江戸中期の天文暦学者 千葉歳胤 本文へジャンプ
歳胤の墓所


 書 評 鈴木布道の算額 歳胤と児玉空々慈光寺の算額

  歳胤と児玉空々 



書評

「天文大先生 千葉歳胤のこと」の書評が掲載されました。評者は金井三男氏です。ありがとうございます。以下に抜粋を掲載させて頂きます。

『・・・本書は一般書ではなく研究書なのだ。しかも研究者を研究した本なのであり、有名人の伝記ではない。著者が千葉歳胤の同郷者だったから研究したとしか評者には考えつかないのだ。・・・もしあなたが日本暦学史や和算史をマスターしたいなら、ぜひ本書を入手すべきである。すると、西洋とはまったく異なり、日本でなぜ天文学が実学としてしか発展しなかったかが、よく理解できるはずである。それともちろん、千葉歳胤という学者が今まで以上に暦学史の中で評価されねばならない理由がわかるはずだ。』


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鈴木布道の算額
鈴木与兵衛布道は千葉歳胤の門人でした。このことは「蝕算活法率」の序に見えます。
鈴木布道は暦学を歳胤に、和算を宅間流の内田源兵衛秀富に学んでいるようです。最上流の会田安明編の「算法他流諸国之標題集」(山形大学・佐久間文庫)には、以下のように鈴木布道が浅草観世音堂に奉納した算額の問題が掲載されています。時期は明示されていませんが、「例題で知る日本の数学と算額」(深川英俊著・森北出版)によれば明和4年(1767)とあります。(未解析です)
































千葉歳胤と児玉空々
 千葉歳胤と児玉空々?、一体何のことかと思われるかも知れません。
 児玉空々は江戸後期に琴学の最盛期を招いたといわれる琴士(七弦琴)でした。辞書によれば、
 『児玉空々(こだまくうくう)享保19(1734)~文化8(1811)江戸中期の代表的な琴楽家。田安徳川家の儒臣。名は慎、字は黙甫、通称喜太郎、空々は号。江戸に住む。琴楽は、孔子のころよりの七弦琴の古楽で、文人の四芸である琴棋書画のひとつ。日本では奈良・平安時代に行われて一旦消滅し、江戸初期に、徳川光圀に招かれた明の禅僧東皐(とうこう)心越によって再興された。空々は和算家の幸田子泉に琴を学び、江戸牛込の安養寺で弟子百人を擁する琴社迎暾閣(げいとんかく)を興し、日本琴学の最盛期を招いた。空々が集めた多数の和漢の琴譜、琴書は田安家に保存され、現在、国文学研究資料館に所蔵されている。』(朝日 日本歴史人物事典 1994 朝日新聞社)、とあります。
 七弦琴は文人がこよなく愛したもので、武家・儒者・画人・詩人にいたるまでおよそ文人と言われる人達の教養として流行りました。浦上玉堂や佐久間象山なども琴人でした。
 この七弦琴の演奏はどのように行われたかというと、
 『琴士たちは相集い、琴を弾き琴を聴いて楽しむ。一般に琴会という。多くの聴衆が集って聴く今日の演奏会とは違う。それに琴楽は元来身を修めることを旨とする音楽であり、琴会は聖者・文人の集まりである。弾琴できない文人も聴きに来るが、文人に価しない俗人は入れない雰囲気である。また純粋な琴会ではない文人の集いに雅会がある。琴棋書畫を嗜む人々の集まりで、漢学者、詩人を含む遊宴である。集う人の多少は問わない。清遊にふさわしい地を選ぶことが多い。送別の雅会も少なくないし、追善を目的とする大会もある。』、と文献(1)にはあります。
 因みに、大田南畝(蜀山人)(1749~1823)は児玉空々に関する漢詩を幾つも遺しています。その内、文献(2)より二つ挙げてみます。

・聞空々子弾琴     享和2年(1802)(還郷集)
 高士横琴坐草萊 任他月色望難開 心閑手敏七絃上 一曲秋風帰去来
 〔空々子の琴を弾ずるを聞く〕
 高士琴を横たへて草萊に坐す 任他れ月色の望み開け難きを 心閑 かに手は敏し七絃の上 一曲の秋風帰去来

・哭空々先 姓宿谷諱慎字子玉以七月廿一日逝      文化9年(1812)(杏園詩集)
 心在江湖未払衣 飄然逸気託音徽 自今一曲広陵散 万古干秋知者稀
 〔空々先生を哭す 姓は宿谷、諱は慎、字は子玉。七月廿一日を以て逝く〕
 心は江湖に在つて未だ衣を払はず 飄然たる逸気音徽に託す 今より 一曲の広陵散 万古干秋知る者稀なり

