エイリアン VS プレデター(2004・米)
エイリアンとプレデターの対決を待ち望んでいた人はどれくらいいるのだろう?1998年の「4」が最新作のエイリアンはまだしも、1990年の「2」が最新作のプレデターは、とうに旬を過ぎている。「2」の時に生まれた人は今年15歳になるのだから。「エイリアン」「プレデター」ともに、少し前まではテレビのゴールデン・タイムでちょこちょこと放映されたいたが、ここ最近はとんと見ない。H・R・ギーガーのデザインが素晴らしく、またリドリー・スコット(ブラックホーク・ダウン)、ジェームズ・キャメロン(「タイタニック」)、デビッド・フィンチャー(「ファイト・クラブ」)、ジャン=ピエール・ジュネ(アメリ)とその後の活躍華々しい監督たちの名前が並ぶ「エイリアン」シリーズはまだしも、その後「ダイ・ハード」を撮るものの、今ではすごい勢いで名前が忘れられているであろうジョン・マクティアナンと、名字の名前も平凡でヒット作にも乏しいスティーブン・ホプキンスという監督たちの名前が並ぶ「プレデター」シリーズは、わざわざビデオを借りて見る人も少ない事だろう。
「納得できる脚本ができなかった」というのが、エイリアンとプレデターの権利を持っている20世紀FOXの弁だが、これを本気にする人はどれくらいいるのだろうか?この映画が、アメコミ版のストーリーに似ているという話を聞くとなおさらである。ようは、この映画を本気で撮ろうとする監督がいなかったということなのではないだろうか?どう考えても、これはお遊びである。会社側とすれば、一定の集客力を見込めるお遊び映画だ。これほど、都合のよいものはない。しかし、出演する人たちや監督する人にとってはお遊びではいられない。ある程度の知名度を持った監督や、出演者が、映画ファンが納得できる理由がなく、この映画に出演したり、監督したりしたら、「よっぽど仕事がないんだろうな」と思うだろう。少なくとも私は思う。
ポール・W・S・アンダーソンという監督が、この映画を実現させたのだろう。「イベント・ホライゾン」「ソルジャー」「バイオハザード」と、B級の作品が並ぶこの監督は、この映画を監督することで、名前になんら傷がつかない。何しろ、彼はもともとB級映画志向の監督だからだ。しかも、彼は映画オタクで、「このふたつのシリーズについて(20世紀フォックスに)僕より詳しい人間はいなかったんだ」と語るくらい、「エイリアン」「プレデター」の両方に明るい。これらの意味でこの作品を監督することが「可能」な人物が存在したからこそ、この映画は生まれたのだろう。
映画オタクを監督に迎える事によって、映画は「エイリアン」「プレデター」両シリーズのストーリー、キャスティング、小ネタなどに配慮を怠らない作品となっている。ビショップ役のランス・ヘンリクセンがビッグになっていなかったことに、みんな感謝するべきだろう。とうに旬を過ぎて、元々それほど魅力的ではなかったプレデターを完全に人間に近い知的生命体として、人間の役割を担わせた事もこの映画の魅力をエイリアンに集中させることに成功している。
顔に張り付いて人間に寄生して、腹を破って飛び出してくる。口の中にもう1つ口がある。酸性の血液。クイーンエイリアンの産卵。卵。こういったエイリアンシリーズ(特に1と2)でお馴染みのエイリアンの特徴をこの映画は惜しげもなく見せつけてくる。お祭りなのだから、出し惜しみはいけない。作り手はそのことを十分に理解しているように思える。それに加えて、エイリアンの口、孵化時の卵の開口といったねっちょり感も忘れられていない。こういったエイリアンの特性を映像にしっかりと焼きつける一方で、彼らによって殺される人間の姿はあまり映し出されていない。むしろ、控え目な方である。なるべく見せないで、恐怖感を醸造させるテクニック・・・とも取れるのだが、この映画はそんなことよりも、エイリアンの活躍を最後まできっちりとグロテスクなまで見せきった方が、お祭りとしてはよかったようにも思える。
エイリアンとプレデターの関係。そして、プレデターと人間の関係について、この映画では詳しく語られているが、そんなものは私にとってはどうでもいい。小さい頃に見て恐怖したエイリアンにまた会えたというだけで十分なのだ。もはや出来などどうでもいいというレベルの話だ。お祭りであれば、ヤキソバの味が関係ないのと同じである。また、お祭りが来て、ワクワクするような気持ちが味わえればそれでいいわけなのだから。私と同世代から上の映画好きの多くは(自分の父親も含めて、男限定だが)、誰もエイリアンとプレデターが対決することなど望んではいない。だが、対決するとしたら、興味がある。この映画はそういう映画である。
「ジェイソンVSフレディ」もそうだが、この映画の対決もはっきりいって居酒屋の会話レベルの発想である。それが実現できるところは、ハリウッドの底力といえるだろう。だが、自ら進んで監督できる人物が存在するというのは、時代の流れといえるかもしれない。かつて、こういう映画の監督は、いかにも撮らされているという雰囲気が映画全体から漂ってくるものだった。アンダーソン監督は、好きでこの映画を監督しているらしい。これが、いいことなのか、悪い事なのかは分からない。好きで撮れば良い映画できるというものでもない。「シベリア超特急」以外にも例は多数ある。両シリーズの枠からはみ出た新しい視点は何もない。それが、両シリーズのファンで映画オタクが監督した事の弱点なのかもしれない。とりあえず、この映画はお遊びとしての、お祭りとしてのこの映画を無難に仕上げて見せてくれた。誰も待ち望んでいないこの映画だが、存在したら見たくなる人々にとっては、決して無駄にならない時を過ごせるだろう。少なくとも、「エイリアン」と「プレデター」を思い返して、同時代を生きた人々との間の話題が増える効果はある。
(2005,1,4)