新春にシネコンを考える
今年の正月は自分の実家の札幌と、妻の実家の秋田へ行ってきた。
札幌は私が生まれ、高校まで生きた場所である。映画館へ行こうとして驚いた。私が行ったことのある映画館がかなりなくなっていたのだ。何よりもショックだったのは、日劇がなくなっていたことだった。なくなったのは、2003年だから1年以上前のことである。だが、私は知らなかった。父と見に行った「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」「エイリアン3」「ターミネーター2」。友人たちと見に行った「クリフハンガー」「ジュラシック・パーク」。大作といえば日劇だった。小さい頃は、とてつもなく巨大に感じた。入り口の周りを大きく使った看板が工夫を凝らされていて、ワクワク感を掻きたてられたものだった。いやがおうにも私のノスタルジーが沸き上がってくる。しかし、ここで書きたいのはそういうことではない。少し、冷静になろう。
札幌駅周辺の再開発は終わり、今では巨大な駅ビルとなっている。多くの映画館がなくなったが、映画を見る場がなくなったわけではない。この駅ビルにはシネコン(シネマフロンティア)が入っている。初めて私はこのシネコンに行ってみた。ビルの上階に位置するシネコンは、他のシネコン同様に小奇麗でポップコーンの匂いがした。シネマフロンティアには東宝・松竹・東映の資本が入っていることで、多少は話題になったものだった。邦画メジャー会社総出のこのシネコンは、これからの映画館の形態がこうなることであろうことを強く強く訴えてくる。
シネマフロンティアはビルの中にある。そして、そのビルの中にはファッションブランドや、巨大CDショップや、巨大書店が入っている。レストランもあり、カフェもある。ビルの上にある映画館に行った人が、買い物もしてくれる効果、いわゆるシャワー効果を狙っての配置となっている。
秋田はどうか?正月の3日に、イオンに行った。秋田のイオンは、ジャスコとデパートが並びその間には多くのテナントが入り、1つの空間を形作っている。レストランがあり、ゲームセンターがあり、そしてシネコン(TOHOシネマズ)がある。かなりの人出であった。「他に娯楽がないから」というのが、妻の言葉。駐車場に入る車は長い列を作り、レストランがどこも満席だったのを見ると、それも頷ける。シネコンへ行ってみると、ここもまた小奇麗でキャラメル・マキアートの匂いがした。
「昔ながらの映画館の方がいい」なんて言うつもりはない。私がしたいのは、映画館が変化することの意味を探る事だ。
両社とも、映画館という独立した建物ではなく、ビルや施設の中の1テナントとして存在している。同じビルや施設の他のテナントも利用するように出来ている。映画の前や後に、買い物をしてもいいし、ゲームをしてもいいし、飲み物を飲んでもいい。「いい」というレベルではなく、まるでそうしなければせっかく来たのだからもったいような雰囲気すらある。このこと自体は、決して新しい事ではないだろう。映画館として独立していたとしても、その多くは繁華街にあり、隣にはゲームセンターがあったり、買い物するところがあったり、食事をするところがあった。単純に映画を見る楽しみではなく、「映画館で映画を見る楽しみ」とは、映画以外の部分にも含まれていたのだ。昔から。
「人に外出したい欲求がある限り、映画館なくならない」と誰かが言っていたが、その通りだろうと思う。人が行きたいと思う場所、人が集まる場所に映画館を作る。それは、映画館を経営する上での大前提なのだろう。同じ石井輝男の「恐怖奇形人間」を上映しても、自由が丘と池袋では自由が丘では10数人、池袋では数百人となる理由は、ここにあるのだと思う。もちろん、それだけではないだろうが。
では、昔ながらの映画館も、上に挙げたシネコンも映画体験という意味でまったく同じなのだろうか?いや、決してそうではない。最大の差異は何か?
JRと地下鉄の札幌(さっぽろ)駅と直結しているシネマフロンティア。私は、家から地下鉄の駅に行くまで以外は外の空気に触れなかった。
車で来る人がほとんどの秋田のイオン。私も、車で行った。私がイオンに着くまでの間に外の空気に触れたのは、家から車に乗るまでと駐車場から施設に入るまでの数分だった。
独立して存在していた映画館へ行き、映画を見た後に買い物をしたり、コーヒーを飲んだりしたとき、私は必ず外の空気に触れていたことを思い出した。これは、たいした違いではないかもしれない。確かに、一旦外に出たとしても、近くの他の店に入るまでの距離が短かったこともある。だが、多少の違いではあっても、外の空気に少しでも触れることが、後の私が映画体験を思い出すときの1つとなっていることもある。「バトル・ロワイアル」や「ファイト・クラブ」を見た後に、寒い街並みを歩きながら、どういう映画だったかを頭の中で反芻した。「ミッション・インポッシブル」を見た後は、暑い中を歩きながら友人とどこが面白かったかを語り合った。シネコンに代わったからといって、こういった要素がまったくなくなるわけではもちろんない。だが、少なくなる事は確かではないか。
映画以外の映画体験など、映画を見る上でどうでもいいことなのかもしれない。映画を作品として考えると、シネコンの存在は映画を見る時の差異の中から、「外の空気に触れる」という部分を小さくする。それによって、私たちは「外の空気」に左右されずに、映画を作品として見ることができるようになるのかもしれない。このことは、いいことなのかもしれない。
このことは、映画だけに関連したものはないだろう。都市の形態としての問題である。これから先、私たちはより均質化された条件で生きていく事になるのだろう。「外の空気」の影響が小さくなることは、厳しい冬の寒さに震える北国の人々にとって喜ばしいことなのかもしれない。だが、そのことで失われるものもあるだろう。
映画の感想は人それぞれである。だから、おもしろい。「外の空気」が感じられなくなることによって、映画の感想の幅が狭まるようなことがもしあれば、それは映画界がつまらなくなってしまうことだろう。「辛口に映画を批判する」とか、「何でもかんでも持ち上げる」とか、そういったことは誰だってできる。だが、「外の空気」に触れることで得られるものが、無意識にしろ映画の感想に現れるとしたら、それは誰にだってできるものではない。自然に形作られるものだ。
地方において、シネコンはすでに多数派を占めている。メリットは数多くある。シネコンは映画体験を間違いなく変えることだろう。映画の感想にも、小さくかもしれないが、影響を与えることだろう。以上が、新春に2つの地方都市のシネコンを訪れて、私が思ったことである。
(2005,1,9)