NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE(2004・日)
「ハットリくん」はこの映画のターゲットであろう子供たちではなく、親の世代にとってはブランドである。子供を連れて映画を見に行こうと思ったとき、あの「ハットリくん」の実写であれば、世間的に言われるところの「健全」な映画であることは間違いないと親が思うことは予想できる。しかも、主演は国民的グループのSMAPの一員である香取慎吾だ。彼は、「慎吾ママ」で子供たちにも親しまれている。マーケティング的にはこういった読みが出来る。
だが、「忍者ハットリくん」ははっきりいって過去のマンガだ。「ハットリくん」はかつて、ドラえもんの映画と併映で公開されていたが、それは今から15年以上も昔の話だ。「ドラハッパー」(ドラえもん、ハットリくん、パーマンのこと)の略称で宣伝されていたのを今でも覚えている。「ハットリくん」のブランドは今の子供たちには通用しないことだろう。ただ実写化するだけでは、集客を期待できるわけがない。ということは、何か奥の手があるに違いない。そうでなくては、作り手はあまりにも愚かだ。
結論から書くと、作り手は愚かではなかった。「ハットリくん」の映画が作られた時代から15年以上を経て、イメージがおぼろになっているところを狙って、マンガ・アニメとはまた違ったオリジナルの映画としての「ハットリくん」を作り上げた。おそらく、マンガ・アニメで「ハットリくん」が人気であるときに作られたら、マンガ・アニメのイメージを崩されたとして批判にさらされたであろう。この映画はその危険が回避できる今だからこそ、作ることができたといえるだろう。とても賢い選択であった。
映画は、見事に原作を換骨奪胎している。現在に生きる忍者たちの姿を、リアルとファンタジーを絶妙にブレンドさせて描くことによって、大人でも子供でも楽しめる作品となっている。忍者という職業が成り立たなくなっている現在、そして最も成り立ちにくいであろう大都会東京がこの映画の舞台だ。それでも忍者として主人に尽くすことを選ぶ伊賀流忍者のハットリくん。忍者の道を捨てて人間社会に溶け込む甲賀流忍者たちと、その代表であるケムマキ。忍者の道を捨てた同じ甲賀流忍者たちが許せない黒影。この設定はさまざまな人々の生き方に重ね合わせることができるだろう。そして、同時にギャグが満載で、CGを使った映像でも見せる。「およげたいやきくん」と同じものをこの映画は持っている。
主人公のハットリくんを演じるのは香取慎吾だ。原作通りのあの青い忍者の格好で、さらに頬のうずまきを書いた姿を、これほど違和感なく現出させられる役者は、現在のところ香取慎吾しかいまい。いや、違和感はある。正確には「違和感を少なく」だろう。香取慎吾のこの映画への貢献はこのことにとどまらない。というよりも、今から書くことの方が遥かに大きい。それは何か。それは今では古くなった考え方のすばらしさを、香取慎吾が体言しているということだ。
ハットリくんが黒影との対決で追い詰められたとき、ハットリくんが「主人」として仕えているケンイチが黒影に立ち向かう。非力にポコポコと黒影を叩くことしかできないケンイチの抵抗は、黒影にとってすぐにでも排除できるものでしかない。だが、忍者として生きていくことにこだわっていた黒影は、そんなケンイチの姿を見て、ハットリくんに言う。「いい主を持ったな」と。
ハットリくんはある掟を父親から言われて東京に出てきた。その掟とは、「主以外の人間に姿を見せてはいけない。もし見られたら、里に戻らなければならない」ということだ。注意深く、ケンイチ以外に姿を見せることを避けてきたハットリくんだが、ケンイチの危機についに多くの人に姿を見せてしまう。ケンイチを助けた後、ハットリくんはケンイチに里に帰らなければならないことを告げる。引きとめるケンイチ。そこでハットリくんは言う。「拙者は掟だから守るのではござらん。拙者が掟を守ると決めたから帰るのでござる」と。
主人と忍者との封建主義的な関係、あまりにも古くさい関係だ。掟を守るということ、あまりにも古くさい考え方だ。この映画はそんな古くさいものを全面的に肯定している。ハットリくんがそのことに対して、まったくと言っていいほど悩むことがないことからもそれがわかる。しかも、天真爛漫に、ひねくれることもなく、真っ直ぐに肯定している。これを「体言」以外に表現する言葉を私は知らない。古くさいものにこだわる表現が暴力となってしまった黒影も、古くさいものへの未練を残しつつ現実への適応を優先させたケムマキも、そしてまだ何に価値をおいて生きていくのかはこれから形成されていくであろうケンイチも、ハットリくんに影響されていく。
この映画のハットリくんは悩まないという点で、特殊な存在だ。すでに人ではなく、「ハットリくん」という古くさいもののすばらしさを体現する記号だといってもいいくらいだ。高倉健であれば、そこに立っているだけでなりえる記号の役割を香取慎吾は27歳の若さで体現している。しかも、まったく肩に力の入っていない感じで。これはなかなか他の役者では出来ないことだと思う。
私は、古くさいものがすばらしいということをここで言いたいのではない。古くさいものの素晴らしい部分を、この映画は見事にうたい上げていて、その功績は香取慎吾に負う部分が大きいということを言いたいのだ。
この映画は、見る側が持っているおぼろげな「ハットリくん」像を崩すことなく、子供が見ても楽しめる軽やかさを持ち、それでいて古くさいものの素晴らしさを高らかに謳いあげるという離れ業を成し遂げている。香取慎吾はその中心として、この映画にはなくてはならない存在として光っている。作り手の奥の手は、大掛かりなものではなく、香取慎吾という一人の役者を主役に据えることだった。
余談だが、香取慎吾は現在大河ドラマの「新撰組!」で、近藤勇を演じている。三谷幸喜による脚本の近藤勇像は、この映画のハットリくんと通じる真っ直ぐで無骨で天然で、だからこそ多くの人々に影響を与える役柄である。作り手は香取慎吾を生かす術を知っている。だからこそ、香取慎吾は「ハットリくん」でも、「新撰組!」でも光っているのだろう。
(2004,10,10)