第109回(5.9配信)440
ホテル・ヘラスコからプエルトまで、頭の芯が凍りついた状態で来てしまった。
ただ、いつも人波であふれているバザールには人ひとりいなく、つぶれたトマトやバナナが転がっていたのが、記憶の片隅に焼き付いている。
「こんなことになってしまって・・」
プエルトのママは、かなりうろたえている。
「病気だと聞いて心配していたのよ」
カルメンとイネスが寄って来た。
「アマリジョ(黄色)ね」
名前を知らない可愛い感じの子が、ぼくの目を見ていう。白目の部分が、人が気がつくほど黄色くなっているのだろう。
「美味しい物を作るから元気をだしてね」
あたたかい言葉で緊張がほぐれる。
ソファに座るとカウンターに置かれている古い型のラジオが、ガアガアという雑音をあげて鳴っている。せわしげな音楽、行進曲のようだが・・・・
イネスたちの言葉をつなぎあわせれば、
・・・早朝、突然、大統領の住むモネダに、たくさんの戦車や兵士、戦闘機が現れた・・・アナウンサーのうわずった一声が、ラジオで流れたのが、クーデターの始まりらしい。
モネダ宮殿が、攻撃されている。クーデターの勢力は、戦闘機の数は、戦車の台数は、交戦の状況は、なに一つわからない。
十時ごろまでは、ラジオで労働者の決起を呼びかけたり、国民は慌てないようにと大統領のメッセージを流したらしいが・・・いまは何も聞こえない。行進曲に代って、静かな音楽が流れているだけだ。
政府が崩壊を始めると治安が悪くなると閉じまりの確認に行ったママが、セシリアを抱くように上がってきた。1階の階段のところに座り込んでいたらしい。
体が小刻みに震えている。
「おー、アジェンデ!」
さかんに血の気が薄れた顔を手で覆い、アジェンデの名前を繰り返す。武器を取って、はやく仲間と立ち上がらなければ、間に合わない・・こんな内容のこともつぶやく。
ラジオは、モネダ宮殿、炎上の報道以降、ぷっつり切れている。静かな音楽でさえ、いまは止まっている。
第110回(5.12配信)442
あと5分で正午だ。
窓べにいるイネスとグローリアの脇から外を覗く。通りは、ひっそりして、もう人影はない。やけに強い風に大きく舞う木の葉が気になる。
静寂を破って、はすむかいの2階の窓(ホテル・ニューヨーク?)がいきなり開いた。セニョーラが身を乗り出し、窓の下に声をかけた。気がつかなかったが、男がひとり建物の壁にへばりつくようにしている。2階の窓からヒモがたれてきた。男はヒモの先にビニール袋を縛った。
「グローリア、あれペスカド(魚)じゃない」
「魚だわ」
「呼んで、食べものが少ないの」
グローリアが、あわただしく窓を押し開いた。
「オジェー(ねえ、ちょっと)」
男がザルをかかえ、左右に気を配ると一気に通りを横切ってきた。
「クワント・コスタ(いくら)」
男は指を2本たて、何かを言った(値段と残っている魚の数?)。
「すごく高いわ。1匹2000だって。どうする」
「しかたないでしょ。お金6000エスクードはやくだして」
グローリアは、ぼくからお金を受け取るとヒモの先に結び着けた。金と入れ替わり、ビニール袋にいれられた魚(市場でこの魚を買うと10分の1くらいの値段)がするすると上がってきた。戒厳令まであと2分。あの目先のきく商売人の男は、これからどうするのだろう? 男は空になった籠をかかえて通りを一目散に山の方に走り去っていった。
第111回(5.16配信)439
ラジオは、あいかわらず沈黙している。
