る」と「世界平和を呪う」では意味が違ってくる。前者と同じ意味にしようと思えば、後者は「世界が平和でないことを呪う」となる。「呪う」という、世界を罰の体系としてとらえることから解放したのが「祈る」の世界宗教ともいえるが、そのとき、呪うことの強い心性はネガティヴなものとして退けられていく。そして、むしろそれらの「呪い」、「怨ず」は、宗教とは別の芸能として行き続けることになると考えることもできる。
◆同様に、人が心に強く秘める思いの、いかにネガティヴなことが多いことだろうか。透明な「思う」を「恨む」に言い換え、「演じる」を「怨ず」と言い直すとき、同じような力の源泉のありかを感じることが可能な気がするのだ。また、「怨ず」が実は「艶ず」ともぴったりとあわさるとき、つまりそれらを融合したものとしての「ゑんず」を考えるとき、「演じる」ことのその内実が日本的な意味ではどういうものなのか、想像することができる。「演技」は、「怨技」であり「艶技」なのだ。ここには、たんに「考えをひろめる・実行する」ということ以上のものがあるように思えてならない。

ノート―艶劇
◆かなり昔の対談だが、五木寛之が武満徹にこんなことを言っている。「悲しみ、華やぎ、そういう艶っぽい歌、そういう艶歌がもともとあって、それに明治の自由民権運動をやった人たちがプロパガンダを加えていって、彼らがもともとの艶歌に演歌を当てた」つまり、演歌の「演」は、演説の「演」なのだと。
◆そうすると、演劇の演もそうなのだろうかという疑問が沸く。演技という言葉はもともとあると思うのだが、演技とか演習とか演武とか演奏とかもちろん演説とかがあり、この場合の「演じる」というのは、「実際に行う」とか「みなに広める」とか「練習する」いうことであって、決して「演技する」という意味ではない。
◆演劇という言葉も、どこか嘘っぽく、あまりなじまないので、普段はもっぱら芝居という言葉を使っている。ほんとうは、「劇」という言葉が好きだ。「劇」というのは、はげしさを現しており、それが芝居を見るときに受ける印象でもあったのかもしれない。「劇」という言葉は、たとえば「詩」とか、「美」とかに匹敵しうるのではないかと思う。それは、演じるということよりも、もっと受け手側よりに立ったある観念であるだろう。と同時に、作り手の根拠にもまたなりうる観念でもあるだろう。
◆演劇を、艶劇と書き直してみる。大事なことは、何かを伝えるということよりも、何が共有できるかなのかもしれない。演技から艶技へ。演出から艶出へ。

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