【富木常忠】

建保四年(一二一六)~正安元年(一二九九)。
建長六年(一二五四)宗祖の檀越となる。
日蓮大聖人御在世当時の弟子。
下総地方の檀徒の中心者。
下総国葛飾郡八幡庄若宮(千葉県市川市中山)の人。
千葉氏に仕えていた武士と思われる。
かなりの常識があり、大聖人から勧心本尊抄など重要な法門の御書を多数戴いた。
本領は因幡国(鳥取県)富城郡にあった。
建長六年(一二五四)頃、大聖人に帰依し、後に出家して常忍と号した。
文応元六年(一二六〇)松葉谷の法難後、自邸の法華堂に大聖人をかくまい、多くの信徒を得た。
大聖人没後、常修院日常と改め、自邸の法華堂を法華寺と改称して、その開山となった。
常忠には、三人の子供がいた。
長男は、六老僧の一人の伊予房日頂で、もう一人は、後に重須談林の初代学頭になった寂仙房日澄であり、
残る一人は、女性で乙御前である(日妙上人の娘の乙御前とは別人)。
常忍は、太田乗明の姉を娶ったというが早く死別した。
その後、大聖人から富木尼御前といわれた、妙常を妻に迎えている。
文応元年(一二六〇)八月二七日の夜中に、松葉谷の法難が起きた。
大聖人は、一時難を逃れて下総の富木入道のもとへ身を寄せられたのである。
この下総滞在中、富木入道の邸に百日間の説法をなされるなど、この地方の弘教に力を入れられたので、
数多くの信者ができた。
その中に乗明や教信、それに秋元太朗、金原法橋等がいたのである。


【四条金吾】

寛喜二年(一二三〇)頃~正安二年(一二三〇)。
日蓮大聖人御在世当時の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。
左衛門尉という官名から、その唐名によって金吾と通称された。
北条氏の支族の江間(江馬)家に仕えた武士。
妻は、日眼女。月満御前と経王御前は、その子である。武術に優れ、医術に通達していた。
建長八年(一二五六)二七歳の時、池上兄弟や工藤吉隆などと前後して、大聖人に帰依したといわれる。
以後、大聖人の外護に努め、文永八年(一二七一)の龍口の法難では、殉死の覚悟で供をした。
文永九年(一二七二)には、人本尊開顕の書である開目抄二巻を与えられ、また種々の激励を受けた。
弘安五年(一二八二)の大聖人入滅の折りも、最後まで看病にあたり葬送の列にも連なった。
後に出家して甲州(山梨県)内船に隠居した。
ある日、松葉谷の草庵を訪ねて入信。時に建長八年(一二五六)金吾二七歳であった。
同じく道隆の門に参禅した池上宗仲、池上宗長、工藤吉隆、進士善春、
荏原義宗等の参禅の友を次から次へと折伏していったのである。


【工藤吉隆】

生年不詳。文永元年(一二六四)没。
安房国(千葉県)天津の領主で、日蓮大聖人の弟子。
大聖人が伊豆流罪中にも御供養を欠かさず四恩抄を戴いた。
文永元年(一二六四)一一月一一日、大聖人が小松原で東条景信に襲撃された時(小松原の法難)、
駆けつけて大聖人を守って戦い、鏡忍房と共に討ち死にしたといわれる。
康元元年(一二五六)宗祖の檀越となる。


【池上宗仲】

生年不詳。永仁元年(一二九三)没?。
日蓮大聖人御在世当時の弟子。鎌倉幕府の作事奉行。池上左衛門太夫康光の長子。
大聖人の兄弟抄で知られる池上兄弟の兄。
建長八年(一二五六)頃に大聖人の門下になった。
しかし、父の康光は念仏の強信者であった為、文永一二年(一二七五)と
建治三年(一二七七)の二度に亘って宗仲を勘当している。
大聖人は、池上兄弟に対して兄弟抄を、特に弟の宗長には、兵衛志殿御返事など厳しい指導を送られ、
兄弟が信仰を貫く事を促された。
そして弘安元年(一二七八)、ついに池上兄弟は、父を妙法に帰依させており、
翌年に大聖人から孝子御書を戴いている。
先に兄の宗仲が、日蓮大聖人立教開宗の建長五年(一二五三)より三年後の康元元年(一二五六)頃に
四条金吾、工藤吉隆、進士善春、荏原義宗等と共に入信したと伝えられ、続いて弟の宗長も入信したものであろう。
また弁阿闍梨日昭の甥であった関係から入信したともいわれている。
康元元年(一二五六)檀越となる。


【曽谷教信】

元仁元年(一二二四)~正応四年(一二九一)。
日蓮大聖人御在世当時の信者。下総国(千葉県)葛飾郡曽谷に住んだので曽谷氏と呼ばれた。
曽谷二郎入道教信ともいう。
文応元年(一二六〇)頃、大聖人に帰依し後に出家し、大聖人から法蓮日礼の法号を授かった。
また安国寺、法蓮寺の二寺を建立した。
大聖人から戴いた御書も法蓮抄、曽谷入道殿御書など七編に及び、この中には搒智の二法、総別の二義、
種熟脱の法門等の重要な大事が多く説かれている。
文応元年(一二六〇)宗祖の檀越となる。


【秋元太朗兵衛尉】

日蓮大聖人御在世当時の門下。下総国(千葉県)印旛郡白井荘の人。
文応元年(一二六〇)に大聖人が松葉谷の法難を避けて下総中山へ行かれた時、化導されたと伝えられている。
正応四年(一二九一)没。その家は、秋本寺となった。
曽谷氏や大田氏と親しく、富木氏とは親戚であったともいわれている。大聖人から秋元御書等を戴いている。
文応元年(一二六〇)宗祖の檀越となる。


