パッチギ!(2005・日)
ストーリーはまとまりがあるとは思えず、決して良い出来の映画とは言えないだろう。だが、映画を見終わった後に、これほど嬉しい気持ちになったことは久しぶりである。あまりに嬉しくて、帰り道で何度も何度も嬉し涙が込み上げてきた。
日本人と在日朝鮮人の高校生がケンカに明け暮れる日々。時代は1968年。私は生まれてもいない。北海道で育った私は、日本人と在日朝鮮人の関係については知識としてしか知らない。ケンカは大嫌いで、自分自身が殴り合いのケンカをしたこともない。だから、私が肌でこの映画を理解できる部分はほとんどないと言ってもいいだろう。しかし、この映画は私を揺り動かした。
日本人の高校生である松山は、偶然にも一人の在日朝鮮人の女性・キョンジャを好きになる。2人の間には深くて長い河が流れている。2人だけの関係を見ていても、その深くて長い河ははっきりとは見えない。深くて長い河はケンカに明け暮れる日本人と在日朝鮮人が代わりに見せてくれる。決して、当人同士の間にはっきりとした理由があって、ケンカに明け暮れるわけではない。長い長い歴史の結果に、持ち余したエネルギーが加わって、ただひたすらにケンカに明け暮れているかのようだ。理由といえば、「松山がキョンジャを好きになってアタックしている」という事実の方が、よっぽど理由になりそうなもんだ。だが、在日朝鮮人の高校生たちは、松山に対してむしろやさしさすら見せる。松山が、公園で開かれている在日朝鮮人たちの宴会を訪れるシーンがある。ここでも、在日朝鮮人の人々は1人の個人としてやってきた松山をむしろ歓迎する。総体としての日本人に対しては、様々な恨みを持っているだろう在日朝鮮人の人々も、一人の個人としての松山に対しては、やさしさを見せる。
「一人一人の関係が変われば、いつか世界も変われるさ!」。なんていう、熱くて、耳障りがよくて、気分が上向くようなメッセージをこの映画が放っているわけではない。在日朝鮮人の高校生の葬式では、松山は老いたがゆえに歴史を重く背負っている在日朝鮮人の男性に、ひたすら罵倒される。「お前は何を知っている?何もわかっちゃいない。帰ってくれ!」と。そんなに簡単なものではない。そんなに単純なものではない。そのことをこの映画は語っている。
それだけでは、この映画が私をここまで揺り動かさなかっただろう。私を揺り動かしたものは、タイトルにもなっている「パッチギ(乗り越える)」ことへの強い意思だ。現状は厳しいし、一人一人が事を起こしてできるほど単純ではなく、時には悲しい事もあり、時には辛いこともある。肩肘張ってやればいいってもんでもない。それでも、何かをするでしか乗り越えることはできないという強い意思である。
何かをするということは、何かを知るということでもある。「知れば知るほど無知を知る」という言葉があるように、知るということで世界はどんどん複雑になっていく。「イムジン河」という歌がモチーフとして使われている。「日本語の詞をつける」という見方によっては、日本人の傲慢ともとれるこの曲の存在は、この曲を唄うことによってキョンジャとお近づきになろうとする松山の姿とダブる。また、この曲が1968年当時発売禁止になったことが、在日朝鮮人の葬式で追い返される松山の姿ともダブる。「イムジン河」の存在がこの映画の象徴として、映画の中心にどっしりと存在して、見る者に複雑な世の中を、複雑な人間の感情を見せつける。
世の中の複雑さ、人間の感情の複雑さを痛いほど味わった松山は、ラジオの生放送で「イムジン河」を熱唱する。映画のハイライトであるこのシーンは、後味のよい映画におけるカタルシスの役割を果たしてはいない。むしろ、どうしていいかわからない世の中で、こうするしかないという困惑さが見え隠れする。好きになった女性のためにがんばって覚えた朝鮮語の歌詞で、自身の分身のような「イムジン河」をひたすら熱唱する松山の姿は、乗り越えるために今できることを、ただひたすらに行っているが故に私の胸を打った。
