江戸中期の天文暦学者 千葉歳胤 本文へジャンプ
歳胤を巡る人々

      歳胤に関係する人達を紹介します


1.中根元圭
 中根元圭(1662〜1733)は江戸時代中期の著名な和算・暦算家であり、博識をもって知られています。元圭が歳胤の師であることは、「皇倭通暦蝕考」の序や「天文大成真遍三條図解」の自序、「改暦加減集」の引をはじめ多くの個所で歳胤自身が「元圭先生」と書いていることから明らかです。歳胤がどのような経緯からいつ頃元圭に入門したのかは不明ですが、年代的には元圭が死亡したとき歳胤は21歳であることから何れにしてもそう長い間の師弟関係があった訳ではないようです。

  中根元圭と子の彦循の墓
      (京都・黒谷)
 

2.幸田親盈
 歳胤の師、幸田親盈(1692〜1758)は武州埼玉郡八條領中馬場村(現埼玉県八潮市)の領主で、150石の旗本でした。「増修日本数学史」には、『友之進と称し、子泉と号す。幕府の士なり。中根元圭が門に在って、粛々たる者とす。門人頗る多し。彦循と共に中根流派に幹たり』、『幸田親盈は、中根元圭の門人なり。中根彦循は元圭の男なり。みな数学を善くす』、『数学を関流中根元圭に受けて、大いにその奥に通ぜり。人呼んで、中根流の算士と曰う。その名当時に振う。門弟に幕臣多し。彦循と共に中根流の骨髄たり』とあります。
 歳胤は、「天文大成真遍三條図解」「大儀天文地里考」「改暦加減集」などの序や引、あるいは本文冒頭で「幸田親盈先生門人 千葉歳胤」などと記述しています。また、「天文大成真遍三條図解」の序の中では弧矢の問題について親盈との関係を述べています。さらに「天文残考集」の序の中で『親盈先生ノ門ニ遊フコト年久シウシテ』と述べています。





     幸田親盈の墓
    (八潮市妙光寺)

3.今井兼庭
 今井兼庭(1718〜80)は現在の埼玉県児玉郡上里町金久保に生まれ、通称を勘蔵(官蔵)といい、赤城または兼庭と号し、算学を究めて江戸駿河台に住しました。門人には経世論者である本多利明(後述)がいます。「増修日本数学史」に、『幸田親盈の高弟にして、建部派中に在りて、錚々たる者とす。数学上の発明術二三に止まらず。・・・(略)・・・兼庭、傍ら暦学に通ぜり。門弟を育うこと多し。傑才少しとせず。本多利明の如きその人なり。兼庭著書多し』とありますように算学・暦学に秀でていたようです。特に算学については、「算法雑解」「演段維乗率」「円理弧背術」「授時暦講義」など六十一書を挙げ『凡そ七十余部、数百冊とす。盛んなりと謂うべし』としています。
 兼庭と歳胤は、幸田親盈を師として同門でした。このことは歳胤の「天文大成真遍三條図解」の自序中に『コヽニ予カ同門今井官子トイヘル者アリ。ヨク算術ニ達ス。故ニ先生
(親盈を指す)カレニ命シテ弧矢一術ノ半ナレルヲアタフ。官子コレヲウケテ心神ヲナヤマスコト三年。ツイニ其術意ヲ得タリ。眞ニ弧矢妙術ナリ』とあることや、「皇倭通暦蝕考」の序文中、および「蝕算活法率」の序文中に『今井兼庭者予同門也、無双算士也』とあることによって明白です。また兼庭の「明玄算法」の自問十九の中には歳胤と門人の問題が掲載されています。



  兼庭は、任意の三角形内に互い
 に外接する三円を内接した場合に
 三辺の長さを知って三円の直径を
 求めるという「三斜容三円術」の問
 題を「雑術」といわれる書物の中で
 解いたといわれます。
    (埼玉県教育史第2巻)

4.渋川光洪
 渋川光洪(1722〜71)は初名孫次郎、後に図書光洪と名乗り寛延3年(1750)に天文方を相続しました。明和8年五十歳で亡くなっています。戒名は天眞院春室紹夢居士。渋川家は最初の天文方春海から始まる天文方の名家ですが、春海以降は若くして亡くなったりして代替わりが頻繁に行われたためか学力低下で家運は一時沈滞しました。幕末の景佑の時再び天文方の主導を握るようになります。
 光洪は実兄則休が病死した寛延3年に天文方を29歳のとき相続しました。翌宝暦元年(1751)4月7日京都測量御用を仰付けられ、京に赴いています。
 天文の実力が伴わなかったといわれる光洪に対して歳胤は、「大議天文地里考」では「奉 大先生」と述べ、「改暦加減集引」でも「奉 光洪大先生」と述べて光洪を立てています。さらに「蝕算活法率」では光洪が序を書いています。


    渋川光洪の墓
    (東京・東海寺)

5.歳胤の門人
 「皇倭通暦蝕考」や「蝕算活法率」の序などから歳胤の門人を探すと、
    篠山光官、石河貞義、佐々木秀俊、井上義教
    佐治庸貞、小坂雄税、竹田近江清一、鈴木布道
などの名が見えます。合計すると18名の名が確認できます。