 さて、空々の師は幸田子泉でした。子泉は琴学上の号で、千葉歳胤の師・幸田親盈その人です。つまり、親盈は暦学と琴学に門人を持っていたということになります。
 文献(1)には親盈について次のようにあります。
 『名は親盈、字は子泉、俗称友之助。姫路藩酒井家の臣中山親繁の子。幕臣幸田正臣(百五十石)の養嗣子となり、小十人組頭、西城切手御門番頭、西城御広敷番を勤めた。三人の子親平、親安、親住はみな田安徳川家(琴士児玉空々を出す)に仕えた。子泉は中根白山(注:元圭)に算学を修め、暦学に善く、幕府の暦術家となる。『授時暦正解』等の著をもって世に聞えた。若年より琴を小野田東川に学ぶ。頗る伝を極めたというから、『東皐琴譜』の大多数の曲を修得したのであろう。厳密な朱子学者であったので、仏徒の曲「釈談章」を敢えて弾ぜず、「帰去来辞」(陶淵明の詩)も心越の曲譜を用いず、明の楊掄の『太古遺音』の譜を使うことをした。珍しいことである。心越の用いた琴譜(一曲ずつを一冊に書いたもの)五十余曲分と琴書(恐らく中国の琴書)数部・・・(略)・・・等を所有していた。五十曲といえば、『東皐琴譜』の全曲に近いものであろう。前述の「田安徳川家蔵楽書目録」に見える四十九曲を収めた「東皐琴譜」は「幸田子泉旧蔵」と朱筆のある児玉空々蔵本である。
 幸田子泉は、琴のほか「古筝」も習得した(『閑叟雑話』)。「世に筑紫筝というもの」とある。八橋検校の俗筝の前身、北九州の僧賢順の創めた十三弦の筝の筝歌である。長く今曰まで北九州にのみ伝承されたが、六代目の猪崎律斎(号は養貞、字は貫通、江戸紅葉山楽人、『筑紫筝教』の著あり)が、北九州から江戸に移った村島政方から伝授されたのを幸田子泉が学んだのである・・・(略)・・・』

 このようなことから、親盈は暦学の他に音曲にも相当造詣が深かったことが伺い知れます。

 さて、児玉空々について今少し述べたい。文献(3)の空々に関する部分などを参考にすると次のようなことがわかります。
 空々の本姓は「宿谷」であり、故あって「児玉」と改め、老後宿谷に戻っています。宿谷氏は、もともと武蔵七党の一つである児玉党より端を発しています。鎌倉時代には、宿谷次郎左衛門尉行時・左衛門尉光則の父子は寺社奉行として北条時頼・時宗に仕えています。つまり宿谷氏は父子二代にわたり鎌倉政権の中枢に参画している名門でした。この宿谷氏の本拠地は埼玉県毛呂山町宿谷であり、筆者が生まれ育ったところからわずか1.5kmのところです。
 空々は宿谷氏の末裔で、いわゆる江戸宿谷氏の直系です。江戸宿谷氏(幕臣)は、初代尹宅、二代尹行、三代富房、四代俊照と続き、五代嘉照が空々その人です。空々の戒名は「寛隆院義山空々居士」(文化9年7月21日)です。

 なお、追記になりますが文献(1)には、新楽閑叟(にいらかんそう)(1764~1823)による「閑叟雑話」のことが書かれており、その中に琴社諸友記というのが記されています。その琴社諸友記の名簿の中に「津田立意」なる人物の名を見つけました。この津田立意は歳胤とともに「一綫儀説」を著した津田立意源東樹のことと思われます。歳胤の門人でもある津田立意は暦学と同時に七弦琴を習い、児玉空々の琴会に参加していたということと思われます。
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 空々と歳胤はこのように分野こそ違いますが、幸田親盈という共通の師を持っていました。このこと自体も驚きでしたが、さらに、空々の先祖をたどれば宿谷氏であり、その本拠地毛呂山町宿谷と、歳胤の故郷である飯能市虎秀とは直線距離でわずか4kmに満たない山一つを隔てた位置関係にあります。歳胤が音曲に興味があったとか、空々と会ったとかいうような記録は見つかりませんが、津田立意のことを考えるとそのようなことを想像したくなり、歴史のロマンを彷彿させるものがあります。

