コンクリート(2004・日)

 「女子高生コンクリート詰め殺人事件」を描いた作品である。上映禁止を求める抗議から、当初公開予定だった映画館である「銀座シネパトス」は上映を中止させた。その後、渋谷のアップリンクファクトリーで公開されたという様々な議論を呼んだ作品である。とりあえず、映画本編について書く。

 脚本の出来は最悪である。前半、結婚するために金が必要な高岡蒼佑演じる主人公は、マジメに働こうとするものの、金が貯まらないことのあせりや、かつての悪友の誘いによって、ヤクザの世界に入っていくことになる。このベタな展開は、驚くほど後半に活きてこない。三船美佳演じる彼女の存在は、立ち消えとなり、主人公の行動の説明にすらなっていない。

 その代わりにこの映画にあるのは、圧倒的な暴力である。中盤以後、レイプと暴力をひたすら描くこの映画は、その暴力に対する説明も考察もなく、ひたすら映画の中に君臨している。ルールもストーリーもないこの暴力は、決して楽しいものとはいえない。たとえば、悪役を打ち倒すために行使される暴力であったり、自己の欲望を実現するために行使される暴力とは質が違う。この映画にあるのは、暴力のための暴力とでもいえるものだろう。極度のSタイプの人は別として、そうではない人々はこの映画を見て、スカッとすることも、ドキドキすることも、ワクワクすることもないだろう。

 また、この映画が事件を、ひいてはこの事件を引き起こした社会を考えるための契機となるかどうかも微妙なところである。なぜなら、この映画は暴力についての考察を施したものではないからである。ラストで、突如として挿入される「彼らが命の大切さに気づく日が来るのでしょうか?」と語りかけるナレーションが、どうにも浮いている。この映画は主人公たちについて、何も描いていないに等しいからである。何も描いていないにも関わらず、気づくかどうかと問われても、見た人は「彼ら」がどんな人物たちであったかは知らされていない。見た人が知ったのは、ただ彼らの暴力だけである。

 事件について考えることも、楽しむこともできないこの映画を前にして、描かれる圧倒的な暴力を前にして、思考停止状態で映画を見た後、こう思った。圧倒的な暴力を受けたとき、人は何も考えられなくなる。その意味で、この映画が描いている暴力は、正しく暴力なのかもしれない、と。この映画は圧倒的な暴力に満ちている。そして、そんな映画が他にはあまりないという点において、この映画は存在価値がある。

 圧倒的な暴力を描くことがこの映画の目的であったかどうかはわからない。しかし、ヘンに事件を分かった風に解釈して、「彼らはこういった人間で、こういった理由で事件を起こした」と解説される不快感はこの映画にはなかった。また、娯楽作ではないという点で、この映画からは決して金儲けのために題材を利用している不快感もなかった。

 以下は上映禁止騒動について。

 この映画は映画技巧的にすぐれたものもなく、娯楽性にも乏しく、優れた考察もなされていない。その点で、この映画は批判されても仕方がない。しかし、その存在を否定することは出来ない。この映画の上映禁止騒動は映画の存在を抹殺するまでのものではなかった。たとえば、国家権力を発動しての強制的なものではなかった。結果的には、自主規制を行ったというところが最大の問題点だろう。何かを表現するということ(何かを上映するという活動自体も一つの表現である)は、その表現に不快感を持つ人が出てくるということでもある。そのリスクを銀座シネパトス側がどれだけ考えていたのかという点が最も気になるところである。反発を予想せずに、この映画を上映しようとしていたのならば、あまりにも安易だ。予想していたが、予想以上だったのであれば、それは見通しが甘かったということだろう。どちらにしても、この映画を上映したいと思っていたのならば、その姿勢は最後まで貫くべきだったと思う。反対すれば上映が中止になることがあるという前例を銀座シネパトスは作りかけてしまった。それを救ったアップリンクファクトリーの功績は大きい。

 結局、アップリンクファクトリーでの公開は行われた。上映中止を法的手段に訴えたり、実力で中止させようという動きはなかった。表立った上映中止運動を行った上で、裏でも嫌がらせをするなどの動きがあったというならまだわかる。そうではなく、裏でだけで上映中止するようにしか動かないということは、結局この問題に対して、それくらいしか本気ではなかったということなのだろうと私は感じた。

 映画を公開する側の意識も、上映中止を求める側の意識も、結局その程度のものだったというわけだ。割りを食ったのは、この映画を楽しみにしていた人々だろう。おそらく、私はこの映画を楽しみにしていた人とは友達になれないと思う。しかし、彼らの楽しみを奪う権利は誰にもない。決して、実際に暴力を奮うわけではなく、ただ暴力映画を見たいだけの人の権利を。
(2004,8,1)