日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。
日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。
無間地獄の道をふさぎぬ。
此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。
極楽百年の修行は穢土一日の功徳に及ばず。
正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。
大聖人の法門の中で一つのキーワードとなるのが「慈悲」である。
開目抄に「難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」と仰せられたように、
大聖人は天台伝教の智解よりも自らの慈悲を大切にされた。
ひたすら法華経を信ずるがゆえに難を忍び、人を慈しむ。
大聖人の慈悲はよって生まれたものである。
人は智解を頼りにし過ぎて信を無くし、祈りを失い、堪えることを忘れる。
私たちはこの娑婆世界にあって、愚かにも真っ直ぐに法華経を信じていきたい。
そして様々な人と出会い、様々な人の痛みを知り、慈しみ悲しむ心を育てていきたい。
人には必ず二つの天、影の如くにそひて候。
所謂一をば同生天と云ひ、二をば同名天と申す。
左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。
況や善人におひてをや。。
されば妙楽大師のたまはく、必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し等云々。
人の心かたければ、神のまほり必ずつよしとこそ候へ。
「天知る、地知る、我れ知る」という言葉があるように、
巧みに人を欺くことが出来たとしても所詮それは天の知るところである。
と同時に、天はあくまでも平等・公平で罪なき人を罰しない。
また誰が見ていようと見ていまいと、コツコツと地道に励んでいる人を天は見のがさない。
正しき人は大いに自信を持ってよい。
心かたければ天は必ず守る。
少しぐらいの不遇は嘆くにおよばないのである。
大聖人は「其れよりも今一重強盛に御志あるべし」と乙御前に仰せられた。
今よりもさらに強い志を持つこと、それが明日を開く大切な鍵である。
いゑのいも一駄・ごぼう一つと大根六本。
いもは石のごとし、ごぼうは大牛の角のごとし、大根は大仏堂の大くぎのごとし、
あぢわひは忉利天の甘露のごとし。
石を金にかうる国もあり、土をこめにうるところもあり。
千金の金をもてる者もうえてしぬ。
一飯をつとにつつめる者にこれをとれり。
本文は供養に対するご返事であるが、表現の面白さや行き届いたお心が何とも言えず味わい深い。
大聖人は施物の一つ一つを手に取られ、芋を見ては山にあるゴツゴツした石を思い、
牛蒡を見れば大牛の凛とした角のようだと感嘆された。
とりわけ大根を大仏堂に使われた巨大な釘に見立てられたのは面白い。
たしかに大根は大釘の姿を彷彿させたに違いない。
ご返事を戴いた送り主も思わず微笑まれたのではないか。
そんなユーモアの中にも鋭い教えがある。
千金を持てる者が一飯を持つ者に劣るくだりである。
一飯とは私たちにとっての肝心かなめ、即ち妙法蓮華経のことである。
とても此の身は、徒に山野の土と成るべし。
惜しみても何かせん。
惜しむとも惜しみとぐべからず。
人久しといえども百年には過ぎず。
其の間の事は但一睡の夢ぞかし。
本門には「自ら身命を惜しまず」ととき、
涅槃経には「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」と見えたり。
私たちの身命はいずれ山野の土に還っていく。
いくら惜しんでも、どうなるものでもないし、長生きをする人でも百年程のものである。
人生とは一睡の夢に過ぎない。
それなのに私たちは、煩悩のままに生きて現実に振り回され、
わずかな事に有頂天になったり、激しく落ち込んだりする。
いずれも人間本来の姿を失ったものである。
真に「惜しむ」べきものとは何か。
それは我欲に塗り固められた自分自身ではない。
私たちを生かし眼、万人を後ろから支えている妙法をこそ惜しまなければならない。
時には、自分を捨てて守らなければならない大切なものもある。
法華経の法門をきくにつけて、なをなを信心をはげむを、まことの道心者とは申すなり。
天台云く「従藍爾青」云々。
此の釈の心は、あいは葉のときよりも、なをそむればいよいよあをし。
法華経はあいのごとし、修行のふかきはいよいよあをきがごとし。
