北の零年(2005・日)

 東映の大作「北の零年」は、多くのものに目を瞑った作品である。例えば、北海道の自然の厳しさ。淡路から北海道へやってきた人々が北海道の冬の寒さに対応するには、かなりの苦しさがあったことだろう。また例えば、アイヌとの問題。アメリカ開拓のネイティブ・アメリカンと開拓民の歴史と同じことが、明治初期の北海道では行われていたことは想像に難くない。

 「北の零年」の「北の」の部分に特徴的なことには目を瞑り、この映画は作られている。その事自体が致し方ないことであることは私にも理解できる。もっとそのあたりもしっかり描こうと思ったら、4時間くらいかかってしまう事だろう。そして、内容的にもおそらく興行的にそれでは成功しないだろう。日本人は、北海道に住んでいる人ですら、「北の」に特有の部分にはあまり興味がない。特に、アイヌに関しては、北海道で育ったとしても、ほとんど意識されることはない。北海道で生まれ育った私はそのことを知っている。

 北海道は物語を紡ぐための受け皿としてのみ、この映画では機能している。例えていうならば、この映画は「ダンス・ウィズ・ウルブス」ではなく、「風と共に去りぬ」に近い。歴史を再構築する試みではなく、ドラマを機能させるために歴史を使用した作品といえる。もちろん、だからといって悪いだけではもちろんない。私たちは、映画を「歴史を再構築する」とかいった高尚な目的だけを持って、映画を見るわけではない。私たちは、みんながみんな歴史家ではないのだから。

 北海道を受け皿として作られたこの映画が綴るドラマは、江戸時代から明治時代への歴史の変換点ならではの重さを持っている。「殿」のために、北に「我らの国を」作ろうとした人々の夢が、新しく出来たばかりの明治政府の命令によってあっけなくダメになってしまう悲しさ。武士として生きることの意味がなくなっていく時の流れの非情さ。かつて下に見ていた商人と立場が逆転してしまう皮肉さといってものがきっちりと描かれている。

 大きなドラマも登場人物ひとりひとりのドラマとなっていなくては、私たちには迫ってこない。豊川悦司演じるアイヌと生活を共にする旧幕府軍の侍は、新天地を北海道に求めていたというドラマを強く表には出さない事で逆に強く訴えかけてくる。香川照之演じる新政府の役人となる元商人は、やり方はきれいではないが、北海道という大地で人々をまとめて発展させてきたという自負を感じさせ、単純な悪役にはないドラマを感じさせる。石田ゆり子が演じた、落ちぶれた武士である柳葉敏郎から、商人の香川照之へと乗り換える女性のしたたかさは、江戸時代の封建時代の終わり、女性が抑圧されていた時代の終わりを、汚く・醜く、それでいて高らかに告げる。

 こういった脇役たちの、時代の転換点を感じさせる重さを持った、ドラマに比べて、主役である吉永小百合演じる女性のドラマは古風だ。旅に出たまま帰らない夫の帰りをひたすら待つ。恐らくは惹かれあっていたであろう豊川悦司になびくことなく、辛い現実に耐え忍び、ひたすら待つ。時代の変換点ならではのリアルさを持った脇役たちに比べると、吉永小百合は浮世から離れた特別な存在にすら見える。その徹底ぶりが、見る者の胸を打つ事は確かだろう。夫である渡辺謙が新政府の役人となって帰ってきたときに、文句を何も言わずに、毎年洗っていつ帰ってきてもいいようにしておいた着物を、吉永小百合が渡辺謙の前に出すときに、浮世から離れた吉永小百合は最も光り、最も悲しく、最もドラマを感じさせる。

 「北の」に特有の部分に目を瞑っていたとしても、時代の転換点に特有の部分をドラマとして昇華させることにこの映画は成功している。その一方で、吉永小百合演じる女性の浮世離れしたドラマが絡まり、傑作となっている・・・ようには思えないのがこの映画の最大の特徴だろう。

 「目を瞑っている」のは、「北の」の部分だけではない。最も目を瞑っているのは、主演の吉永小百合という存在である。どう考えても、吉永小百合はこの映画の主演として年齢的に無理がある。子供の年齢を考えてみても、どんなに譲歩しても無理がある。それだけではない。映画のラストで吉永小百合が、「夢も信じれば誠になる」と高らかに宣言するとき、そのセリフのクサさはとりあえず脇におくとしても、まるで吉永小百合が神であるかのように私には映った。それは、まるで朗読をしているかのような吉永小百合の発声にもあるのだが、それよりも何よりも、映画の登場人物たちが吉永小百合の言葉に何の疑いもなく従うことの方が大きい。汚く・醜く・したたかに、女性が抑圧されていた時代の終わりを生き方で表現していたはずの石田ゆり子までもが、現実から吉永小百合ワールドへと導かれるように付き従っている姿は、まるで宗教のようだった。浮世離れしていても、人間としてのドラマを見せていた吉永小百合の姿はラストに至ってまったく消え去っている。

 これは、この映画の中だけの問題ではない。見る人たちも、吉永小百合という神格化された女優の存在をいつの間にか受け入れ、この映画に向かっている。はっきり言おう。おそらく、吉永小百合に何の思い入れもない人が、この映画の吉永小百合を見たら、爆笑するだろう。そして、それが許される状況が気持ち悪く、受け入れられがたく、時代遅れで、自分とは別の世界のものに感じられるだろう。

 この映画は、見た目以上に間口の狭い映画であると言えるだろう。壮大なドラマとして、万人に訴えかける映画のように見えながら、実は多くのものに目を瞑った吉永小百合を受け入れられる人間に向けて作られたかのような作品となっているのだから。私は、この映画の石田ゆり子を見ていて、なぜ彼女のような人物を主役にしてこの映画を作れなかったのだろうかと思った。それは、日本映画界の体力の問題なのだろう。作品的に間口が狭くなろうとも、確実に集客を見込める吉永小百合を主演にしなければならないという事情があるのだろう。だが、それは美学的な問題ではない。経済的な問題だ。

 私は、映画において決して美学至上主義ではない。膨大な金がかかる映画は、特に大作になればなるほど、経済的な問題が大きくなる。この映画は、見た目以上に、日本映画の現実を映し出している。日本映画は、美学と経済的な問題を両立させる大作を作ることができる体力がないという現実を。
(2005,1,30)