「裏窓」−倫理観を読む

 「裏窓」を久しぶりに見て驚いたことがある。それは、ヒッチコックのテクニックもあるし、あまりによく出来た脚本にもある。そして、この映画の持つ倫理観についてでもあった。

 この映画は、足を骨折したカメラマンが裏窓から近所のアパートに住む人々を眺めていることで進んでいく。それは、覗きといってもいいだろう。そして、向かいに住むセールスマンに殺人の疑いを抱く。だが、カメラマンは死体を見たわけではない。殺人現場を目撃したわけでもないし、凶器を見つけたわけではない。物証は何もないのだ。あるのは、状況証拠だけ。セールスマンの妻がある日を境に姿を見せなくなった。セールスマンがトランクを持って夜中に2度も外出した。宝石を入れたセールスマンの妻のバッグがそのままになっていた。こういった状況証拠だけで、カメラマンはセールスマンに疑いを抱き、友人の刑事に捜査を依頼し、不法侵入(実際にするのはカメラマンの恋人)をしたりする。

 プライバシーの保護と犯罪捜査、個人の幸せの公共の利益の軋轢はこの映画が公開された1952年も、2005年の現在も変わらずに存在する。片方を重視すれば、片方が不充分になる。50年以上の時を超えて、この映画は重いテーマを内包している。だが、これは映画である。しかも、ヒッチコックの映画である。決して、倫理観をテーマとした映画とはなっていない。だが、内包していることは確かだ。これから、それを読み取っていきたい。

 この映画の冒頭で、主人公のカメラマンのマッサージにやってくるおばさんは、カメラマンが窓から外の生活を眺めることをたしなめる。「覗きはニューヨークでは6ヶ月の禁固刑よ」と。この段階で、カメラマンの覗きには何の正当性もない。だが、窓を開けっ放しで、「見てください」とでも言わんばかりの隣人たちを、ただ眺めているだけなのだから、何も悪い事はしていないようにも見える。正当性もない代わりに、何の害もないように感じられた。

 セールスマンの妻が姿を消して、事情は変わる。まず、見る道具が変わる。最初は肉眼で眺めていたものが、双眼鏡に変わり、しまいには望遠付きのカメラとなる。言いかえれば、「眺める」から「覗く」に変わる。カメラマンをたしなめていたおばさんも、カメラマンの話を真剣に聞いていたなかったカメラマンの恋人も、カメラマンと同じ疑いを抱き、「覗く」行為に疑いを抱かなくなる。

 ここで大事なのは、主人公がセールスマンの妻が姿を消して、疑いを抱いた後で「眺める」から「覗く」という行為に変わったことだろう。主人公は決して、「覗いていて」殺人の疑いを抱くに足る人物を見つけたわけではなく、「眺めていて」見つけたのだ。主人公の倫理への批判は、ここでとりあえず回避されるように出来ている。主人公の「覗く」行為が正当化されることによって、彼とともに覗く2人(おばさんとカメラマンの恋人)も正当化されることになる。だが、その一方で彼らは好奇心が満たされているようにも見える。二人だけで話している時は、愛し合っているのに意見が合わずに気まずい時間が流れることがあったカメラマンと恋人も、セールスマンについて話すときは同志のような一体感を得ている。セールスマンがどのように死体を処理したかを語るおばさんの真剣な表情も好奇心が満たされていることが浮かび上がっている。

 カメラマンは戦友の刑事に捜査を頼むが、刑事は取り合わない。すでに、「覗く」ことが正当であるかのように描かれているこの時点で、刑事は物分りが悪く、ウスノロで、無能のように感じられる。だが、よく考えると、当たり前だ。刑事という権力を持った存在が、そんなに簡単に状況証拠だけで、しかも覗きで得た一般人の情報だけで、行動することは難しい。そして、もしも刑事がこの時点で積極的に捜査を行うとしたら、プライバシーをあまりにも軽視した映画となってしまっていただろう。そして何よりも、あっという間に事件は片付いてしまい、この映画がつまらなくなっていただろう。一方で、警察という権力の積極的な協力を得る事が出来ない事で、カメラマンと2人の「覗き」はさらなる正当性を与えられることになる。彼らは、無能な刑事のせいで「仕方がなく」覗いているという正当性が。