参考文献
(1)「江戸時代の琴士物語」岸辺成雄(有隣堂印刷 平成12年)
(2)「大田南畝全集」(岩波書店 昭和60年~平成2年)
(3)「続 宿谷氏の賦」山口満(毛呂山郷土史研究会 第12号)








慈光寺の算額
千葉歳胤とは直接関係ありませんが、埼玉県北西部は江戸末期それなりに和算が盛んであったようで、寺社に算額が奉納された例が幾つかあります。ここでは埼玉県比企郡ときがわ町西平の慈光寺の算額を紹介します。
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  1.はじめに
 比企郡ときがわ町西平の慈光寺は、天台宗の古刹として大般若経(慈光寺経)や寛元3年(1245)の銅鐘を有していることで有名だが、坂東三十三観音の九番目の札所でもある。ここの観音堂にはかつて算額が掲げられていた。算額とは数学の問題や解法を書いて寺社に奉納したものであるが、寺の人の話(平成21年5月)によれば、この算額は痛みがひどく文字も読めない状況であるという。そのため化学処理を行って宝物殿金蓮蔵に保存されているが公開はされていない。筆者はビニールで覆われた状態を拝見させて頂いたが無論中身は見ることができなかった。現在の観音堂(図1)は平成5年から4年かけて修復されているが、この修復以前に算額は既に外されていたようである。文献(1)には図2のように算額が掲げられている写真が載っているが、いつごろのことか不明である。



テキスト ボックス: 図1 修復された観音堂(2009年5月)










テキスト ボックス: 図2 かつての観音堂(1)







 その文献(1)には慈光寺の算額について、「文政13年9月、サイズ200×80、数3、出題者田中与八郎信直」とあり、また同文献の別の個所には、「文政13年3月、出題者市川行英門人久田儀、引用文献算法雑俎」とある。文政13年(1830)9月と3月の違いは、「算法雑俎(さんぽうざっそ)」には確かに3月とあるが文献(2)及び(4)には実見として9月とある。これは算法雑俎が現物を見て記録したのではなく、原稿をもとにしているからであろう。
 算法雑俎に記載されている慈光寺の算額の出題者は、市川行英門下の田中興(与)八郎信直(道)、馬場興(与)右衛門安信、久田善八郎儀知の三名で現在の小川町古寺・腰越の人達であり、問題は三問掲げられている。この算額について文献(1)では三問とも簡単に解説しているが、原文にある術文(計算式)は省略されている。文献(2)は一問目のみを掲げて現代風に解いている。文献(3)は全文を掲げ、三問目のみを現代数学で解いている。文献(4)には出題者のことなどが述べられている。このように慈光寺の算額については過去に発表された資料があるので目新しいことではないが、これら文献の一部を引用させて頂きながら筆者なりに述べてみたい。

  2.算額の内容
 「算法雑俎」は、関流の算士白石長忠(1795~1862)の門人岩井重遠(1804~78)が編集(市川行英訂・白石長忠閲)したもので、文政13年3月の序文がある。主に群馬・長野・埼玉などの十九社寺・二十二面の算額を記録している。埼玉では飯能の子(ね)の権現、東松山の稲荷社(箭弓稲荷社)の算額も記載されている。この算法雑俎は東北大学の和算ポータルサイトで見ることができる。慈光寺観音堂の算額(図3参照)は以下のようなもので、三問が記載されている。阪東九番は慈光寺のことである。



テキスト ボックス: 図3  算法雑俎の慈光寺観音堂の算額
    (東北大学和算ポータルサイトより)









   所掲干阪東九番観音堂者一事
  今有如啚以等弧背抱五員天員徑
  六十八寸地員徑一十七寸問人員徑幾何
    答曰人員徑六十四寸
  術曰以地徑除天徑名極平方開之
  六之加極及一个以除天徑一十六之得人徑合問

  今有如啚長立員穿去梭長徑若
  干短徑若干問得穿去積術如何
    答曰如左術
  術曰置三个一分二釐五毫平方開之内減一个餘
  乗長徑及短徑冪與球積率得穿去積合問


 今有如啚削矮立員一十二角角背切立員周
 徑若干短徑若干問得積術如何
   答曰如左術
 術曰置長徑自之乗短徑半之得積合問

     市川行英門人
       武州比企都古寺邑      田中興八郎信直
       同郡腰越邑          馬場興右衛門安信
       同邑               久田善八郎儀知
     文政十三年庚寅三月