法華経は素晴らしい御経である。
しかしその素晴らしい御経も身に行う人の精進により、いよいよ色を増すのである。
ちょうど、青色の染料は藍より取るが、原料の藍よりもさらに青いようにである。
法華経は藍である。
志を高く、精進に精進をかさぬれば、藍は必ず青きを増して、その人は輝く。
折角の珠も放っておいては石に見紛うものである。
私たちも心の中にある妙法蓮華経の珠を日々の生活の中で懸命に磨いていきたい。
「同じ法華経にてはをはすれども志をかさぬれば他人よりも色まさり、利生もあるべきなり」
の仰せに導かれながら。
釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。
今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり。
眼前に見えたり。
此の鎌倉の御一門の御繁盛は義盛と隠岐法皇ましまさずんば、争でか日本の主となり給ふべき。
されば此の人人は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり。
「艱難汝を玉にす」という言葉があるが、たしかに様々な試練こそ自分自身を大きく成長させる糧となる。
逆に、気持ちがよいからといって、ぬるま湯に長く浸かっていると出るに出られなくなる。
周囲があまり円満なのも成長を阻害し、大した仕事が出来ない原因となる場合がある。
大聖人はさらに直截的に「人を立派にするのは味方よりも敵である」と示された。
自分自身の命を付け狙い、二度の流罪に処した為政者を「日蓮が仏にならん第一のかたうど」と仰せられている。
私たちも様々な困難を「第一のかたうど」と言えるような勇気と自信を持ちたい。
総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思を成して、異体同心にして、
南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。
若し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か。
大聖人と弟子檀那が水魚の思いをなして成道を遂げたように、
わたしたちも師弟が一つの心となって妙法蓮華経を成就したいものである。
人は一人では生きていけない。
夫婦も兄弟も主従も友人同士も互いに自分の欠点を補いあって次の高みを目指す。
表舞台も陰で支える人がいて、初めて成り立つ。
師弟が一つになって事を成じる。
「互いに師弟と為らんか」である。
大聖人の法門の根幹とも言えるものである。
血脈とは何か。
難しい教学的な定義もあろうが、平たく言えば、人の世に生きるための信頼の絆である。
血脈とは信の処に流れる。
末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり。
此の五大は題目の五字なり。
然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益なり。
聞・信・戒・定・進・捨・慙の七宝を以てかざりたる宝塔なり。
法華経宝塔品に忽然として顕われる宝塔は高さが五百由旬もあり、
金・銀・瑠璃など眩いばかりの七宝に彩られていた。
しかし、大聖人は末法にあける宝塔とは、妙法蓮華経を信受するあなた自身であると仰せられた。
宝塔を飾った七宝とは、今あなたがもっている聞・信・戒・定・進・捨・慙の見えざる宝物である。
妙法を聞き、よく受持し、正しく振る舞い、心穏やかにたもつ、力の限り精進し、
すべてを施し、真に我が身を省みる。
これらの一々の宝物はまことに地味だが、ギリギリのところできっとあなたを支えるだろう。
夫れ病に二あり。
一には軽病、二には重病。
重病すら善医に値ひて急に対治すれば命猶存す。
何に況や軽病をや。
業に二あり。
一には定業、二には不定業。
定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。
何に況や不定業をや。
法華経第七に云く「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」等云々。
誰でも病の時には気持ちが塞ぎがちになる。
日頃は強い性格の人でも、気弱になったり、ともすると自暴自棄の生活に陥ったりするものである。
しかし、人の病のときにこそ気持ちを強くしてし冷静に対処しなければならない。
まず第一に、病気なら病気の今の自分をそのまま受け入れること。
次に病気の因をよくよく知ることである。
「身を持し心にものを嘆かざれ」との御文もあるように、徒らに思い悩まないことが肝要である。
