第106回(4.28配信)437
9月8日(土)・・入国58日目(交換義務金1160ドル、所持金1260米ドル)・・何時ごろだろうか? 突然、グラディがやって来た。彼女は、何かをいうといきなりカーテンをひらき、窓を押し開けた。新しい空気が流れ込んでくる。よほど部屋の中がくさかったのだろう。
「病気? 熱は?」
「わからない」
「食べれる?」
「いや、駄目。どこかにレーチェ(牛乳)ないかな?」
「レーチェ!」
グラディは当惑している。無理もない。この町で牛乳を売っている店に出会わない。だが、牛乳さえあれば元気になれるような気がする。グアテマラで悪性の風邪に見まわれたときも、ペルーで疲労のために動けなくなったときも、牛乳をたっぷり飲んで乗りきってきた。それ以来、牛乳は体調を整える精神的な役目を果たしている。
「エスペラール(待ってて)」
グラディはテーブルに置いてあった3000エスクードほどをバックに入れた。どこに行く気なのか? 牧場にでもいかなければ、牛乳なんか手にはいらないだろう。
それから何時間くらいたったのだろうか。
グラディが紙袋をかかえて戻ってきた。ミカンやモモの缶詰の中からゆがんだ缶を手渡してくれた。ベビー用のコンデンスミルクだ。牛乳より栄養があるとグラディはいう。トロっとした濃縮ミルク、口の中で甘く広がる。元気がでてきそうだ。あしたは、谷や田中を追いかけて出発できるかも知れない。
第107回(5.2配信)435
9月9日(日)・・入国59日目(交換義務金1180ドル、所持金1260米ドル)・・今朝出発しようとしたが・・・。
サンチャゴは、いつも天気が悪く、雨ばかり降っていた。このバルパライソは、気候温暖、雨がほとんど降らないのに、窓越しに、珍しく雨が薄く降っているのがわかる。
嫌いな雨、おまけにそとは、騒がしい。アジェンデ擁護派と反対派が、プラカードを持って街中をデモ。お互いになじりあっているのだろう。石を投げ合わなければよいが・・・
こちとら体がまだまだ本調子ではない。小便は真黄色、食事はとれない。セシリアからプエルトに来てと電話がはいったが、とてもそんな状態ではない。いまは静かにねるだけだ。
9月10日(月)・・入国60日目(交換義務金1200ドル、所持金1260米ドル)・・午前10時起床。今日こそは出発だ。セシリアを始め、誰にもチリを離れることを言っていないが、後で手紙でもプエルトにだすか。荷造りをしていると福岡さんがやって来た。珍しく及川も一緒だ。
「もう出ちゃったかと思ったのだけど、寄ってみたんだ」
「体に力が入らなくて」
「焦って出ることないよ。時期が悪い」
「脱出ルートが問題?」
「それもある」
福岡さんは、飛行機切符を買いに航空会社・LADEGOに行ったが、来週の金曜日まで、ニューヨーク行きの切符はなし。サンチャゴから南下する列車は、午前8時30分の1本だけ、バスは3日待ちという。
「ここ毎日、デモや流血騒ぎが起こっている」
福岡さんは、『ラ・ナシオン』を広げて、見せてくれた。
アジェンデ系のテレビ局9チャンネルが突然放送中止。労働者が「俺たちの放送局を奪うのか」と武器を手にした。そのため、軍と工場労働者のあいだで銃撃戦。逃げ惑う群衆の写真が大きく取り上げられている。
別の紙面には、アジェンデ、総選挙実施を決議とある。
ついに総選挙か。一日に1%以上、最近では2%にも達する物価の上昇だ。当然の成りゆきといえるだろう。
「これでアジェンデ政権も終わりだね」
「そうとも言えない。裏面を見て」