   (用語)啚=圖=図。員=圓=円。个=個、一个は一つで一個のこと。幾何=どれほどか。
     術=方法あるいは答えにいたる手順。長立員=長軸に関して回転して得られる楕円体。
     穿去=穴を開けて取り去ること。梭(おさ、さ)=菱形のことを中国の古算書では梭田という。
     若干=いくつと定めないがその数が与えられているときに用いる。
     球積率=玉積率ともいう、球が内接している立方体の体積と球の体積との比でπ/6に相当する。
     矮立員=短軸に関して回転して得られる楕円体。


  一問目
 今図のように互いに接する等しい円の円弧(等弧背)の間に五つの円を接するようにして、天円の直径が六十八寸、地円の直径が十七寸のとき、人円の直径はどれほどか。
   答に曰く人円の直径は六十四寸
計算方法は、地径(地円の直径)で天径(天円の直径)を割り極と名づける。之を平方開し六倍し極及び一を加えたもので天徑の十六倍を割ると問に合う人径(人円の直径)を得る。
 これは式1のようなものであるが、この式を導き出すまでは面倒な計算が必要である。二問目以降も同様であるが、計算方法と言っても結論だけで、その式を導き出す経過は述べられていない。つまり、多くの算額がそうであるように、「解曰」という式を導き出す文は長文になるためだろうか書かれていない。

  二問目
 今図のように楕円体を底面が菱形(菱形の対角線がそれぞれ楕円の長軸と短軸に等しい)の角柱で穿ち去るとき、穿ち去った楕円体の体積を求める方法はいかに。
   答に曰く左の方法
 計算方法は、三个一分二釐五毫(3.125)を平方開し一を減じたものに長径と短径を二乗したものを掛け球積率(π/6)を掛けて問に合う穿ち去った体積を得る。
 これは式2のようなものであるが、この式を導き出すのはかなり難しい。

  三問目
 今図のように矮立円(楕円体)を十二個に分割してその面を削る。削る角の背は楕円周上にある。(楕円の)長径・短径から残った体積を求める方法はいかに。
  答に曰く左の方法
 計算方法は、長径の二乗と短径を掛け之を半分にして問に合う体積を得る。
 これは式3のようなものであるが、区分求積法により求める。







テキスト ボックス:          式1  一問目の計算式






テキスト ボックス:        式2  二問目の計算式





テキスト ボックス:        式3  三問目の計算式


  3.出題者のことなど
 算法雑俎の編者・岩井重遠は文献(5)に、「右内と称す。上毛人なり。初め業を小野栄重(一七六三~一八三一)に受け、後ち白石長忠の門に入り、豁術(かつじゅつ)を学びぬ。算法雑俎は問題答術を記るせしものにして、その過半は栄重、宜長、行英、安本、等の門人が掲額せし所の算題なり」とある。関流の小野栄重は上毛の算学の祖と言われる人で、その弟子には斎藤宣長(1784~1844)もいる。
 出題者の師とされる市川行英(1805~54)は文献(5)によれば、「玉五郎と称し、南谷と号す。上毛人なり。初め業を斎藤宣長に受け、後ち白石長忠の門に入り、益々数理の奥を知りぬ。天保七年(1836)合類算法を著す」とあり、また文献(6)には、「上州甘楽郡観能村(現・甘楽郡南牧村観能)の人、故ありて郷里に居つらくなり、武州あたりに来て教授したと云ふことで、川越侯の知遇を得たと言はれる。此人の門人が武州に散在するのは其為めである」ともある。なお、慈光寺の算額は、算法雜爼には単に「市川行英門人」とあるが、文献(4)には(実見として)「關流市川玉五良行英門人」となっている。
 算法雜爼には慈光寺の算額に記されている三名の他に、市川行英の門人として飯能の子の権現の算額に、「武州高麗郡原市場邑(現飯能市原市場) 石井彌四郎源和義」の名が、東松山の稲荷社(箭弓稲荷社)の算額に「武州男衾郡竹澤邑(現小川町木呂子) 栗島寅右衛門精彌」の名が記載されている。

 さて、出題者三名のことを述べたいが詳しくはわからない。今から70年前の文献(4)から要点のみ上げれば次の通りであるが、いずれも算学としての情報はほとんど得られなかったようである。
 大河村(現小川町)下古寺に田中姓はあるが、田中興八郎信直(道)に直接結びつく資料などはないという。
 腰越村(現小川町)の馬場與右衞門安信については、根古屋の馬場氏であり位牌に、
   關山惠通居士位、弘化二乙巳年(1845)七月念有八日、
馬場友八忰、俗名與右衞右門行年四十一歳
とあるという。算額には文政十三年とあるから二十六歳のときに掲額したことになる。
 久田善八良(郎)儀知の家は腰越村小貝戸で墓に、
   見譽淨巖居士、嘉永四亥年(1851)四月廿四日
俗名久田善八郎儀知、施主同苗頂太郎
とあるという。享年は刻してない。

