69 sixty nine(2004・日)

 1950年生まれの私の父親は、この映画の時代・1969年には19歳だった。大学生だった。そんな父親に聞いてみたことがある。「学生運動とかやったの?」と。父親はこう答えた。「何回か、デモに参加したことがあるけど、機動隊にジェラルミンの盾で足を踏みつけられて、痛くてやめた」と。そんな父親の話を聞いて、なんだか恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。なぜだろうかと考えたときに思うことは、父親は世の中を本気で変える気など無かったように思えたから、なんだか「恥ずかしく」感じられ、結局は何も変えられず内輪だけで革命戦士を気取って楽しんでいただけのようにも思えた学生運動に参加しなかったことが「嬉しく」感じられたのだろうと思う。

 私は、父親がジェラルミンの盾で足を踏まれた年齢も、この映画のケンやアダマの年齢もとうに超えた。結局、世の中にいろいろと不満はありながらも、そのために活動をしようとは思わず、生きている。結局、映画を見たり、仲間たちとダベったり、好きな女の子を待ち伏せしてみたりして、楽しい時を過ごしてきた。結局、人間は楽しい方に流れていくのだ。私は社会人になった今でも、社会人にしては映画をたくさん見ていて、時には無理して時間を使ってまで見るのがバカらしくなったりもする。が、結局は、それが楽しいのだ。楽しいものは仕方がない。

 学生運動になぜ多くの人が参加したのかを考えると、それは当時の最先端だったからだろう。最先端のものには人が群がるのは、今も昔も同じことである。たまたま当時の最先端が「政治的」な事柄だっただけの話だ。そのことを考えずに、「今の若者は政治に関心がない」とか、「今の若者には学生運動をするようなパワーがない」とかのたまう人間は信用できない。

 前置きが長くなった。この映画は、村上龍の同名小説を原作にした映画である。「楽しんだもの勝ち」という明確なテーマを原作は持ち、映画もそれを継承している。そのテーマを映画が映像化し得ているかが、最大のポイントであり、その点でこの映画は成功しているといえるだろう。原作のエピソードはほとんどそのまま脚本化され、宮藤流の「楽しいポイント」が追加されている。映画のテーマと自らの考え方が合致していることもあって、宮藤官九郎の脚本は原作の魂を見事に移植している。

 といっても、「楽しんだもの勝ち」というテーマを映像化するために必要なのは、脚本の文字よりも、出来あがった映像の方が重要だ。「楽しい」というのは論理よりも感覚によるものだからだ。その意味で、妻夫木聡が良い。楽しいことを作り上げていく才能よりも、自らが楽しむ才能を持ったケンのキャラクターを映像化するために必要不可欠なことは、楽しんでいるケンを映し出すことに尽きる。その意味で、妻夫木の表情は楽しさがこちら側に伝わってくる。笑顔、真面目な表情、必死な表情・・・セリフで「俺は楽しい!」と叫ぶことなど必要ない。表情が雄弁に語っている。

 「楽しい」ことが目で伝えるこの映画は、さらに耳でも伝える。それは九州弁だ。九州弁のイントネーションは中毒のように心地よくなっていく。同時に、九州弁という地方ローカルのイントネーションが、世界を狭くさせる。内輪で盛り上がっているような楽しさをプラスさせているように思える。

 学生運動、ベトナム戦争といった要素を真正面からぶち込みながら、この映画はそういった要素に振り回されることなく、見事に道具として使いこなしたヤツらの姿を描いている。自分たちが楽しむために。「ベトナムでは毎日人が死に、エンタープライズが人殺しを運び出している」にも関わらずである。そんな彼らの姿は不謹慎かもしれないが、人間の本能でもあるように思えるのだ。「楽しみたい」という本能である。だから、この映画は(原作とともに)とっても正直な映画であり、しかも楽しい映画である。

 この映画の監督も脚本家も出演者も1969年に生まれてもいない。そして、彼らは1969年なんてよくわからないままに、「楽しさ」を描くことに終始している。その態度は、この映画と同じように正直だ。「知らないものは、知らない」という態度が。そして、1969年という時代や、村上龍の原作を道具として使いこなして楽しい映画を作り上げた。そんな作り手たちの態度が、原作の精神ともうまく合致したのかもしれない。なかなかあり得ないことである。

 私の父親のように、はやっているから学生運動をやってみて、痛いから(楽しくないから)やめた人間にこそ、この映画は見て欲しい。学生運動を道具にして、楽しもうとした人々に。

 もちろん、本気で世の中を変えようと学生運動をやっていた人々もいるだろう。そんな人々にも見て欲しい。しかし、彼らの中に、「世の中を変える」という行為が楽しく、恍惚とさせるものがなかったと言えるだろうか。この映画は、主義主張とか、思想とかを超えた「楽しさ」への人間の本能が込められている。人間の本能を否定することなど誰にも出来ない。人間の本能なのだから、それを認識した上じゃないと、主義主張も、思想もありえないわけだから。

(2004,8,1)