重病でも治る、ならば軽病は必ず治る。
定業でも消える、なしてや不定業など滅しないはずがない、と気持ちを良い方向に向けなければならない。
法華経の一字は大地の如し、万物を出生す。
一字は大海の如し、衆流を納む。
一字は日月の如し、四天下をてらす。
此の一字返じて月となる、月変じて仏となる。
稲は変じて苗となる、苗は変じて草となる、草変じて米となる、米変じて人となる、人変じて仏となる。
女人変じて妙の一字となる、妙の一字変じて台上の釈迦仏となるべし。
本文は王日女の供養に対する御返事である。
貧女の捧げた燈が須弥山から吹き下ろす風にも消えなかったように、あなたの真心も決して消え去ることはない。
妙法蓮華経とは真心の教えであり、法華経の一字とは真心そのものである。
実になまざまなものに変化して真心は森羅万象を照らし、一切衆生を救う。
私たちの信仰心も、ある時は大地のように草木を出生させ、大海のように流れをおさめ、日月のように周囲を照らすのである。
わずかな力と臆することはない。
わずかなでも決して消えない燈、周囲を限りなく勇気つける燈、それが法華経の真心なのだから。
抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経文もあり、或は西方等と申す経も候。
しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。
さもやをぼへ候事は、我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は、地獄其の人の心の内に候。
私たちは幸も不幸もみな自らの心の中に持っている。
心がけ次第で結果は良くも悪くもなる。
父母に限らず周囲の人を恨んだり、蔑ろにすれば心は汚れる。
知らずに地獄の因を作るのである。
私たちが心の中を覗けば、そこには三毒強盛の自分が見える。
こんなに穢れていて、はたして成仏は叶うのかと心配にもなる。
しかし大聖人の仰せは明快である。
「仏と申す事も我等の心の内にをはします。譬へば石の中に火あり、珠の中に財あるがごとし」と。
我欲に負けずに自分自身の良い心を耕していけば、必ず美しい花が咲くと信ずるのみである。
ただ心こそ大切なれ。
いかに日蓮いのり申すとも、不信なればぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし。
はがみをなして強盛に信力をいだし給ふべし。
すぎし存命不思議とおもはせ給へ。
なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給ふべし。
ふかく信心をとり給へ。
あへて臆病にては叶ふべからず。
私たちが事にあたって大切な心構えとは、目の前にある困難な問題に対して決して怯まないことである。
まずはどんな問題でも正面から見据えて対処すること。
慌てて逃げ出してしまったり、逆に虚勢を張って挑んだりするのは、大きな違いがあるようで結果はともに知れている。
次に「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給ふべし」との仰せのように、
私たちの事に対する処し方は策略や武力や財力をもってしない。
ただ妙法蓮華経を信じてあらゆる困難を乗り越えるのみである。
過ぎし存命を不思議に思えば、どんな難局も怖れることはないはずである。
爾前の経経の心は、心より万法を生ず。
譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。
法華経はしからず。
心すなはち大地、大地即ち草木なり。
爾前の経経の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。
法華経はしからず。
月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。
爾前経の教えは心と万法、大地と草木とを立て分けて考える。
心によって万法が生ずるように、大地によって草木が育つ。
しかし法華経の教えは違う。
心と万法、大地と草木は二にして不二のものであると説く。
爾前経は、心があって初めて月を眺め、花を愛でる。
法華経は違う。
月にこそ心があり、花そのものが心であると説く。
法華経の法門では仏法も世法も二にして不二である。
八万法蔵といわれる難しい教えを理解せずとも世間の在り方、生き方の中に仏法は厳然とある。
世俗に光る純真なもの、それは仏法そのものである。
抑も今の時、法華経を信ずる人あり。
或は火のごとく信ずる人もあり。
