華氏911(2004・米)

 映画を見て3週間が経つが、私はまだこの映画を掴みあぐねている。どう評価してよいものやらとまどっている。理由はいろいろある。未だかつて、これほどタイムリーに現在の社会情勢にフィットした映画を見たことがなかったから。未だかつて、これほどアジテーションに満ちた映画をリアルタイムに見たことはなかったから。未だかつて、これほど1人の人物を批判することを目的にした映画を見たことが無かったからである。

 今年はアメリカ大統領選の年である。だから、この映画はこのタイミングで公開されたといえるだろう。マイケル・ムーア自身が語っている。この映画は、ブッシュの再選を阻止する「目的」で作ったと。アカデミー賞のドキュメンタリー部門にノミネートする権利を失ってまでも、アメリカ国内でのビデオ発売を優先させたことからもそれが本気であることがわかる。となると、この映画を非アメリカ人である私たちが見ることの意味とアメリカ人が見ることの意味合いは完全に異なる。「映画は世界共通の言語」という通説をこの映画は無視している。

 「意志の勝利」や「民族の祭典/美の祭典」といったナチスドイツのプロパガンダ映画がある。この映画は誰に向けられているかというと、(ユダヤ人以外の)ドイツ国民に向けられているのである。この映画とナチスドイツのプロパガンダ映画が同じだとは言わない。だが、10年後、20年後に同様に扱われる可能性はある映画だとは言える。明確な目的、しかも政治的な目的を持って作られた映画であるという点でである。政治的な目的を持った映画が作られ、しかもその対象となっているアメリカ大統領選がまだ終っていない以上、この映画も終わっていないのだ。ナチスドイツのプロパガンダ映画がナチスドイツの盛衰と切り離して語ることができないように、この映画は2004年のアメリカ大統領選と切り離しては語ることができないだろう。

 というのは、社会全体から見た映画というマクロな視点に立ち過ぎた見解なのかもしれない。ということを、世間に広く知らしめたのは、マイケル・ムーアとはまったく関係のなさそうな人物であった。それは、クエンティン・タランティーノである。タランティーノこそ、パルムドールに「華氏911」を選んだ2004年のカンヌ映画祭の審査委員長である。タランティーノによる受賞理由は単純にして明快だ。「政治は受賞に何の関係もない。単に映画として面白かったから君に賞を送ったんだ」というものだ。

 このタランティーノのコメントは象徴的だ。なぜなら、ナチスドイツのプロパガンダ映画に共通する側面をこの映画が持っていることを図らずも宣言しているのと同じだからだ。その作品としての質の高さから「意志の勝利」も「民族の祭典/美の祭典」も評価は定まらずにいた。監督を務めたレニ・リーフェンシュタールの評価も同様だ。「単に映画として面白かったから」という言葉は、「政治的な面はとりあえずおいといて」という意味がある。タランティーノはカンヌ映画祭を通じて、「華氏911」に「優れた作品である」というお墨付きを与えた。これは英断だろう。計算されたブッシュへの批判のおもしろさ、既存のフィルムやテレビ映像を組み合わせた構成といった側面は、この映画の質の高さを示している。でなければ、ハリウッド映画に見なれた観客たちが大勢訪れるはずがない。

 それでも、政治的な映画の取り扱いが難しいのは、政治的な決着が映画の評価に間違いなく影響を与えるからだ。リーフェンシュタール以外のナチスドイツのプロパガンダ映画も国際的な映画祭で受賞をしている。ただし、ムッソリーニ政権下のイタリアでの映画祭においてであるが。もしも、ナチスドイツやイタリアや日本が第二次大戦に勝利をしていたら、その評価は変わらず、名画として今でも見られているのかもしれないのだ。だから、タランティーノは「面白い作品だから」と受賞理由を断らなければならなかった。

 とここまで、「華氏911」を掴みあぐねている理由をくどくどと書いてきた。だが、まだある。というか、政治的な面はアメリカ大統領選に投票できない自分には何もできないし、結果が出るのはまだ先だしということで、ここではどちらかというと本題じゃない。

 では、何が本題かというと、マイケル・ムーアはこの映画で何を私たちに見せてくれたかということだ。

 何でもそうであるが、1つのことを突き詰めていくと、社会や人間についていろいろと知ることができることがある。「ボウリング・フォー・コロンバイン」が銃について突き詰めていくことで、アメリカ社会の「恐怖の文化」ともいえる背景が見えることとなる。そうでなくては、ただのアジテーション映画であり、社会のほんの1部分を伝えるだけの矮小なドキュメンタリーに過ぎない。これは、決して偶然ではできない。閃きがなくてはならない。たとえば、カナダとアメリカは銃の所有率は同じだが、犯罪率ではアメリカのほうが圧倒的に高いという事実を示すだけでは並なのだが、その謎を探るためにカナダの家を1軒1軒訪ねてみて鍵がかかっているかどうかを調べてみるというのは閃きがなければならない。その閃きこそ才能なのだろう。

