クローサー(2004・米)
ナタリー・ポートマン演じるアリスに尽きると思う。すべてはアリスとジュード・ロウ演じるダンの偶然の出会いから始まる。子供にも大人にも、知的にも奔放にも、貞淑にも淫乱にも見えるアリス。あらゆる境界を超えたところにいるようなアリスにあらゆる人々が魅了される。ダンは彼女の生き方を小説にする。ジュリア・ロバーツ演じるアンナは彼女を被写体とした写真を撮り、個展で発表する。クライブ・オーウェン演じるラリーはアリスのストリッパーとしての姿に魅了される。アリスの魅力がなければ、アンナはラリーと幸せに暮らして終わりだったかもしれない。また、ラリーからダンに乗り換えて終わりだったかもしれない。
アリスを除く3人は内面は脆さを持っているとしても、ある程度の実績を持った社会人である。それなりの責任も持っている。それなりの体面もある。アリスだけがそういった社会的な側面から解放されているかのようだ。彼女は、ストリッパーという職業に何の後ろめたさもない。自由だ。少なくともその内面はあまりにも自由であるように思われる。アンナがラリーからダンに乗り換えたのは、そんなアリスの魅力への嫉妬もあったことだろう。
最も性的欲望が強そうなラリーはストリッパーのアリスにいやらしさ全開にして迫る。自分勝手なダンは、アンナとの別れの後にアリスにところに戻る。彼はアリスの仕事がストリッパーであったことに対しても、そしてストリッパーという仕事をアリスが行っているところを見ても、アリスの魅力が変わらないどころか、その自由さに魅力が増しているように感じているかのようだ。ラリーとのセックスを許せないネチネチとした気持ちも、アンナに対しては許せなくてもアリスに対しては許せる。その「許せる」という一種傲慢な気持ちがアリスを手放してしまう原因となるのだが。
ゴールデン・グローブ賞の助演女優賞を受賞し、アカデミー賞の助演女優賞にノミネートされたナタリー・ポートマンはその名に恥じない演技を見せてくれていると私は思う。アンナの被写体となったときの大人びた表情、普段着でダンを出迎えるときの子供のような見た目、ダンと初めてあった時のやんちゃさ、ダンに訣別の言葉を吐く時の強い意思、ストリッパーとしてラリー相手に仕事をするときのプロフェッショナルな身のこなしや言葉遣い、ニューヨークを闊歩する強さを感じさせる姿。あらゆる境界を超えたアリスの魅力が、三人の男女を右往左往させた魅力が焼き付けられていると思う。
この映画は、当初の予定通りジュリア・ロバーツではなくて、ケイト・ブランシェットが出演しても、舞台版と同じようにクライブ・オーウェンがジュード・ロウの役を演じていても成立していた事だろう。しかし、ナタリー・ポートマンがアリスを演じていなかったとしたら、成立していたかどうか危ういように思える。この映画の監督であるマイク・ニコルズは、「かもめ」の舞台でナタリー・ポートマンと一緒に仕事をしていたという。マイク・ニコルズは次のように語っている。「ナタリーがやったニーナという役について伝説があるんだよ。つまり、『芝居の前半を演じるのにちょうどいい若さか、後半を演るのに十分大人っぽいかのどちらかで、どんな女優でもその両方を完璧に演じる事は出来ない』というものだ。あの時のナタリーは19歳だったが、本当にびっくりしたね。前半は可愛らしい少女を演じ、後半また舞台に上がったときにはもうボロボロになって、全く別人に見えたんだ。(中略)で、『クローサー』のことを考え始めた時、これはナタリーにとって絶好の役、タイミングだって気づいたんだよ」と(キネマ旬報2005年6月上旬号)。マイク・ニコルズのナタリー・ポートマンを見る目がこの映画を成立させたと思えてくる。
「クローサー」の話というよりも、ナタリー・ポートマンの話となってしまったが、この映画はそれくらいアリスの役柄が大きい映画だと思う。アリスの魅力とグズグズとした大人たちの痴話喧嘩を対比すればわかるだろう。舞台版ではアリスは死んでしまうのだという。確かに、ストリッパーという職業も、大人の男女を惑わしたことも罪であり、彼女は罰を受けることになるというのは作劇上、わかりやすく、自然にも思える。しかし、この映画は、アリスを殺さない。それでは、アリスを異化しすぎている。アリスは1人の魅力ある人間として描かれる。それ以上でも以下でもない。
この映画は4人の男女が織りなす恋愛模様の様相を呈しつつ、その裏で恋愛にばかり囚われることがあまりにも小さいことのような気持ちにさせられる。それは、ナタリー・ポートマン演じるアリスの境界を超えた魅力のためだ。そして、ナタリー・ポートマンはそれを見事に表現した。私にはそういう映画として記憶されるだろう。
(2005,6,25)