さよなら、さよならハリウッド(2002・米)
私はウディ・アレン監督・出演作「マンハッタン殺人ミステリー」が好きだ。理由は簡単。おもしろいからである。ウディ・アレンはその貧弱な体躯を活かしたキャラクターでひたすら振り回される役柄を見事に演じている。それだけでもおもしろい。鍵のかかったドアをぶち破ろうと体当たりするも、ドアはびくともせず、アレンが痛がるギャグは最高だった。
ウディ・アレンは語っている。「私はキャスティングの達人だ」と(パンフより)。確かにそうだろう。誰よりも、自分自身のことがよくわかっている。だから、アレンの演じるキャラクターはアレンにぴったりとはまる。自分自身のキャスティングが絶妙なのだ。自分が映画でどう映り、観客がどう思うかを把握している。その延長線上に、アレン以外のキャラクターへのキャスティングの妙があるのだろうと思う。
この映画でも、アレン演じるヴァルのキャラクターは抜群にアレンに合っている。よく書かれているように、アレン自身を思わせる設定(アカデミー賞を受賞している、外国人のカメラマンを起用するなど)ももちろんそうだが、それ以上に映画に映るアレンに合っている。神経症的なキャラクターは今までも演じてきており、アレンが抜群の演技を見せることは今更言うまでもないだろう。それ以上に、アレンの貧弱な体躯とキャラクターのはまり具合だ。アレン演じるヴァルは映画監督だ。この点も実際のアレンと同じなのであるが、アレンの演出方法が映画の中での設定のように神経症的で、撮影に時間がかかり、未完成で製作側から裁判を起こさせるような監督ではないことは私たちがアレンの映画を年に1本ペースで見ることができることから分かる。ヴァルとアレンは映画監督の資質としては異なるものを持っていることだろう。だが、アレンはヴァルのキャラクターを説得力を持って演じている。
これがあるからこそ映画の肝の部分が説得力を持ってくる。「盲目で映画を監督する」という部分だ。盲目で映画を監督するのだから、現場は混乱する。混乱の真ん中にいても、なす術がないヴァル。それでも気づかない周りの人々。これは、もちろんハリウッド人種を揶揄した部分が多々あるのだろうが、それよりも「ヴァル(アレン)ならこの混乱ぶりもあり得る」と思わせる何かがアレンの演技から醸し出されているからだと私は思う。後半で、ヴァルが盲目であることを知らないプロデューサーのハルと1対1で会うシーンがある。もちろん、ドタバタが繰り広げられる。椅子に座り損ね、歩いていく方向を間違える。そのたびにヴァルは言う。「今日はとても疲れてて・・・」と。気づかないハルを揶揄してもいるだろうが、ヴァルをアレンが演じているために、「疲れてて・・・」という言葉にも何となく説得力があるように感じられるのも確かだ。
この映画はハリウッドを揶揄していることに間違いない。アレンとティア・レオーニというコンビのラブ・ストーリーとラストで迎える大団円は、安易なハッピー・エンドや高齢の男性と若い女性のラブ・ストーリーといったハリウッド映画の定石を揶揄している。タイトルからしても照準はハリウッドに向けられてはいるが、この映画はそれだけの映画ではない。そんな矮小な映画ではない。
「仁義なき戦い」などの脚本家の笠原和夫は、「映画監督は現場監督だ」と語っていた。映画監督が盲目にも関わらずに、映画が完成してしまうというこの映画の展開は、笠原和夫の言葉を思い起こさせる。もちろん、映画監督なんていらないということを言いたいのではない。映画監督は映画のすべてを代表した存在ではないということを言いたいのだ。その意味で、この映画は「映画」の真実の一部分をきちんと描いている。
完成した映画は、映画の登場人物の誰もが駄作と認めるような作品だった。それは、ヴァルも同じである。そんな映画は、当然の帰結のようにアメリカでは酷評される。だが、フランスでは絶賛を浴びて、ヴァルはフランスへ移住していく。ここで、私がおもしろいと思った点がある。出来上がった作品が駄作であることをヴァルも認めているという点だ。
監督した当人も認めた駄作をフランスでは絶賛を浴びる。これは、フランスを揶揄しているように見えるが、私にはそうは思えない。それよりも、映画を巡る状況の複雑さやおもしろさを感じさせる。作り手が不満であっても、絶賛を浴びるような作品はある。もっとミクロに言えば、誰も評価はしないけれども、自分だけが好きな映画は誰でもがあるだろう。出来上がった映画は、公開されれば別の生き物となる。それが、どう育っていくかはわからない。育てるのは誰か?それは、評論家であり、観客である。しかも、今の評論家や観客ではなく、未来の評論家や観客であるかもしれない。そういった映画を巡る状況をヴァルが駄作であるにも関わらず、フランスでは絶賛を浴びるというラストが意味しているように私には感じられた。
ヴァルは、自分が駄作だと思ったような作品をフランスで評価され、フランスから監督のオファーがあり、嬉々としてフランスへ向かう。これが、ヴァルが満足できた作品を監督して、フランスへ向かうのであれば徹底的な「ハリウッド・エンディング」となったことだろう。だが、この映画は違う。アカデミー賞を2度受賞した実力を証明すると意気込んで臨んだ作品は、盲目で監督し、しかも出来上がった作品は自ら駄作と認めるものだった。にも関わらず、ヴァルは出来上がった作品を評価してくれたフランスへと嬉々として向かう。ここには毒がある。しかも、それはミクロな部分での毒が。ハリウッドや映画界を描くといったマクロな部分ではない、ミクロな毒が。実力を証明してはいないヴァルはフランスへ行き、どういった作品を監督するのだろうか?もしかしたら、また盲目になった方がよかったりして。
アレンは、ハリウッドや映画を巡る状況を揶揄しながら、映画を巡る部分における真実の一側面を描いている。そういったマクロな部分を描きながら、ヴァルという1人の映画監督を巡るミクロな部分もきっちりと描いている。強引にハッピー・エンドに結びつけて、「ハリウッド・エンディング」を揶揄する一方で、毒を含めることで映画自体は単純な「ハリウッド・エンディング」な作品にはなっていない。むしろ、この映画のように単純なハッピー・エンドに見えながら、その裏には豊穣な意味が込められているのだが、アレンが好きな真の「ハリウッド・エンディング」だとでも言いたげでもある(アレンは決しては単純なアンチ・ハリウッドではない)。
その一方で「映画監督が盲目だったら・・・」という、コントのネタになりそうなドタバタぶりもきっちりと描いている。しかも、アレン自身の見事な映画によって成立させている。このネタは、少し間違えば実際に目が見えない人々から反発を食らってもおかしくない。それを、アレンはハリウッドへの揶揄でカモフラージュしているのも見事だ。
この映画は、アレン自身の出演と演技によってしか成立し得ないネタに、映画界への皮肉を込めまくり、さらに気持ち良いハッピー・エンドを迎え、またさらに毒も込められている。アレンの肉体と、アレンの知性と、アレンのキャリアがなければ成立し得ない映画だといえる。まさにウディ・アレンの映画だ。
(2005,4,24)