或は水のごとく信ずる人もあり。
聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。
水のごとくと申すはいつもたえせず信ずるなり。
此はいかなる時もつねはたいせずとわせ給へば、水のごとく信ぜさせ給へるか。
物事はなんでも水の流れ絶えざるように行うのが大切である。
一時だけ発奮してみたり、中途半端に投げ出しているようでは物事は成就しない。
迷ったら根本を顧みる。
乱れたと思ったら基本に戻る。
信心修行も同じである。
まず第一に御本尊への給仕。
お水を供える、お香を焚く、御宝前を掃除し荘厳する。
清々しい気持ちで御本尊に給仕することは自らの心を清らかにする修行である。
次に大事なことは御題目を唱えること。
信仰者として最も大切なことがなな出来ない。
世事・雑事を忘れて、心から御本尊を信じて一遍の御題目を唱える。
信仰の基本中の基本である。
我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。
譬へば種子と菓子と身と影との如し。
教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道、吉占師子・青提女・目連尊者は同時の成仏なり。
是の如く観ずる時、無始の業障忽ちに消え、心性の妙蓮忽ちに開き給ふか。
富木常忍の母が「齢九十」にして亡くなられた時の消息。
母を亡くして打ちひしがれた常忍はお骨を頸に懸け、足に任せて身延に向った。
武蔵・相模・駿河と山川千里を越え、やっとの思いで辿り着いた常忍は、奥深い山中で天を衝く法華経読誦と一乗談義の声を聞いた。
そして本堂に入り神々しい御宝前に母のお骨を安置し、五体を地に投げて合掌すると、
不思議にも今まで抱えていた辛さや哀しみは忽ちに消えていった。
大聖人は仰せられた。
貴方の苦しみは母の苦しみである。
貴方の喜びは母の喜びである。
貴方の成道こそ母尼の成道の姿であると。
詮ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。
我並に我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。
天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ。
我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。
開目抄は大聖人の「一期の大事」である。
その中でも本文には、もっとも力強く、そして端的に大聖人の覚悟が示されている。
「天も見捨てよ、諸難よ来たれ、身命を捨てよう」。
この決意無くして法華経の身読は適わない。
大聖人は自らに厳しく仏道修行を課せられたのである。
仏界とは求めて得られるものではない。
無垢の信心と苦難に負けない意志が仏界に至らしめるのである。
「自然に」の御文を心に深く刻まなければならない。
「現世の安穏ならざる事をなげかざれ」と私たちはどこまで思い切ることができるだろうか。
現在の大難を思ひつづくるにもなみだ、未来の成仏を思ひて喜ぶにもなみだせきあへず。
鳥と虫とはなけどもなみだをちず。
日蓮はなかねどもなみだひまなし。
此のなみだ世間の事には非ず。
但偏に法華経の故なり。
若ししからば甘露のなみだとも云つべし。
大聖人の真情が行間に溢れるような御文である。
「管路のなみだ」とは、妙法のために身を捨てることのできた人の悦びである。
世の中のすべての苦しみが大聖人の一身に受けとめられ、蒸留され、澄明な一滴の涙となるのではないか。
「日蓮はなかねども涙ひまなし」の仰せには、ひときわ心打たれる。
たしかに人は痛い、辛いではなく、しみじみとした感慨に襲われたとき自然に涙を溢れさせることがある。
「なかねども涙ひまなし」の御文に、泰然として、自然に溢れる涙をぬぐおうともしない、
慈悲とも威厳とも思われる大聖人のお姿が彷彿とする。
古郷の事はるかに思ひわすれて候ひつるに、今此のあまのりを見候ひて、よしなき心をもひいでて、うくつらし。
かたうみ・いちかは・こみなとの磯のほとりにて昔見しあまのりなり。
色形あぢわひもかはらず。
など我が父母かはらせ給ひけんと、かたちがへなるうらめしさ、なみだをさへがたし。
ふるさと小湊の新尼から見延山へ送り届けられた甘海苔。
大聖人は峰に上って遠く遥かに故郷のことを思う。
送られた海苔は昔のままの色形であり、味わいであるのに、なぜ父も母も私の前に戻られないのか。
それが方向違いの感慨であることは百も承知だが流れる涙を押えられない。
