メリンダとメリンダ(2003・米)

 軽い出だしだ。劇作家たちの議論で始まる。悲劇と喜劇のどちらが優れているかという、居酒屋談義レベルの会話から始まる。1人の男が、あるストーリーが悲劇か喜劇かを問い、悲劇作家と喜劇作家の二人がそれぞれ考えた展開が映像として描かれていく。

 ウディ・アレンは堅苦しくない方法で、世の中のすべての出来事は見方によって変わるんだよということを示している。最近のウディ・アレンの映画は、見た目は軽いが、結構説教臭い部分も持っている作品であることが多い。この映画もそのタイプで、ウディ・アレンが出ていないと、彼自身の演技というウディ・アレン映画を楽しむもう1つのベクトルが失われるために、よりそう感じてしまう。だからといって、この映画が説教臭いつまらない映画であることを言いたいのではない。それどころか、この映画はおもしろい。

 悲劇編と喜劇編のどちらがおもしろいと思うかは、人それぞれだろう。だが、ウディ・アレンの映画の多くが喜劇であることを思い起こすと、わざわざあまたある映画の中から、ウディ・アレンの映画を選んで見る人々は喜劇の方がおもしろいと思うかもしれない。正直、私は喜劇の方がおもしろいと思った。ウィル・フェレル演じる性的欲望に翻弄されるグダグダな、ある意味ダメ男の存在が大きい。アレン自身がもう少し若かったら自分で演じていたと語るフェレルのキャラクターはアレンの映画ではおなじみのキャラクターで、そのおもしろさは折り紙つきといってもいい。フェレルの演技がまたうまく、アレンがいままで演じてきたキャラクターでありながら、アレンの猿真似ではない独自のおもしろさを生み出すことに成功している。

 この映画の中で、悲劇と喜劇を分けている要因は何だろうか?メリンダの悲しい過去や不倫といった要素は悲劇にも喜劇にも登場する。それでも片方は悲劇に、もう片方は喜劇になる。最大の要因は登場する人々の性格だ。特に両方に登場するメリンダの性格の差を見れば一目瞭然。悲劇編のメリンダは、悲しい過去を重荷として背負い、その十字架に一生苦しめられながら生きていくことを決意しているかのようだ。それに対して、喜劇編のメリンダはあっけらかんとしている。セックスへの捉え方は同じなのに、片方はまるでそれを罪のように意識しながら生き、片方はそれを他人に表明しても何ら問題のないものとして生きている。わかりやすく、はっきりと言ってしまえば、「気の持ちようですべてが決まる」ということなのだと思う。それは、見方によってはすべての出来事が悲劇にも喜劇にもなるという、この映画のテーマと重なる。

 ということを言いたいだけであれば、この映画がおもしろくはならない。お勉強のようなものだ。ウディ・アレンは、「見方によって変わる」ことを語りながら、同時に自らが喜劇的に見る方を好む事を宣言して、喜劇の方に肩入れしている。それが分かる最大の理由は、喜劇編の方が悲劇編より後に終わるからだ。後に残った方が、見る者の記憶には残る。

 ウディ・アレンはこの映画のように作品を撮ってきた。同じような題材で時には悲劇を、時には喜劇を撮ってきた。だが、ここ数年は常に喜劇を中心に撮ってきた。アレンは、多くの作品を積み重ねてきた上で、最終的に喜劇に落ちついているように見える。少なくともいまのところは。この映画は、アレンの映画である。アレンのこれまでの作品の解説のようでもあり、それでいて今現在のアレンの考え方を表明してもいるように思える。多くの作品を撮ってきた末に、アレンはアレン自身についての映画を撮っている。しかも、おもしろい。ここまでくると、このまま突っ走って、アレンの映画を見せ続けて欲しい気持ちになる。

(2005,7,18)