君は僕の太陽、
月のように君次第な僕
第1話 夕陽へ通う
「1日に入り日を43回も眺めるほど」。
星を旅する王子様の「かなしい思い」を、あの名作ではそんな風に書いていたと思う。
だからじゃないが、鷹枝将(たかえだ しょう)は晴れてさえいれば、海が見えるこの場所に夕陽を見にくる。
都内からここまで、愛車のローバーミニで片道1時間30分はかかる。
あまり時間が大事じゃない将にとってそんな時間は些細なことだ。
―――あのカーブを曲がれば。
濃い紫色の世界が、いきなり、金色になった。
目が慣れると白く霞んだ西の空に、舐めたらサッカリンのように甘そうなあんず色の太陽が満月のように「のっ」と現れた。
もやのせいでそれほどまぶしく感じないが、空も海も区別なく白い世界の中で、太陽の下だけ桜貝のような波がキラキラしていた。
今日で99回目。明日も晴れれば100回目……。
「よぉ、山田さん、釣れたかい?」
一人の警官―――というより、こののどかな防波堤の風景もあいまって『お巡りさん』と呼んだほうがふさわしい雰囲気―――が、
自転車の上から防波堤から釣り糸を垂れる将に声をかけた。
将はタバコを咥えたまま軽く会釈して
「今日はぜんぜん」と答えた。
「そうか、残念だなぁ。今日は鯵のタタキで1杯やれるかと思ったのになあ」
「すいません」
一応、将は釣竿を海にたらしていたが、釣りが目的ではない。
単に夕陽を眺めたかっただけだが、初めてここに来たとき、
何もしないで車の中でボーっとしていたらあの『お巡りさん』に不審者に間違われそうになった。
そのとき免許証を見せながら「釣りに来たいなと思っていたんです」と言ってしまったのだ。
いかにも釣りが似合わない今風の若者、といった風貌の将なのに『お巡りさん』はそれを信じた。
「ああ。ここはいい釣り場だよ。またおいで」と自転車の上から親しげに笑った。
その親しげな笑顔のせいなのか、なぜか将は馬鹿正直にすぐ釣り道具を揃えてしまい、
さっそく翌日同じ場所にやってきた。
小学生の頃、海辺にいたこともあったので少々の釣りは心得ていた。
思えば、将はあの頃から夕陽を見ていたかもしれない。
あの頃。母が死んで、海辺の家に預けられた幼い頃。そのとき将は父に捨てられたと思っていた。
新しい母は優しかったが、5年前の事件が起きて……。
あの燃えさかる火の中で将は、それまでの将は燃えてしまったのだと信じている。
堤防の上からは空いっぱいに浮かぶ雲が茜色に焦がれる、壮大な風景が海いっぱいに広がるのが見えた。
釣りのふりをして、夕陽を眺めるのは悪くなかった。
竿の先には夏の太陽が釣れそうなほど近くに見えていた。
しかし夕陽が色づいて沈み、黄昏るまでの2時間たらずの間に、
初日だというのに10匹もの魚を釣り上げてしまったのが計算違いだった。
バケツの中には小さめの鯵がピカピカ光っていた。
都会育ちの若い男が魚をさばけるわけでもない。仕方なく釣った魚を1匹ずつ海に捨てているときだ。
「オイっ!」
また昨日の『お巡りさん』が現れた。
「なんてもったいないことをしやがるんだっ!よこせっ!」
将は素直にバケツをお巡りさんに渡した。
「なんだお前は。大物狙いか。雑魚は捨てるのか?え?イケメンの兄ちゃん!」
啖呵をきられる。「……いや、釣る行為が目的なんで、もういいかなぁ……って」困った将、言い訳を見つける。
「キャッチアンドリリースってのが俺は大嫌いなんだ。
だいたいこの鯵はもうみんな死んでるじゃないか!海に返しても生き返りゃしないんだよ!」
将は困った。目的の夕陽はもう沈みきった。
こんな魚のことでもめるのはめんどうくさい。早く帰りたい。
「もしよかったらコレ、あげますよ」
「へ?」
以来、ここへ釣りに来るふりをして夕陽を眺めにやってくる。あれが高一の夏休みからだからもう1年になる。
将の獲物をもらう約束をしたお巡りさんは毎回「山田さん」と自転車から親しげに声をかけてくるのだ。
で、なぜ鷹枝将が山田さん、と呼ばれているのか?