映画は何にも結論を出していない。松山とキョンジャの関係はこれからどうなるのかわからない。高校生同士のケンカは終わらない。新しく生まれた生命は、これからの世の中をさらに複雑にしていく事だろう。だが、何かは変わっていくだろう。映画の冒頭で、深く長く横たわっていた日本人と在日朝鮮人の間の河ははっきりと別れていた。それゆえに、もっともっと単純だった。だが、松山がその河を渡ろうとしたことで、事態はどんどん複雑になり、映画は終わる。だが、複雑になったことで、もしかしたら何かを乗り越えることができるかもしれないという希望が同時に生まれているような印象を受けた。通常は、終わりに向かって収斂していく物語が、この映画の場合は拡散し、複雑化し、それゆえに、乗り越えようという意思に満ちた作品となっている。
何かを見なかったり、何かを隠す事で物事を単純化する事はできる。不幸な事を全部忘れる事が出来れば、人間はみんな幸せだ。この映画は、そのことに真っ向から対峙している。そうすることなしでは、決して乗り越えることはできないとでも言いたいかのように。それゆえに、この映画はバタバタしているし、まとまりがないし、ドラマツルギーとして優れてはいない。だが、そんな事は些末な事に過ぎないと言わんばかりに、乗り越えようというエネルギーに満ちている。在日朝鮮人の問題は、長い間タブーとされていたし、それゆえに私たちは世の中を単純に気持ち良く過ごせてきたのかもしれない。この映画は、そんなタブーに敢えて斬り込むことで、世の中を複雑化しようとしている。映画の中でひたすら事態が複雑化していったことと通じるものがそこにはある。
社会派と呼ばれる映画は、見る人たちに社会を考える何かを与えてくれるが、その多くは結局は問題を単純化し、結論も単純である事が多い。対してこの映画は、乗り越えるためには世の中の人間の複雑さを受け止めなければならないという意思が感じれる。見る者は、ひたすら複雑化して終わるこの映画を見ることによって、世の中の複雑さを感じる事になる。映画の存在自体と内容がそろって迫ってくるあまりの複雑さに、上段から構える余裕を失わせる。真の社会派映画とはこういった作品を言うのではないだろうか?
映画の魅力はいろいろある。作り手の腕前に感心するのも映画の魅力だし、息もつかせぬ興奮を与えてくれるのも魅力だ。見た事もない世界を見せてくれるのも魅力だし、知っている世界を再認識させてくれるのも魅力だ。良い気持ちにさせてくれるのも魅力だし、落ち込むくらい打ちのめされるのも魅力だ。だが、この映画のようにタブーに挑戦することで、見る者に複雑な世界を認識させてくれることも魅力の一つだろう。この映画は、日本映画が長く見せてくれなかったタイプの魅力を見せてくれた。どんなタイプの映画があってもいい。
三位一体の魅力といえばいいのだろうか?この映画は、どんどん複雑化する映画のストーリーで、世の中を複雑化させる内容を持ち、映画の魅力も複雑化させてくれる。井筒監督は語っている。「今の日本って自分の物語ばっかりやないですか。でも僕らは、対岸にいるヤツの話を書きたい。その両方を描いてこそ映画やと僕は思うんです」と(パンフより)。井筒監督の複雑化への意思は、この映画に見事に宿っている。井筒監督と、映画の中の主人公である松山と、「イムジン河」は、意識するしないは別として、「乗り越えよう」という意思に満ちている。その結果、この映画にまつわるいろいろなことが複雑化していった。それは当然のことだろう。乗り越えるためには、現状を把握することなくてはできず、現状を把握しようとすればするほど、複雑な世の中が見えてくるのだから。
映画の中で、ラジオ番組のディレクターは、「イムジン河」の放送をやめさせようとするプロデューサーに叫ぶ。「世の中に歌っちゃいけない歌なんてねぇんだよ!」と。この映画は、複雑な世の中を受け止めようとしている。それゆえに、このシーンで私は打ちのめされる気持ちになるほど感動した。「世の中に知っちゃいけないことなんてねぇんだよ!」と映画が叫んでいるかのように感じられたからだ。「世界の中心で愛を叫ぶ」よりも、よっぽどこたえる叫びだ。
内容と、作り手の意思と、現在の世の中の現状と、映画界の現状と、そのすべてが合致した作品。それは奇跡といってもいいのではないか。だから、私はこの映画を傑作だと思う。
(2005,2,11)