「大難四箇度、小難数知れず」といわれる一生を送られた大聖人だが、
その剛直な精神の裏には故郷の父を思い、母を慕う情愛が秘められていた。
数々の詩情豊かな消息を拝して、私たちはもっともっと本当の強さと優しさを学ばなければならないであろう。
人身は受けがたし、爪の上の土。
人身は持ちがたし、草の上の露。
百二十まで持ちて名をくだして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。
蔵の財よりも身の財すぐれたり。
身の財より心の財第一なり。
此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。
四条金吾が同僚によって主君・江馬氏に讒訴され、窮地んみ立たされた時の消息。
真面目で何事にも直線的な金吾に対し、大聖人は種々の注意を与え、諄々と諭された。
人の命は草の上の露、今にも消えそうなわずかなものである。
その反面、それほどに得難いものでもある。
その大切な生を一日でも実直に生きて真実の名誉を遂げなさい。
人にとって本当に大切なものは蔵の中の金銀財宝ではない。
目には見えずとも心の財こそ第一のものである。
「心かひなければ多くの能の無用」なのである。
今日よりは力の限り心の財を積みなさいと。
釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。
我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。
一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し。五字の内に此の珠を簑み、末代幼稚の頸に懸けしめたまふ。
大聖人の修行の根幹に「受持」がある。
釈尊の無量劫における修行とその功徳は妙法蓮華経の五字にみな備わっている。
この五字を受持すれば釈尊の因果の功徳を自然に私たちは頂戴できる。
そればかりか仏は大慈悲心を起こして、妙法蓮華経の宝珠を私たちの頸に懸けて下さったというのである。
あとは「小児、乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す」の仰せどおり、ひたすら妙法蓮華経を受持信行すればよい。
何とも有難いことではないか。
ここにおいて大事なのは、我が身にすでに妙法蓮華経が存することを知り、ついで純粋無垢の信をいつまでも忘れないことである。
此の御本尊、全く余所に求むる事なかれ。
只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。
是を九識心王真如の都とは申すなり。
此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。
以信得入とは是なり。
私たちの考えは常に外へ外へと向っている。
良いことも悪いことも自らの心の反映とはなかなか思わない。
ましてや、この御本尊が私たち凡夫の己心に厳然として存しますと言われても容易に信じられない。
しかし、大聖人は十界互具を説かれて、
「石中の火、水中の花、信じ難けれども縁に値って出生すれば之を信ず」と仰せられた。
私たちの己心に妙法蓮華経の宝珠が存しますことを譬えたものである。
御本尊を信じることは自分自身の中にある無限の可能性を信じることである。
信じればこそ御本尊はどこまでも我が胸中に存します。
なんと心強いことであろう。
人となりて仏教を信ずれば、先づ此の父と母との恩を報ずべし。
父の恩の高き事、須弥山も猶ひきし。
母の恩の深き事、大海還って浅し。
されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり。
我が心には報ずると思はねども、此の経の力にて報ずるなり。
現代人が喪失して久しいものに「恩」がある。
学校や実社会でも「報恩」などと言えば、押しつけがましく古めかしい印象である。
また「恩師」も「重恩」も死語になりつつある。
ましてや父母の恩が須弥山より高く、大海より深い、と信腑に染める人がどれはどいるだろうか。
私たちは本文をよくよく拝さなければならない。
生まれ落ちて人となり、妙法にめぐり会えたのも父母あればこそである。
何を差し置いても父と母とに感謝であろう。
そして父母への報恩で最も大切なことは、自らが妙法を信じて誠実ある人となることである。
まさしく「此の経の力にて報ずる」の実践である。
又人の死ぬる事はやまひにはよらず。
病あれば死ぬべしといふ事不定なり。
又このやまひは仏の御はからひか。
そのゆへは浄名経・涅槃経には、病ある人、仏になるべきよしとかれて候。