 著者の三上義夫は著名な数学史の研究学者であるが、こういった状況を、「古い時代に就いて知る事が出来ないのは、何れの地でも同様ではあるが、此れも残念である。(略)如何に過去の算者が忘れられて居るかを思ふとき、時代のやや古いものは凡て忘却の中に落入って、知り得られないのであらう。」と嘆いている。なお算額そのものについては、「(比企郡の)現在の算額では、慈光寺のものが最も内容の優れたものであるが、其れは師匠たる市川行英が有力者であった賜ものである。之れに名を署した三人の門弟が、殆んど事蹟の知られないのは惜しい」と述べている。三上義夫は70年前に比企郡における三十余人の算者の事跡を調べていてその功は大である。比企郡にも相当な算者がいたということである。
 なお、久田善八郎儀知の墓は小川町腰越に現存し、筆者は子孫の久田友男氏に案内して頂き拝見している(図4)。 



テキスト ボックス: 図4 久田善八郎儀知の墓(小川町腰越 平成21年6月)









【参考文献】
(1)「例題で知る日本の数学と算額」深川英俊(森北出版 1998年)
(2)「算額を解く」大原茂(さきたま出版会 平成10年)
(3)「埼玉の算額」(埼玉県史料集第二集 埼玉県立図書館発行 昭和44年) 
(4)「武蔵比企郡の諸算者(1)~(5)」三上義夫(埼玉史談 1940年5,7,9,11月号、1941年1月号(旧第11巻5,6号、第12巻1~3号))
(5)「増修日本数学史」遠藤利貞遺著・三上義夫編(恒星社厚生閣 昭和56年)
(6)「北武蔵の数学」三上義夫(郷土数学の文献集(2) 萩野公剛 富士短期大学出版部 昭和40年)
(7)「算法雑俎」(東北大・林文庫) ポータルサイトは下記のURLです。
        http://www2.library.tohoku.ac.jp/wasan/
 (平成21年9月)





重栄か栄重か
 拙著「天文大先生 千葉歳胤のこと」の中で、伊能忠敬記念館にある歳胤の「蝕算活法暦」について、「寛政元年(1789)己酉卯月十五日 上毛 重栄写之」とあることを説明し、且つ重栄とはどのような人物か不明と述べました。
 執筆当時は、上毛の算学の祖と言われる小野栄重(1763~1831)かなと思った時期もありますが、やはり重栄と明確に書かれているので不明とした経緯があります。執筆後も気になってることの一つであり、若干の調査を継続していますが、未だもってどのような人物か不明です。
 埼玉史談第12巻1号に野口泰助氏になる「北武の算家落穂拾い」という論文があり、その中で黒沢理八郎重栄という人物のことを述べているので、もしやと思い読み進めました。しかし、この人物は市川行英の門人で、大宮氷川神社に算額を奉納もしていますが文化6年(1809)生まれとあるので、寛政元年に写すということはあり得ないことになり対象から外れました。
 一方、小野栄重については、文献(2)に、「小野栄重、通称捨五郎、後良佐といふ。字は子厳、上毛板鼻村(現:安中市)の人である。藤田貞資に学ぶ。・・・幕府天文方測量屬で、伊能忠敬の測量に従ふこと20年であった」とあります。また文献(3)には、伊能忠敬の第4次測量(本州中部測量、享和3(1803)2月25日~10月7日の219日間)に小野良助(佐)が加わった旨が記されています。栄重40歳のときです。栄重が「星測量地録」、「弧背真術弁解」などを著したのはそれ以降の文政年間で上州に戻ってのことのようでした。
 「寛政元年 上毛 重栄写之」が、仮に栄重とすれば26歳のときであり、伊能忠敬記念館にあるのも辻褄が合うように思えます。しかし若いとき重栄と称し、その後逆にして栄重と称するようなことがあり得るのかは疑問があり、やはり重栄の正体は不明です。

参考文献
(1)「埼玉史談第12巻1号」(1965年5月号)
(2)「明治前日本数学史第4巻」日本学士院編、岩波書店
(3)「幕府天文方御用 伊能測量隊まかり通る」渡邊一郎(NTT出版 1997年)