 この映画はジョージ・W・ブッシュという1人のアメリカ大統領を揶揄し、攻撃するためだけの映画ではない。アメリカの頂点に位置し、戦争を始めた人物を抉り出すために、マイケル・ムーアはアメリカの最底辺に位置する人々に目を向ける。仕事がなく、生活をしていくために戦場へと志願していく貧困層の若者たちに。テロがあったときに小学生の前で「私のヤギさん」の朗読を聞いていたこととか、テロへの対決姿勢を力強く訴えた後にゴルフのティーショットを打つとかいった揶揄は日本人にだってできる。日本人にも分かりやすいこれらの映像は、万国の人々に受け入れられるだろう。しかし、生活のために志願して軍隊に入隊する貧困層の若者たちの姿は違う。彼らの事情は紛れも無くアメリカ人の事情だ。世界に軍隊を駐留させるアメリカならではの事情だ。だから、日本人にはピンとこない。そんな事情の人が周辺にはあまりいないから。おそらく、ここでブッシュは徹底的に攻撃をされている。なぜなら、ブッシュはアメリカの大統領であるから。アメリカ人ならではの悲惨な現実の責任はアメリカ大統領にあるのだから。

 ムーアは底辺の人に目を向けることで、ブッシュをコテンパンに批判している。ここで、私は脚本家である笠原和夫の映画を思い浮かべる。「仁義なき戦い」や「二百三高地」といった作品の脚本家だ。笠原和夫は社会や組織の上から下までを描き出すことで、社会や人間を描き出す脚本家だった。笠原和夫の脚本による「ゼロ戦燃ゆ」という映画がある。この映画には、スゴ腕のパイロットが出てくる。彼は戦闘中にヤケドを負うが、パイロットを辞めて郷里に帰ることができない。なぜならば、郷里ではケガをしたパイロットを養う経済的な余裕などないからだ。だから、パイロットは再度「志願」する。上は米軍に志願する貧困層の若者も、ヤケドを負っても再度志願するパイロットのことも称えるだろう。その志願の裏側はどうでもよいのだ。志願は志願なのだ。

 まさか、マイケル・ムーアと笠原和夫がつながるとは思わなかった。だが、両者とも、底辺に生きる人々へ視線を向け、それを社会や人間についてまで持っていく才能があり、さらに通俗性を持ったおもしろさに持っていく才能がある点で共通している。

 こういった作品を作る人々は常に批判に晒されることになる。なぜなら、こういった作品の成功は、作り手を作る作品に登場する人々からは遠く離れたところへと持っていくからだ。つまりは、裕福になるからだ。だが、そんなことはどうでもいい。そんなくだらない批判は無視した方がよい。チャップリンだって、「金持ちなのに、浮浪者の格好をした映画で、底辺の人々のことがわかったような映画を作っている」と批判されていた。チャップリンの映画を見ることができるメリットは、本人が金持ちであるかということとは一切関係ない。pricelessなのだ。ようは、こんなくだらない批判をする人はひがんでいるだけなのだ。金が欲しいだけなのだ。金が欲しいんだったら、そんな批判をする前に、金持ちになる方法を考えればいいのに、そうしないから金が貯まらない。そして、そんなことにも気づいていないのだ。

 マイケル・ムーアはこの映画でブッシュを見事に攻撃している。底辺に生きる人々の姿を描き出すことで。その点において、私はマイケル・ムーアの腕と才能を高く評価する。しかし、わかりやすいブッシュを揶揄した映像ばかりが取り上げられてしまっているのをみると、もしかしたらムーアは間違ったのかもしれない。ムーアの目的がアメリカ大統領選におけるブッシュ落選だとしたら、底辺に生きる人々の姿の延長線上に存在するブッシュを色濃く打ち出した方がよかったのかもしれない。言いかえると、世界中の人々にわかりやすいブッシュの揶揄よりは、底辺に生きる人々とブッシュの関連という、アメリカ人により伝わる側面を強く打ち出した方がアメリカ大統領選への影響は大きかったのかもしれない。

 だが、それではこの映画はブッシュという最大の主演スターを助演に廻すことになる。スターではない底辺に生きるアメリカ人が主演となる。それでは観客数の減はまぬがれない。特にアメリカ以外の国においては。

 このマイケル・ムーアの選択が正しかったかどうかは、結局アメリカ大統領選まで待たなくてはならないし、この映画1本で大統領選の行方が決まるわけではないので、結果が出てもはっきりとしたことは言えないのかもしれない。だから、私はやっぱりこの映画を掴みあぐねている。

 それでも、現段階で言えることはある。マイケル・ムーアの視点の基本は底辺に生きる人にあり、それを社会や人間を描き出すところまで持っていき、しかもエンタテインメントとして描き出す才能という、笠原和夫が持っていた才能を持っているということだ。そして、この映画はそのことを証明している。タランティーノを真似て言うと、「政治は評価に何の関係もない。ただ、映画作家としての才能が優れているというだけだ」。