トイレの帰りに、階段の向かいにある狭い調理場を覗いた。セシリアとグローリアが窮屈そうに、野菜を洗っている。皿には、3匹の黒い胴体をした魚がのっていた。魚のグロテスクな目玉が、こちらを睨んでいる。イネスが魚の尾をつかんで水を切り、包丁でぶつぎりにした。魚以外に食材はしおれたニンジンと大根にジャガイモ、そしてアロス(米)。8人(ママ、イネス、カルメン、グローリア、マリア、セシリア、尾崎、ぼく)の胃袋を満たすには、あまりにも量が少なそうだ。
ソファに戻ると軽いめまいがした。クーデターで張っていた気力がなくなっている。
フロアを歩きまわっていた尾崎が隣りに座り込んできた。
シルトン(チリ国産の煙草)を二人でスパスパ吹かす。
「及川はどうしているかな?」
「心配ないだろう。エレナがついている」
「そうだな。谷や田中は、いいときに逃げたな」
尾崎の言葉を聞いていると自分がはがゆい。病気で寝込まなければ、今ごろはアルゼンチン。命の危険など感じずに、美しいパタゴニアの大地で、おいしく、新鮮な空気を腹いっぱい吸っているのに・・・。
すこしウトウトしていたらしい。
「コミダ(食事よ)」の声で目がさめた。
カルメンが調理場から大鍋を運んでいる。鍋には、魚の切れ身、ニンジン、大根、米などがグツグツ煮えたぎっている。きのうの晩から何も口にしていないのだから腹は空いているはずなのだが、油っぽいスープと小骨の多い魚に食道がふさがれてしまう。
「もっと食べて」
「明日まで、何もないわよ」
わかってはいるけど体が受け付けない。
突然、ラジオが鳴り出した。早口でわからない。男20名、女3名が捕まったとグローリアが教えてくれる。ヘリコプターも数機、市の中心部を旋回しているらしい。
爆撃されたモネダ宮が燃える煙で、サン・クリストバルの丘もかすんでいるようだ。
まだ、いろいろなことを言っているのだろうが、ぼくの貧弱な語学力ではわからない。福岡さんでもいてくれたら、どんなに心強いのに・・・。
行進曲が流れ、ラジオは、また沈黙した。
第112回(5.19配信)442
午後3時ごろだったろうか? レモン・テイを飲んでいるとき、再びラジオが、放送を始めた。
・・・ホセ・カドマルトス、ミゲル・エンリケス、ルイス・エスピノーサ、ホルヘ・ギレルモ、ハイメ・ムヒカ、ネルソン・ヤネス、ブルーノ・ガルシャ(聞き取れて、ノートに記入してあった名前のみ)・・・
何回も何回も百人以上(?)の名前を繰り返している。
「この人たちは?」
「軍部に呼ばれているの」
クーデターを起こした軍部が、味方の強化のため、仲間を呼び寄せているとぼくは、最初は感じた。しかし、それは違っていた。男3人、女1人がまた捕まった。ラジオを通して、クーデター勃発で、身の危険を感じて地下に潜った人へ、もよりの警察署への出頭を呼びかけているのだ。午後4時30分が、デッドラインらしい。
弾圧の開始だ。ラジオから流れている名前はアジェンデの協力者だという。多分、政権の閣僚、人民連合の指導者、左翼系報道関係機関の人たちであろう。
「あなたたちも明日、警察に行った方がいいわ」
「外国人も出頭せよと言っているわよ」
「危ないわよ」
ママをはじめ、ここにいる女の子たちが、口々に言ってくる。
「明日、一緒に出頭しようぜ。俺、なんだか恐ろしい」
無口で余り物事に動じない尾崎までもが、怯えはじめた。
「俺たちは、日本人だぜ。ここでおとなしくしていれば平気さ」
とは、いったものの、落ち着かない。ヤミドルの件さえなければ、軍部の命令に従った方が安全なのだが・・・。
出頭して、ヤミドルで生活しているのが、ばれたら面倒だ。両替する金など、もはやない。
ラジオは、繰り返し名前を流している。違った名前が加わったように感じるのは、気のせいか?
