阿修羅城の瞳(2005・日)
「劇団四季よりもマツケンサンバこそが日本のミュージカルだ」という内容のことを、立川志らく氏が書いていた。同感である。日本には様々な伝統文化があり、それはそれで重要なものであることは確かだ。その一方で、日本流の今のエンタテインメントを生み出していくことが出来なければ、未来はないだろう。「阿修羅城の瞳」は、日本流のエンタテインメントを見せてくれる。マツケンサンバと同じように。
舞台は江戸時代。時代劇映画でおなじみの江戸時代だ。この映画にも出演している宮沢りえが助演を努めた「たそがれ清兵衛」のように、真面目に江戸時代を描いた作品もいいだろう。しかし、この映画のように、舞台を江戸時代にした上でやりたい放題の作品もいい。江戸時代という、「時代劇」を通して私たちが知った気になっている世界。だが、その実、その時代に生きた人はいないわけで、実際どうだったかは誰もしれない世界。江戸時代は日本人が親しみがありながら、よくわからない時代なのだ。だからこそ、映画となっても違和感がなく受け入れられる一方で、どんなに荒唐無稽であっても許せる絶妙の時代とも言える。
その上、この映画には「愛」があり、そして愛の障害となる「運命」がある。相手が対立する家系だったり、相手が幽霊だったり、相手が死に至る病に侵されていたりと、「愛」に障害があるためにドラマが生まれるという作品は山ほどあるし、その中には傑作も山ほどある。この映画は、そうしたドラマの王道を描いている。一筋縄ではなく、人間と阿修羅という関係にすることで、ひねってはいるものの、王道であることに変わりはない。
この映画にはもう1つ、エロスがある。宮沢りえが市川染五郎の肩の刀傷を舐めるシーンは、その代表例だろう。原作となった舞台では、公演の途中に付け加えられたというこのシーンは、アップにすることができる映画でこそ効果を発揮していることだろうと思う。人間としての愛情表現としても魅力的なこのシーンは、実は阿修羅である宮沢りえの本性を感じさせる不気味さも漂わせている。ビジュアル的にも、ドラマ的にも、キャラクター付けとしても効果があるシーンだと思う。映画は、傷を舐めるシーンから一気に恥も外面も関係なく宮沢りえを求める、市川染五郎の物語となる。もはや、普通の人間の男女のように結ばれ、共に生きていくことなど出来ないことを知っている二人は、最後に殺し合う。互いの技を駆使し、力を駆使し、相手を昇天させるために戦う姿は、まさにセックスの代替行為だ。相手を叫ばせ、相手の体液を吹き出させるために、二人は剣を交えている。
「ロミオとジュリエット」的であるが、そこまでの作劇的な巧みさはない。鶴屋南北を登場させ、「恋に落ちたシェイクスピア」的なサイドストーリーを絡めてもいるが、そこまでの作劇的な巧みさはない。その代わりにあるのは、日本ならではの時代設定の荒唐無稽さと融合であり、エロスだ。阿修羅王に鬼といった設定や、邪空や美惨の戦隊ものにも出てきそうなキャラクターや姿形は、荒唐無稽を際立たせるが、その一方ではエロスがしっかりと屹立している。子供っぽい外枠で楽しませ、その一方でエロスを描いて人間の別の部分を楽しませてくれる。
決して、傑作ではない。決して、感動作ではない。しかし、しっかりとした映画だ。楽しませてくれる映画だ。日本映画としての、日本流のエンタテインメントの魅力に溢れている。こういった作品が登場することが私には嬉しい。こうした映画に観客が集まるようになってこそ、初めて日本映画界に活気があるということになるのではないだろうか?映画は、決して単体だけで存在するわけではない。1本の映画が大ヒットしたり、1本の映画が海外で賞を取ったりしても、それは、その1本の日本映画の話であって、「日本映画界」の話ではないのだから。