アビエイター(2004・米)
アカデミー賞の最有力候補といわれながら作品賞を逃した作品。私が映画館に見に行った時、若いカップルが2組途中退席した映画。以上である。といってもいいくらい、映画の周辺を巡る状況が映画にぴったりとはまる。決してつまらない映画ではないし、くだらない映画でもない。しかし、アカデミー賞を得られるような広い共感を得られる映画ではないし(アカデミー賞は投票なので、様々要因が絡んでいるのだが)、若いカップルが楽しめる映画でもない。この映画はそういう映画である。
映画好きだけではなく、アメリカ人全体にとって伝説的な存在であるハワード・ヒューズだが、日本ではそれほどの知名度はない。映画好きでも、昔のハリウッド映画が好きで、さらに詳しくなくては知らない人は多い。なぜ、昔のハリウッド映画が好きなだけじゃだめかというと、彼の監督作品は有名ではないからだ。これが、「ローマの休日」や「風と共に去りぬ」を生み出した人物なら少しは違うかもしれないが、「地獄の天使」と「ならず者」では知らない人も多いのは仕方がない。ほとんど見る機会すらない作品だからだ。他の登場人物も同じだ。キャサリン・ヘップバーンが登場したとき、字幕に「ヘップバーン」としか出ないのを見て、私は「多分、半分くらいのお客さんはオードリー・ヘップバーンだと思ってるだろうな」と思った。という、題材自体が、特に日本では共感を得られにくいという状況については、いくつか書かれているのを読んだので、ここではあまり書かない。それとは別の理由を書こう。
別の理由。それは、「娯楽性に乏しい」ということだ。一言で言ってそこに尽きる。ハワード・ヒューズの映画と飛行機に対する完璧主義的な情熱は映画に深く刻み込まれている。レオナルド・ディカプリオの演技は、そのことを映画として肉付けすることに成功している。「完璧主義的」から想像されるエキセントリックな部分をことすら強調して見世物的にすることを避け、より現実的に表現しようという意思が脚本には感じられ、そのことはマーティン・スコセッシの抑え気味の演出もあって成功しているように思える。
たとえば、「地獄の天使」の航空シーンの迫力不足を解消するために、数ヶ月にも渡る「雲待ち」をするエピソード。完璧主義からきているこのエピソードはエキセントリックであることに変わりはないが、航空シーンの迫力を生み出すために何があればよいかについてのヒューズの確かな眼があるために、エキセントリックさはそれほど際立たない。航空機に対する執着についても同じだ。ヒューズが確かな飛行機工学の知識を持ち、パイロットとしての経験も持ち、でき上がった飛行機が確かに結果を残すことが描かれているため、エキセントリックさはそれほど際立たない。
潔癖症についても同じだ。他人のバイ菌は気になって仕方がないのに、自分の小便を瓶に入れて並べていても気にはならない。同じ言葉が口を突いて出てしまって止まらなくなるのも常にではなく、何らかのきっかけによって止まらなくなる。それは、はっきりとわかる何か(例えば、赤い物をみたらとか)ではない。こういった脚本の上のリアリティにディカプリオの演技が加わり、ディテールに配慮されたリアリティ溢れるシーンとなっている(トイレで松葉杖をついた男性にタオルを渡してあげることができないシーンの緊迫感はすばらしい)。
エキセントリックさは見世物的なおもしろさにつながる。現実に潔癖症の人にとっては不快かもしれないが、映画とは本来見世物的な面白さを備えたメディアだ。この映画は、見世物的なおもしろさを極力排除しているかのように思える。ハワード・ヒューズという人物は、この映画で描かれた後の人生で、エキセントリックさをエスカレートさせていく。世間的に知られている部分は、この映画で描かれた以降の部分が大きい。スコセッシがインタビューで語っている。「最初、僕は彼を奇人変人の類かと思っていた。でも脚本を読んでみたら、僕の抱いていた印象がヒューズ本人の真実とかなり違うということに気がついたんだ。若い頃の彼はちゃんとしたビジョンを持った意志強固の男だったからね」と。また、映画化を企画し、エグゼクティブ・プロデューサーとして、スコセッシ以上にこの作品に関わってきたディカプリオは次のように語っている。「ヒューズは良いことも悪いことも、人が言うすべての要素をもっていた男、と思っている」と(両方ともキネマ旬報2005年3月上旬号より)。
