ビッグ・フィッシュ(2003・米)

 チャップリンの有名な言葉がある。「人生に必要なのは、勇気と想像力とほんのちょっとのお金である」という言葉である。「ライムライト」で語られたこの言葉は、私にとってかつてよくわからない、うさんくさい言葉であった。しかし、今は違う。この言葉の意味が良くわかる。この中の「想像力」とは何かというと、私にとっては「脚色」と「置換」であると思っている。「脚色」とは、体験や出来事をおもしろく語ったり、重々しく語ったりする能力のことであり、「置換」とは、ある出来事を別の何かに当てはめて考えることができる能力である。

 ティム・バートンの映画が「想像力に溢れた映画である」と多くの人が語られるとき、人々はどのような意味で「想像力」を使っているのかは良く分からないが、私にとってのティム・バートンの作品は想像力に溢れている。ホラ話の傑作「シザーハンズ」が他人を傷つけてしまう男の「置換」であるし、「マーズ・アタック!」はこれまでに作られた宇宙人侵略SF映画の見事な「脚色」である(同時期に日本で公開された「インデペンデンス・デイ」との「想像力」の差は歴然としている)。その上に、ティム・バートンには映像の意味をしっかりと認識されたいわゆる「映像美」と呼んで差し支えないシーンを現出させる能力がある。「シザーハンズ」や「マーズ・アタック」のように、ストーリーや設定にまで想像力に溢れているとは思えない「猿の惑星」や「スリーピー・ホロウ」といった作品にも「映像美」は宿っている。しかし、その「映像美」ゆえに、バートンは過剰に「想像力に溢れた映画」を作る作品と思われるようになってしまったように思える。「猿の惑星」がいまや大プロモーションの割には、人々の記憶に残らない作品となっているように思えるのは、世間で思われている意味での「想像力に溢れた映画(映像美の宿った映画)」ではありえたかも知れないが、「シザーハンズ」や「マーズ・アタック!」のように、映画全体が想像力に漲った作品ではないからではないかと私は思う。その意味で、「猿の惑星」は映像美ではいささか劣ると思われるオリジナルの「猿の惑星」に宿る想像力に勝てなかったと思う。

 この映画で重きを占めるのは、ホラ話である。ホラ話とはチャップリンの言うところの「想像力」であると私が思っているものそのものである。明石屋さんまが「ウソとホラは違う。ウソは人を悲しませるが、ホラは人を楽しませる」と言っていたが、この映画のホラ話はまさに明石屋さんまの言うところのホラ話である。「シザーハンズ」も「マーズ・アタック」も見事なホラ話であった。ティム・バートンは今回もホラ話を吹く。しかし、この映画の構造は少し複雑だ。ある男のホラ話を映像化しただけの映画ではないのだ。そんなホラばかり吹いている(と思われている)一人の男の死と、そんなホラばかり吹く父親に反発していた息子との和解の物語でもある。しかも、それは息子が父親を理解するという展開なのだ。

 この映画の中のホラ話は楽しい。それは、ティム・バートンの見事な映像美のセンスが光っているのが大きいだろう。ただし、ホラ話そのものについては、「シザーハンズ」や「マーズ・アタック」ほどの想像力を感じることができなかった。どこかで見たことが、聞いたことがあるような話の連続であったように思えた。この映画におけるホラ話自体の存在意義は、ホラ話自体で何かを訴えるのではなく、ホラ話を語っている父親とそれを嫌がる息子という構図を生み出すための道具である。ホラ話を楽しく語る父親という存在、これはまさに「映画監督」であったり、「脚本家」であったり、いわば映画の作り手である。そんなホラ話の語り手は、息子に受け入れられる。ここに「ニュー・シネマ・パラダイス」を見るような、自画自賛の気恥ずかしさを感じてしまった。映画の中の「ホラ話」は楽しい話以上のものを感じられず、映画全体(父親に息子が理解を示す部分も含めた)のホラ話は、楽しさや映像美よりもバートンの自画自賛が先行しているよううに思えた。

 「ビッグ・フィッシュ」の見た目はいかにもティム・バートンな映画である。映像美は研ぎ澄まされ、父親のホラ話のシーンは全篇が作り物の匂いを漂わせながらも、それゆえの美しさを漂わせている。それは登場人物にも徹底されており、その中で唯一リアルに1人の人間として存在しているユアン・マクレガーが際立っている。そして、バートンの腕前が冴えているのが感じられれば感じられるほど、自画自賛しているように思えてきてしまう。

 「エド・ウッド」もバートン自身とエド・ウッドを重ねているではないかと言われるとその通りなのである。しかし、この映画のエド・ウッドとその仲間たちの行動は、それ自体が唯一無二と思われるおもしろさを兼ね備えており、しかも実在の人物であり、実話も多く含まれているという点で、一線がきちんと引かれていたように思うのだ。しかし、この映画では一線が非常にあいまいなのである。「人を楽しませるホラ話を吹く人間」という曖昧で幅の広い人物が褒め称えられている。しかも、この映画の中で語れるホラ話の映像化は、今までのティム・バートン映画を見てきた人々にとっては見なれた雰囲気を漂わせているのである。「エド・ウッド」とは比較にならないくらい、バートンのこの映画の主人公は近い存在に感じられる。

 この映画は非常に居心地の悪い映画であった。それは、バートンの自画自賛のように感じられ、息子が父親に理解を示すところに、まるでバートンにに対して理解を示す必要があるかのような感覚を覚えてしまったからである。おそらく、これは考えすぎなのだろう。バートンの映画を多く見てきて、変に頭を回しすぎてきたからこんな居心地の悪さを感じてしまったのだろう。もしも、無名の映画監督がこの映画を監督していたら、そんなことは微塵も感じなかったに違いない。「ニュー・シネマ・パラダイス」だって、スピルバーグが監督したらけちょんけちょんにけなしたくなるし。しかし、映画が映画監督を前面に出して存在する以上、その存在を無視して考えることは、私にはできない。
(2004,6,19)