チリ その18   次ページ  前ページ  トップ    


第72回(12.30配信)464

 8月11日(土)・・入国30日目(交換義務金600ドル。所持金1380米ドル)・・夕方、どうしても足がプエルトに向いてしまう。相変わらずガランとしたホールのソファで尾崎がグローリアの肩に手を回してビールをあけている。及川は部屋の中ほどに置かれた椅子であぐらをかき、イネスが横座りしている。両脇には名前の知らない女の子たち、後ろからはカルメンが彼の肩をもんでいる。殺風景な部屋がそこだけ明るい。
「及川よ、念願かなったな」
「まあな。お前は毎日、何をしているんだ」
「港町を歩きまわっている」
「馬鹿だな。面白くないだろ」
「・・・・」
 返す言葉が見付からない。旅をしているときは、常に風景が変わり、出会う人も環境もかわる。それなりの刺激もある。しかし、生活者になるとどこに身を置いていいかわからなくなる。
「プエド(ねえ)」
 カルメンが飲みものを催促する。今晩も客の付きが多くないらしい。客の飲んだ料金の何パーセントかは接待嬢にバックされるシステムになっている。いつだか忘れたが、ぼくのノーの返事を聞いて、寂しげに肩をおとしたカルメンの姿を見ていらい、すぐにOKをだすことにしている。
「グラッシャス」
 もっと高いものを頼めばいいのに、カルメンは一番安いセルベッサ(ビールのこと・ヤミドル換算で15円ほど)を片隅で飲み出す。
 ここで働いている女性たちの現状は知らない。離婚して、ひとりで何人もの子供を育てている人もいるだろう。病気の両親や莫大な借金を抱えている人もいるだろう。だがどんな状況であろうが、彼女らにはコラソン(心)がある。やさしく、ほがらかな気持ちがある。
 尾崎や及川が、ここにいりびたりなのは、食事は作ってくれる、言葉も教えてくれるなどの物理的なものもあるだろうが、それ以上に彼女らのやさしい心に触れているからだろう。
 ともあれ、入国してから1か月ほどが経った。
 滞在すればするほど、出国時に両替する金が多くなり、あげくの果ては、危険を犯しての密出国しか脱出の方法がなくなる。この現状が彼らの心にはどのように映っているのか。彼らを見ていると、いつも聞きたくなる。

第73回(1.3配信)465


「いよ、やっているね」
 ヒロがひょっこりプエルトに入ってきた。航海士の鈴木さんと甲板員の森山さんも一緒だ。彼らは第1埠頭に停泊している第4海洋丸の船員である。
 南太平洋の沖合いでマグロ漁をしていたときトラブルが起こった。エンジンからオイルが漏れ、ベアリングが焼け切れてしまった。とても操業を続けることはできない。荒海の中を予備のベヤリングを使い捨てながら、やっとのことでこの港町にたどり着いた。それからすでに1カ月以上。親会社から当面の生活費の送金はあるが、チリの銀行では、公定レートの金額しかうけとれない。ヤミドルを使わなければ、この国の物価はとても高いものになる。
「ママ、1万円、両替してくれないか」
「ハポネス、デネロ。ノー(日本円、だめね)」
 このような会話が、日本円をみせたとき必ずかわされる。地球の裏側ではとくに日本通貨の価値などない。米ドルが幅を利かせている。
「気が滅入るよ。船乗りがカネなしで陸に上がったらカッパと同じさ」
「ハワイでカネを使いすぎたよ」
 彼らは、さかんにボヤいている。
 契約切れの12月までに船底の冷凍庫をマグロで一杯(1500匹以上?)にしなければならない。まだ冷凍庫の中は3分の1しか詰まっていない。1か月帰港がおくれると違約金100万円を払わなければならない。
 彼らは、精神状態がおかしくなったといって、日本に病気帰国してしまうか、この船を降りてカナリア諸島へ行き、どんどん入港する別の日本船に乗ってしまうか・・・真剣に考えるほど追い詰められている。
 ヒロが、修理品が日本から届いたんでしょ。機関長がもうすぐ修理が終わるといっていましたよ。すぐに出航できますよと慰めても、彼らの表情は暗い。
 ぼくらは、第4海洋丸が港にいるだけでどれだけ助かっているかわからない。船にいけばいつでも日本食にありつける。日本の小説も貸してくれるし、マージャンにも誘ってくれる。普段意識していなかった日本がすぐそこに漂っている。きな臭いこの国、脱出しなければならない無言の圧力の中にあって、漁船は、ぼくたちには砂漠に咲くオアシスのようなもの。
 だが、オアシスへのお返しは、彼らにビールをおごることしかできない。


第74回(1.6配信)465

8月12日(日)・・入国31日目(交換義務金620ドル。所持金1380米ドル)・・午後1時過ぎ、谷が久しぶりにやって来た。彼の結婚式で会ったカルロス、マルガリータ、イボンヌ、リリアン、エルサも一緒である。味噌ラーメンでもご馳走になろうとみんなでマグロ船に押しかけたが、案の上、チリ人は、許可書がないと船が泊まっているゲートの中には入れない(日本人のぼくたちは、顔パス)。しかたがないので、近くのパン屋でハンバーガー(?)を買い、貸しボートで湾に乗り出す。
 乗り合わせたイボンヌ、リリアンとも色白で細面、長い黒髪が、若さと美しさを感じさせる。
 彼女らは、明日の学校のことを話している。どうも授業が先生のストライキで、あったりなかったりしてるらしい。
 静かな波に乗り出しているとこのまま彼女らを連れて、地球の裏側の日本まで、このボートで行けたらと思ってしまう。湾には、ちいさな漁船のほかに、大きな貨物船も入港している。いざとなったら、貨物船に乗り込んで、密出国! なんて恐ろしい考えも浮かんでくる。
 ボートを降り、みんなでユネスコ村にバスで行った。しかし、日曜日だというのに村は、閉まっている。チリの大半の人びとは、休日を遊ぶという心の余裕もなくなってしまっているのか?


次ページ  前ページ  トップ