病によりて道心はをこり候か。
又一切の病の中には、五逆罪と一闡提と謗法をこそ、おもき病とは仏はいたませ給へ。
人が亡くなるのは病によるとは言えない。
病があれば死ぬなどとは全く定まったことではない。
かえって、この病は仏が御はからいて与えて下さったものではないか。
なぜならば経文には、病ある人こそ仏になると説かれている。
病が一つの機縁となって仏道を求める場合がある。
そのうえ一切の病の中で、なによりも仏が嘆かれるのは身体の病ではなく伍逆罪や謗法等の仏法上の病である。
大聖人は人が嫌がる病気を「仏の御はからひか」と仰せられた。
病気は辛いけど、そこには反省心も宿る。
人の痛みに気づくこともある。
妙法を失うまいとする気持ちが起こる。
それらがみな大切なのである。
賢人は八風と申して、八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。
利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。
をを心は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。
此の八風にをかされぬ人をば、必ず天はまほらせ給ふなり。
賢人は逆境に挫けない。
諸々の衰えにあわてず、毀れや譏りに対しても冷静に立て直す。
苦しみは誰にでもあることと甘受する。
マイナスの風に少しも動揺の色を見せない。
と同時に、ひとたびプラスの風が吹いて、利益や名誉、称賛、楽天の喜びに溢れたとしても、
こんなものが永遠であるはずもないと取り合わない。
この幸いは自分の力のみで得たものではない。
多くの後ろ盾に支えられてのことだ。
浮かれてはいられないと考える。
苦しみを正面から受けて立てる人、そして、喜びを素直に人に感謝できる人。
そんな人が大聖人の仰せられる本当の賢人なのだろう。
あひかまへてあひかまへて、信心つよく候ひて、三仏の守護をかうむらせ給ふべし。
行学の二道をはげみ候べし。
行学たへなば仏法はあるべからず。
我もいたし人をも教化候へ。
行学は信心よりをこるべく候。
力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。
一信、二行、三学は仏道修行の根本である。
「信を以て入るを得る」の経文が示すように、仏法は信に依ってのみ、とく成道を遂げる。
しかし、それほどまでに信を堅固ならしめるのは容易ではない。
行と学とを必要とする所以である。
「学」は様々な疑問より起こる。
一つ一つの疑問を学んでは解いていく。
「行」は様々な理解の上に展開される。
一つの納得があって、はじめて心より行を収めることができる。
疑問と理解は幾度も繰り返され、信は堅固に深まるのである。
むろん行と学とを起こす源には「一心欲見仏 不自惜信命」の純粋な信が熱くてはならない。
夫れ以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候ひしが念願すらく、人の寿命は無常なり。
出づる気は入る気を待つ事なし。
風の前の露、尚譬えにあらず。
かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定め無き習ひなり。
されば先づ臨終の事を習ひて後に他事を習ふべし。
この世に常住なるものは一つない。
「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり」という経文があるように、すべての事物は生じては必ず滅する。
その理に迷う者が名聞利養にどこまでも執着し、栄耀栄華を求め続ける。
貴賤上下・賢愚美醜は、いずれも人間が定めた差別的な価値であり、表面のみに囚われた浅見に過ぎない。
そのうえ諸々の執着や差別は時によって全く裁かれるものである。
栄華を誇っていても人は必ず死ななければならない。
その点において人は絶対的に平等なのである。
まず第一に臨終あることを学べ。
さすれば人の生き方も自ずと定めるであろう。
汝早く信仰の寸心を改めて、速に実乗の一善に帰せよ。
然れば即ち、三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。
十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。
国に衰微無く、土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。
此の詞此の言、信ずべく崇むべし。
前代未聞の大地震、大飢饉、大疫病。