世間的に語られているところのエキセントリックなハワード・ヒューズ像とは違った、現在のイメージが固定する前のハワード・ヒューズを描こうという意図がこの映画にあることは確かだろう。つまり、現在捉えられているイメージを表としたら、裏の部分を描こうとしたということになる。しかし、悲しいかな私たち日本人の多くは、「表」の部分すら知らない。だから、表が裏になる楽しみも、驚きも、興味深さもあり得はしないのだ。そして、何よりも強調したいのは、そのためにこの映画から見世物的なおもしろさが消えたということだ。CGを使った飛行機の墜落シーンなど、これだけCGによる様々な映像を見てきた私たちには見世物的なおもしろさにはつながらない(余談だが、これからのCGの映像はいかにドラマを助けているかによって評価されるだろう。よほど画期的な映像を除いて)。
ディカプリオらの製作陣から監督を依頼されたスコセッシには、実に向いた素材だったといえるだろう。エキセントリックなおもしろさよりも、リアリティのあるおもしろさで本領を発揮する監督だからだ。「タクシー・ドライバー」の主人公トラビスはその塊のような存在である。鬼塚大輔氏がキネマ旬報の2005年4月下旬号で書いているとおり、この映画でも「人間同士が対峙して静かに会話を交わす裏側に吹き荒れる凄まじい暴力と緊張が、じっくりとしたタッチの中で鮮烈に描かれている」。おそらく、スコセッシは自分にあった脚本を、これ以上にないほどに映画化して見せてくれている。
上院の公聴会のシーンは、もっともっと煽って感動的なシーンにすることは出来たはずだ。カタルシスに溢れ、ハワード・ヒューズの勝利を高らかに謳い上げることはできたはずだ。私は、ディカプリオ演じるヒューズが上院議員をやり込めて立ち去るシーンではなく、アレック・ボールドウィン演じるパンナムの社長が「我々の負けだ」と呟くシーンで、勝敗を理解した。勝者ではなく、敗者によって、理解したのだ。ここにカタルシスはない。映画としてはこれで正しいのだろう。なぜなら、ヒューズが勝者として終わる映画ではないからだ。だが、同時にカタルシスが失われたことは確かだ。
この映画は優れた映画だと思う。脚本は定着したイメージを払拭する事に成功しているし、ディカプリオは見事な演技で肉付けしている。助演陣もみなリアリティに溢れている(個人的にはアラン・アルダとアレック・ボールドウィンのコンビぶりにリアリティを感じた)。監督のマーティン・スコセッシは自らの個性と技量をこの映画の意図を活かすために惜しむことなく投入している。
優れてはいるが、アカデミー賞の作品賞を受賞するには、観客の(特に日本の)支持を得るには娯楽性が乏しかった映画。それがこの映画だと私は思う。
この映画の新聞広告のキャッチコピーは知っているだろうか?「18歳で世界一の大金持ち、数々の世界記録を達成、ハリウッド最高の美女と大恋愛、ラスベガスのカジノを買収、全身ヤケドから奇跡の復活 これが新時代のヒーローだ!」。これを見て、今話題のライブドア社長・堀江貴文氏と結びつけようとしているように思うのは私だけだろうか?この映画の製作陣が目指した意図とは大きくかけ離れているであろうキャッチコピーを打たなければお客を呼べない映画だということをこのキャッチコピーは証明しているように思える。ちなみに夕刊紙には、堀江氏がこの映画を見に行ったという記事が載っていた。堀江氏はどんな感想を持ったのだろう?
(2005,4,17)