アイ,ロボット(2004・米)

 「A.I.」は「人間らしさ」を高らかに謳い上げた作品であった。その謳い上げ方は尋常ではなかった。なんといっても、そこに人間がいなくなったとしても、「人間らしさ」を謳い上げるくらいだからだ。それは、スピルバーグの計算なのか、無意識なのかはわからないが、とにかく出来上がった映画は「人間」自体よりも、「人間らしさ」にはっきりと価値を置いた恐ろしい作品だった。「恐ろしい」と書いたのは、「人間」と「人間らしさ」のどちらに価値を置くかという問題は、そんなにいとも簡単に決められない問題だと思うからだ。

 あまり語られることがないが、ロビン・ウィリアムス主演の「アンドリューNDR114」という作品がある。人間性を持ってしまったロボット・アンドリューが、人間に近づこうとする話である。アンドリューの脳は人間と変わらない。しかも、物語が進むにつれて、アンドリューを形成するボディはどんどん人間に近づいていく。それは、まるで臓器に異常が見つかったり、大きなケガを負った人間が機械の力を借りて生きていくかのように。物語は、アンドリューが「人間のように」安らかに死んでいくところで終わる。私たちに、アンドリューの存在の意味を問いながら。

 「A.I.」と「アンドリューNDR114」を引用したのは、この映画が両方に共通したテーマ「人間とは?」「人間らしさとは?」ということを包含した映画だからだ。

 殺人事件の謎解きを軸としながら、この映画は「人間とは?」「人間らしさとは?」というテーマを私たちにさりげなく投げかける。その主役を演じるのはウィル・スミスである。

 彼はロボットをとことん敵視する。その理由は、事故にあったときに、救助にきたロボットが助かる確率を計算し、少女ではなく自分を助けたからである。自分と少女を比べたとき、助かる確率など関係なく「少女を助けるべきだった」と彼は言う。その理由はあまりにもかっこいい。かっこよすぎる。もしかしたら本当は、少女ではなく自分が助かったことへの罪悪感に耐えられないからなのかもしれない。そんな弱い人間なのかもしれない。しかも彼は、失った片腕を機械で補完している。憎んでいるロボットと似た構造を持った部分を自分が持っていること、そして頭ではロボットの冷徹さを批判しつつも、ロボットに似た構造を持ってまでも生きている自分への腹立ちから、ロボットへ八つ当たりしているのかもしれない。 

 この映画に登場するロボットは、あくまでもロボットである。プログラムによって人間らしく見えるサニーでさえ、少なくとも見た目は明らかにロボットだ。ウィル・スミスのウィンクを真似てみたところで、それはロボットのウィンクにすぎない。その他のロボットたちは、人間からの命令を聞くに過ぎない。しかし、そんなサニーが一気に人間のように見える瞬間がある。それは、新型のロボットが、旧式のロボットを破壊するシーンだ。彼らには感情はないはずだ。しかし、新型が旧式を破壊する様子には憎悪すら感じられる。もっと無機質に描くことができたであろうこのシーンは、まるで圧倒的に力の強い人間が、弱者をこてんぱんを叩きのめすかのように有機的に描かれる。

 「A.I.」では、「愛すること=人間らしさ」という構図をすべてを前提にして、高らかに「人間らしさ」を謳い上げた。この映画は違う。主人公であるウィル・スミスは弱い人間だ。生かされている重さからロボットに八つ当たりする弱さを持っている。「愛すること」という誰もが認めるしかないような高尚な部分ではなく、人間の弱い部分にも「人間らしさ」を見ている。だから、当然のこととして、高らかに謳い上げることなど、この映画には出来ない。

 また、「アンドリューNDR114」のアンドリューのように、人間とロボットの境界線があいまいになることはない。ウィル・スミスは一部がサイボーグのようであっても、人間として描かれる。サニーは人間らしい仕草や考え方をしても、あくまでもロボットとして描かれる。

 この映画は、「人間は人間、ロボットはロボット」とはっきりと区別しているわけではない。むしろ、どんなにはっきりと分けて描こうとしても、はっきりとは分けられない状況を描いている。「A.I.」や「アンドリューNDR114」のような世界がいつか来るのかもしれないとしても、その途中にあるのは、はっきりと分かれているようで実は混沌とした時代を経てのことであろうことは予想が出来る。この映画は、そんな人間とロボットの、言いかえれば「人間」と「人間らしさ」の選択がまだ差し迫ってはいない時代を描いている。

 この映画の作り手たちは、SFとアクション映画の狭間で、落ちつく点を模索したことだろう。その結果、テーマの追求という点では深くは抉れなかったかもしれない。「A.I.」や「アンドリューNDR114」のように、極端な設定にすることでテーマを深く抉るという手法は取れなかった。その代わりに得たのは、より私たちの時代に近い未来の姿だ。ウィル・スミスが醸し出す人間的な弱さと機械化された片腕の組み合わせが、リアリティを補足している。

 あくまでもこの映画はエンターテインメントである。だから、私たちに「人間」と「人間らしさ」の選択を迫ってはこない。ただし、さりげなく、しかし確かに、そのことを考える時期であることを示している。ウィル・スミスの体が、サニーの表情が、ロボットたちの暴力が。とことん愛を追い求める完全なるロボットでも、人間になりたいが為にひたすらボディを機械から有機体に変えていくロボットでもない。あくまでも今の私たちに近い側のウィル・スミスと、あくまでも今のロボットに近い側のサニーの2人は、間違いなく今よりは接近した人間とロボットの距離を表現している。両者は完全に融和することなどできない。ただし、完全に隔絶することもできない。この微妙な距離感は、ありそうでなかった。

 できればこの微妙な距離感をもっと深く掘り下げて欲しかったが、それは無い物ねだりというものなのだろう。「楽しみ、ちょっと考える」ことができた映画を批判などできない。
(2004,10,27)