チリ・スタジアムを埋め尽くした労働者の写真が掲載されている。何人かはチリの小旗やラテン・アメリカの地図の真中に斧を染め抜いた旗を持っている。こぶしを突き出し、マルセイーズ(革命の歌:福岡さん訳)を合唱している写真もある。
「選挙はアジェンデが有利さ。興味あるだろ。もう少し出発を延ばしたら」
「いや、時間がない」
彼らには、ぼくが急ぐ理由がわかっていない。あと2日で交換義務金と所持金が肩を並べる。もし国境でもめたら、全部交換(刑務所に入るよりまし)して、アルゼンチン側に抜ける。あとは、なんとかブエノスアイレスまで行き、仕事を捜すなりの方法を考える。このシナリオが可能なタイムリミットが迫っている。
及川が怪訝な顔をして、ぼくの顔、手、目が黄色いという。
鏡を見る。黄色い、白目の部分が黄色くかわり、その上を赤い毛細血管が走っている。黄疸だ。肝臓をやられた。
「いまはやっているんだ」
「出発なんて、むり」
食べ物や人の唾液にひそむウィルスから感染する流行性肝炎。体が弱っているとかかりやすい病気。いったい、どこで? 海辺のレストランでレモンを絞って食べた、あの生ガキが悪かったのでは。出発まぎわの大切なときに、なんてことだ。「明日、病院に行こう」の福岡さんの言葉がむなしい。
ゴルペ、街の空気が凍りついた
第108回(5.5配信)435
9月11日(火)・・入国61日目(交換義務金1220ドル、所持金1260米ドル)・・今日は、福岡さんが知っている医者(サンチャゴ)のところに行く予定だ。小便をしに廊下にでる。一瞬たじろんだ。いつもは誰もいない、狭くて薄暗い廊下に、人が大勢いる。彼らは一斉にぼくを見た。誰もなにもいわない。トイレから帰り際、彼らを観察した。
男たちは十数人。毛布をひろげて、そのうえでカード遊びをしている男、カーテンの脇から外を覗いている男、携帯ラジオを耳にあてている男。灰色の作業服に長靴の男たち・・・。彼らが、なぜここにいるのだろう。突然、『バーン』と爆発音が聞こえた。男たちは、一瞬ひるんだ後、窓からこっそり外をうかがっている。
部屋に戻っても、彼らのおびえた目つきが気になる。
ガラス越しに外を覗く。ドラム缶にゴミをくべて暖をとっている労働者も野菜を少しのせた荷車を引っ張っている少年の姿もない。新聞売りの『コレヒヨ、コレヒヨ』の呼び声もなければ、石畳の鋪道を掃くじいさんも会社や工場に急ぐ人々もいない。ときたま動いていたクレーンも長いアームをたれたまま。すべてが止まっている。福岡さんは、何時に迎えにくるのだろうか?
どのくらい寝たのだろうか? ドアが激しく叩かれた。尾崎とグローリア、セシリアも一緒だ。
「ゴルペよ」
「ゴルペ!」
「何をぼんやりしているんだ。クーデターだ。クーデターが起こった」
やられた。ついに起こったか。まだ大丈夫だろうと心の底のどこかで楽観していた。
「急いで!」
「どこに行くの」
「プエルトよ」
「サンチャゴで起こったんだろ。ここは安全じゃないの」
「なに言っているんだよ。クーデターはこの街から起こったんだぞ」
「いま何時?」
「10時40分」
「急いで、貴重品だけまとめて」
「もうすぐ戒厳令がひかれるだってよ。誰も町を歩けなくなる」
彼らの慌てぶりは普通ではない。クーデターだ。殺し合いだ。街角でいつ撃ち合いが始まるかわからない。彼らが、ぼくを呼びに来たのもかなり危険な行動のようだ。ホテル・ヘラスコにいたら町の店はすべて閉鎖のため、食事に困る。どこかに連れていかれてもそれっきり、誰にもわからない。人殺しだって頻繁に起こる。いま安全なのはできるだけ大勢と一緒にいることだ。