切れ目なく読み上げられる名前をぼんやり聞きながら、ハッした。
そういえばアジェンデ政権を助けるため、たくさんの外国人が入国している。イスラエルのロッド空港を襲撃し、世界に衝撃を与えた日本赤軍、彼らの仲間(ジャパニーズ・アーミー)も侵入しているという噂さえ流れていた。もし彼らと間違えられたら・・・。
第113回(5.23配信)443
ラジオから、アナウンサーの声が聞こえる。
イネスやグローリア、ママたちが、慌しく動きはじめた。バンデラ(旗)を捜していると知る。軍部が国家の解放を祝う印として国旗を掲げるように要求しているらしい。みんな奥の方をごそごそ捜している。
「セシリア! 手伝って!」
「ノー(いやよ)」
なんでそんな命令に従うのといわんばかりの激しい口調に、一瞬、部屋の音が途絶えた。セシリアの顔色は、蒼白。カルメンがそっとセシリアの肩を抱いた。みんな黙ったまま、ふたたび捜し始めた。
数分後、捜し出されたチリ国旗(左上の青地に星ひとつ、右側は白地、下は赤地)が窓からそーっと出された。向かいのホテルのベランダには、もうすでに小旗が風に揺れている。
部屋は、静けさを取り戻した。ラジオからは行進曲が流れる。
午後6時少し前、カーテン越しにそっと通りを覗く。まさに夕日が訪れていた。街灯の明かりが灯り始めた。薄明かりの中、猫が1匹、ときおり立ち止まりながら通りの中央を歩いている。窓の下に来たとき、突然、身をひるがえして、路地裏に飛び込んだ。
コネチカ通りの山の手の方向から装甲車が、迫ってきた。1台、2台、3台、機関銃を構えた兵士を乗せて、ゆっくり通過する。物音でもたてようものなら、あの機関銃は、すぐさま、こちらに向けられそうだ。
「クイダード(危ないは)」
セシリアが、窓から離れてと腕をひっぱる。だいぶ平静さを取り戻したようだ。顔色も戻っている。
カーテンに影が映るわ。弾でも飛んできたらどうするのとみんなに言われる。そういえば向かいのビルの窓は、どこも真っ暗だ。ロウソクの明かりさえもれていない。みんな暗闇の中で、息をこらし、数少ない情報に耳を傾けているのだろうか?
これから長い夜が訪れる。ヘラスコにいなくてよかった。これだけ人がいても、セシリアの手を握っていても、巨大な得体の知れない物に押しつぶられそうな重い雰囲気なのに、1人だったら耐えきれない。福岡さんやヒロはどうしているのだろうか?
第114回(5.26配信)444
午後7時過ぎだったろうか、ママやグローリアが、何かを燃やし始めた。見に行った尾崎が、教えてくれる。どうもアジェンデの顔写真が掲載された政府発行のパンフレットや左翼関係の宣伝ポスターらしい。マルクスの資本論やレーニンの帝国主義などの本も混ざっているみたいだ。軍部の命令でこれらの書物を持っている人は罰せられる。ついにナチスの禁書なみの統制がなされはじめたか。炎をできるだけ押さえているためか、白煙がフロアーまでもれてくる。
ラジオから何か流れた。
突然、かたわらのセシリアが泣き叫んだ。グローリアやママ、イネスがフロアに飛び込んできた。
「アジェンデが死んだわ。ラジオで言っている」
背筋に冷たいものが走った。彼女たちは、なにやら激しく言葉をかわしている。多分、次のようなことを言っている・・・。
「死んでなんかいない。どこかで生きている」
「でも、スイシダッセ(自殺したって)?」
「メンテラ(嘘よ)。ウソだわ」
「放送は嘘なの?」
「わからない」
「自殺じゃなくて、マター(殺されたの)では・・」
しばらくして、誰も何も言わなくなった。
セシリアは、顔を手で覆い、グローリアやママは、本を焼きに戻り、イネス、カルメンは下をむいている。
ここにいる全員が、ラジオ放送が間違っていることを、どこかで祈り、もし息絶えていたら、自殺でなく殺されたのだと心の中で思っている。
『私が任期をまっとうせずに官邸を去るとしたら、それは松の箱(棺おけ)で運ばれるときだ。歴史はわれわれのものであり、それを作るのは人民である』といつだか忘れたが、福岡さんからこのようなアジェンデの言葉があるのを聞かされた。
モネダ宮で消えたアジェンデ。座る主をなくした大統領の椅子が、豪雨に激しくうたれながら、銃声のこだますアンデス山脈の上空に浮かんでいるように感じられる。