【大田乗明】

日蓮大聖人御在世当時の信者。大田乗明、大田金吾、大田左衛門尉ともいう。
大田左衛門尉御返事の内容から見て大聖人と同歳であるから、六二歳で没したことになる。
鎌倉幕府の問注所の役人であり、同僚の富木常忍に折伏された。下総国(千葉県)葛飾郡八幡庄中山郷に住み、
富木氏、曽谷氏等と共に下総中山を中心に、大聖人のもとで外護の任にあたった信者である。
建治元年(一二七五)に次男を出家(師阿闍梨日高)させ、自身も弘安元年(一二七八)頃に入道して妙日の号を戴き、
その住居を本妙寺とした。三大秘法抄、転重軽受法門、大田殿許御書など多数の御書を戴いている。
文応元年(一二六〇)宗祖の檀越となる。


【大学三郎】

日蓮大聖人御在世当時の弟子。比企能員の子と伝えられる大学三郎能本のこと。鎌倉に住んでいた能書の人。
夫婦共に純真な信仰を貫いたようで、大聖人から大学三郎殿御書、月水御書などを戴いている。
文応元年(一二六〇)宗祖の檀越となる。


【大井荘司入道】

日蓮大聖人御在世当時の信者。甲斐国(山梨県)大井壮の壮務を司る壮司であり、甲斐源氏の流れをくむ。
日興上人等の活躍によって甲斐地方の折伏弘通が進んだ頃、大聖人に帰依したと思われる。
孫の肥前房日伝は、寂日房日華の弟子となり、日興上人の孫弟子として御本尊を与えられたが、
後に日興上人に背いた。


【松野六郎左衛門入道】

生年不詳。建治四年(一二七八)没。
日蓮大聖人御在世当時の信徒。松野殿のこと。駿河国(静岡県)庵原郡松野の人。
娘が南条兵衛七郎に嫁いだ縁によって大聖人に帰依した。子供が多くいたらしいが、
蓮華寺を建立した長男の六郎左衛門尉と六老僧の一人である次男の日持と南条家に嫁いだ娘が知られているだけである。
大聖人への御供養を欠かさなかったことが、松野殿御消息などの諸御書によって知られる。


【高橋六郎兵衛入道】

生没年不詳。
日蓮大聖人御在世当時の信徒。駿河国(静岡県)富士郡の南方、賀島に住んでいた。
妻は、日興上人の叔母にあたる。富士地方弘教の中心的存在であった。
四十九院の法難に際しても日興上人を外護し、熱原法難では多くの大聖人門下を護った。
また高橋入道の死後も、その夫人は大聖人数々の御書を戴いている。
高橋六郎兵衛入道は、駿河国富士賀島(静岡県富士市本市場)に住む鎌倉幕府の御家人であった。
六郎兵衛夫妻が、いつから正法を信受して大聖人の信徒となったかいう、入信時期を決定付ける史料はないが、
日興上人との深い姻戚関係、或は六郎兵衛が鎌倉に於いて大聖人から教えを受けたことから考えて、
駿河地方の信徒の中では、最も初期の入信であったと推察される。


【河合の由比入道】

日蓮正宗第二祖日興上人の外祖父であり、養父でもある。
静岡県富士郡河合の芝川が富士川に合流する付近の芝川町に住んでいた為この名がある。
この由比家から大石寺塔中南之坊第二代日善、西山本門寺開基日代がでている。


【阿仏房】

日蓮大聖人御在世当時の信者、阿仏房日得のこと。阿仏房は号、日得は法諱(法名)、
俗名を遠藤左衛門尉為盛といい、もと順徳上皇の北面の武士で、承久三年(一二二一)上皇が佐渡に流された時、
ともに佐渡へ来て定住したと伝えられている。
大聖人の佐渡流罪中に、塚原三昧堂で大聖人を論詰しようとして、かえって折伏を受け、
念仏を捨てて妻の千日尼と共に帰伏したとされる。以来、文永一一年(一二七四)に大聖人が流罪罷免と
なって鎌倉に帰るまでの二年余り大聖人に給仕し、大聖人の身延入山後も、
高齢の身で三回にわたり御供養を携え身延を訪ねている。弘安二年(一二七九)三月二一日死去。時に九一歳と伝えられる。


【国府入道】

生没年不詳。
日蓮大聖人御在世当時の門下。佐渡の国(新潟県佐渡郡)国府の住人。
国府は、国の行政府。国司の役所及び所在地のこと。
佐渡の国府は、現在の真野町にあたる地にあった。
国府入道は、大聖人流罪の折りに弟子に成り、夫婦そろって種々の御供養をし、外護の任にあたった。
また大聖人の身延入山後も、はるばる身延を訪れては御供養をし、純粋な信心を貫いた。


【新池左衛門尉】

生没年不詳。
日蓮大聖人御在世当時の信徒。遠江国磐田郡新池(静岡県袋井市)の人。
鎌倉幕府の直参で、日興上人の折伏によって妻の新池尼と共に大聖人に帰依したとされる。
大聖人から信心の要諦を示された新池御書などを賜っている。


【新田四郎信綱】

生没年不詳。
日蓮大聖人御在世当時の信徒。伊豆国仁田郡畠(静岡県田方郡畑毛)に住んでいた。
日蓮正宗第三祖日目上人の兄にあたり、母の蓮阿尼、及び信綱の妻も南条家の人である。
これらの関係から、信綱は、早くから日蓮大聖人に帰依し、南条時光らと共に奥州方面の折伏弘通や大石寺の建立、
外護に活躍した。また日興上人から本尊を授与されたことが、本尊分与帳にみられる。

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