実は将はまだ17歳、高校2年生なのだ。
あのとき渡した免許証は『山田某』名義で将の顔が入っていた
―――つまり将自身が精巧につくった偽造免許証なのである。
もっとも写真以外の情報は本物だから、こんな田舎の職務質問ぐらいでバレるはずもない。
そんなわけで将は、沈みゆく入り日に、炎の記憶と孤独を確かめるかのように、
晴れた日はこの海辺の町に1時間30分かけてやってくるのだ。
もう99回。……明日晴れれば100回。
1時間30分かけて、将が都内に戻ってきたときは、とっぷりと暮れていた。
庶民的な下町に不似合いな、スタイリッシュなマンションの10階に将の部屋はある。
―――バイトに遅れる。
将は車を駐めると、部屋には戻らずに、あわただしく夕食を求めて下町の弁当屋に走った。
チェーン店ではない。小さなボロい店だが、安い割に旨い個人経営の店だ。
しかし安さと旨さのほかに将を引き寄せる理由があった。
「いらっしゃいませぇ!」若いお姉さんの澄んだ声がひびく。
「中華弁当ちょうだい」
「ハーイ。中華弁当一丁」
とお姉さんは奥に声を張り上げながら
「山田くんはいつも中華弁当か揚げ物弁当かオムライス弁当だもんね。
今日は中華だと思ったんだよねー」と軽口を叩く。
「なーぜーわーかーるー」
将はオカルト口調を真似ておどけながら、読み古された漫画雑誌片手にビニールのソファに腰掛ける。
「今から家庭教師のバイトでしょ?」
とお姉さんは弁当に飯をつめながら聞いた。
「そうそう」
「東大生はいいわねー。わりのいいバイトができて」
将はなんと山田名義で東大の学生証も持っているのだ。もちろん偽造だが。
この東大の学生証のおかげで高額な家庭教師のバイトにありつけている。
いつもの将は、あまり余計なことは自分から話さないほうだ。
同年代の中ではクールなやつと思われている。
でも下町の、こんな店だから将は明るくふるまえる。偽の、とはいえ自分のことを少しだけ話せていた。
それにしてもこのお姉さん。
前髪を全部あげておでこを丸出しにして、ひっつめた髪は三角巾ですっぽり。
割烹着みたいな白いうわっぱりを着ていて年齢不詳だが、かなりの美人だなといつも思う。
丸出しにしても欠点の見つからない顔のカタチに、軽口を叩く目がいつも優しい。
唇は何もつけてなさそうなのに、いつもバラ色でツヤツヤしている。
袖からのぞく手首は信じられないくらい細いのに、無骨なうわっぱりの下の胸。
あれはけっこうボリュームがあるんじゃないだろうか。
こんな地味な弁当屋で働いているのは不似合いなほどの美人だった。
将は、正直なところ、このお姉さんとつかのまの軽口を楽しむためにこの店へ来ることにしているのだ。
「お姉さんも塾講師やってるっていってたじゃん」
「うふふ。夏休みでやめちゃった。……ここも今日までなのよ」
とお姉さんは信じられないことを宣言し、大きな目を細めて微笑んでいる。
「えー!……俺、ここの娘かと思ってた」
「まさか」
「ケッコンすんの?」違うよな。
「いやーね。教職が決まったのよ。産休の代理だけど。だからここも今日まで」
出来上がったお弁当を白いビニールに手早く入れながらお姉さんは嬉しそうだった。
「……ハイ。450円になります。お別れに八宝菜のうずらの卵、サービスで3つも入れといたよ。好きでしょ」
お弁当を将に手渡した。
「ウソー、マジかよー」将は500円玉を渡した。
レジの引き出しからおつりを取り出す、その下向きの顔に睫だけが黒い。そして信じられないくらい長い。
そんなことを今初めて知ったことをとても悔しく思った。
いや、お姉さんに毎回会うたびに発見がある。それはどれも将を惹きつけるものばかりだった。
「マジ、マジ。ようやくフリーター脱出だよん」
とお姉さんはおつりを将の手の中へ。その手を将は思わず握る。
お姉さんが、何よ、と微笑みかけた。
その一瞬。カウンターを越えてお姉さんの肩を抱き寄せ、すばやく唇を重ねた。
将の想像通り、その唇は柔らかくて、想像以上に温かだった。
お姉さんはびっくりして目を丸くしている。
「お別れのアイサツ。元気でね!」
「……ちょっと、何するのよ!」
お姉さんが文句を言おうとしたときには、もう将はカウンターを離れ、自動ドアのところにいた。
あまりに一瞬だったので厨房の中にいたおかみさんやご主人も気づいていない。
何か声をかけようとしたときには将は行ってしまい、代わりに別の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ……」
お姉さんこと古城聡(こじょうあきら)はかろうじて声を発することができたが、
それは将のときとまったく違う小さな声だった。
将はお姉さんの名前も知らないままだった。