打ち続く大災害は一体なぜ起こるのか。
大聖人はその原因の究明を一切経に求められ、立正安国論の一書にまとめられた。
多くの経文より文証を示し、道理と現証を突きつけた「勘文」は当時の幕府要人や高僧たちを大いに動揺させた。
この時の衝撃こそ後に大聖人を伊豆へ、佐渡へ配流した要因であった。
まさしく「法師は諂曲のして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し」という状況だったのである。
大聖人渾身の一書は七百数十年の時代を超えて現代をも撃っている。
今日蓮は去ぬる建長五年葵丑四月二十八日より、今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間、又他事なし。
只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。
此れ即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。
建長五年四月二十八日、大聖人は清澄寺道善房の持仏堂において初めて妙法蓮華経の法門を説かれた。
世にいう立宗宣言である。
以来、本妙までの二十八年、ただ余念なく法華経を弘通された。
その間に大難四箇度、小難は数知れずという状況であったが、ひたすら法華経の修行として忍難甘受された。
あたかも母親が赤子に乳を含ませるように、日本国の一切衆生に妙法を説き聞かせたのである。
親の心子知らず、母親はそんな苦悩など微塵も見せず、当たり前のように乳を与える。
私たちも法華弘通において無私の行為を心がけなくてはならない。
我が一門の者のためにしるす。
他人は信ぜざれば逆縁なるべし。
一滴をなめて大海のしををしり、一華を見て春を推せよ。
万里をわたって宋に入らずとも、三箇年を経て霊山にいたらずとも、竜樹のごとく竜宮に入らずとも、
無著菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも、二処三会に値はずとも、一代の勝劣はこれをしれるなるべし。
華厳宗や真言宗の人師・論師は宋に入り、天竺に渡ってもなお法華経の醍醐味たるを知らずにいる。
梢に一輪の花を見れば春が来たことを知るように、日蓮はどこに参らずとも一代聖教の勝劣をしる。
大聖人の法門の捉え方は広略を捨てて要を取る。
一を以って万を察するものである。
「竜女が成仏此れ一人にあらず、一切の女人の成仏をあらはす」との仰せや、
「九界の一人を仏になせば一切衆生、皆仏になるべきことはり顕る」との御文を拝する時、
私たちは唯一人の真摯な信仰が万人の成道に通ずることを知るのである。
一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。
不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。
教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。
穴賢穴賢。
賢きを人と云ひ、はかなきを畜といふ。
不軽菩薩は経文の二十四字を唱え、会う人ごとに礼拝を繰り返した。
「我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 当得作仏」。
不軽菩薩はどんな人にも仏性のあることを信じた。
しかし心の顛倒した人々はかえって不軽菩薩を悪口し打擲した。
石もて追われた不軽菩薩はそれでも礼拝行を捨てず、追われれば追われたところで遠くから人々を合掌礼拝した。
純信で一途なこの姿を大聖人は敬愛され、自らの修行の手本とされた。
もって銘すべし。
一、富士の立義、聊も先師の御弘通に違せざる事。
一、当門流に於いては、御抄を心肝に染め、極理を師伝して、若し間有らば台家を聞く可き事。
一、未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致す可き事。
大聖人滅後、六人の本弟子のうち日興上人を除く日昭、日郎、日向、日頂、日持の諸師は
「天台宗」を名乗り、教義を改変した。
日興上人は大聖人の法門を護るため、身延を離山し富士に本拠を移して門流を形成された。
富士門流の濫觴であり、その護り伝えるべき法義を「富士の立義」と称した。
日興上人の精神こそ私たちにとって万代の亀鏡である。
いつの時代にも正しき信仰の伝承と体現は難しい。
しかし混迷する現代社会を見るにつけ、「富士の立義」を学び直し、現代に甦らせ、未来に伝承することは急務なのである。
私たちの使命は限りなく大きい。