 そんな正当性を与えられた彼らの覗きも挫折を迎えそうになる。プライベートで調べてくれた刑事の情報は、セールスマンの妻が生きている事を指し示していた。さらに、個人には他人の知らない秘密があることを、カメラマンと恋人の関係を例に刑事に言われる(言葉ではっきりと言われるわけではなく、小道具を使って効果的に伝えられる。このあたりは見事!脚本のジョン・マイケル・ヘイズに拍手!)。だが、そんなことよりも、カメラマンと恋人がミス・ロンリーハート(DVDの字幕はミス・ロンリー)と名づけたオールド・ミスが、家に連れ込んだ若い男性に部屋に入るなり体を求められ、拒絶して泣き出すところを見てしまったことの方が大きいだろう。ミス・ロンリーハートの見てはいけないところを見てしまった彼らの姿は、自分たちの覗きを恥じているように見えるし、見ている側にも彼らがやりすぎてあったようにも思えてくる。ヒッチコックの演出は見事で、ロンリーハートがブラインドを降ろしていたことで、「見てはいけないところ」を強調している。

 覗きが挫折を迎えたかのように見えたカメラマンと恋人だが、それでは映画は終われない。この後、恐らくプライベート中のプライベートであるセックスのために気分を盛り上げかけていた2人に、飼い犬の首の骨を折られた中年女性の叫び声が向かいのアパートから聞こえてくる。みんなが窓から顔を出す中、セールスマンは顔を出さない。だが、暗い窓の向こうに、セールスマンの吸うタバコの火が見えている!犬が花壇を掘り起こそうとしているのをセールスマンが追い払ったのを見ていたカメラマンは、セールスマンへの疑いを再燃させる。しかも、犬を殺された中年女性は叫ぶ。「これが隣人なの?本当の隣人はもっと隣の人のことを気にかけるものよ!」と。まるで、カメラマンが覗くことをやめようとしていることを批判しているかのように。一度は否定された「覗き」の正当性は、一気に生き返る。

 生き返った正当性は、挫折を知らない正当性よりも強い。強い正当性を得たカメラマンたちは、「覗く」だけではなく、ついに行動に出る。セールスマンをおびき出し、恋人は不法侵入して証拠を探す。そこで、物証(といっても弱いのだが)を見つけた彼らは刑事に電話し、ついに刑事も重い腰を上げる。皮肉なことに、セールスマンが間違いなく犯人だという証拠は、「覗く」ことによっては得られない。行動を起こして、物証を得てもまだ弱い。セールスマンが、カメラマンを襲うことでやっと立証される。

 「主人公に共感できなければ、サスペンスは生まれない」という法則にのっとって、この映画の主人公であるカメラマンの「覗き」については、ことあるごとに正当性が付与されている。元々は「眺めていた」という点、刑事の代わりに覗いているという点、犬が殺されたという点。だが、一番の正当性は何かというと、セールスマンが殺人者であったという点だ。この1点において、この映画の主人公の行動は基本的に肯定されている。だが、完全に肯定されているわけではない。カメラマンは「覗く」ことで見つけた殺人者によって命を狙われる。命は助かるものの、もう片方の足も骨折することになる。

 ざっと、「裏窓」における「覗く」という行為について書いてきた。この映画が「覗き」についてどのように描いているのかをまとめると次の点が挙げられる。この映画の主人公は、一定のモラルを持って覗いていることがわかるだろう。

1.権力を持たない一市民が「覗く」分には悪くない。
2.他人が見られたくないことを意思表示していないものを「覗く」ことは悪くない。
3.まったく興味を持たないことと比べると悪くない。
4.私利私欲がない限り、「覗いてしまう」ことは悪くない。

 1は警察の協力を得られないこと、2はブラインドを降ろしていたロンリーハートを見ていたカメラマンらの反応からわかる。3は犬を殺された中年女性の叫びからわかる。1から3までは、映画のシーンを個別に見た場合に挙げられる点だ。では、4はどうだろう?

 この映画の主人公は、始めは眺め、そこで見たものに好奇心を抱き、覗きにいたる。そこには、「金を儲けよう」とか、「名誉を得よう」とか、「いやがらせをしよう」といった欲望はない。あるのは、好奇心だ。DVDの映像特典でもヒッチコックがピーター・ボグダノビッチとのインタビューで語っていた。「彼の行為は純粋に好奇心からきている」と。

 この映画が倫理観の上で優れている点は、「覗き」にモラルを持たせている点だと私は思う。しかも、上に挙げたこの映画が放つモラルは絶対ではないし、決して押し付けてくるものでもない。映画の中で、カメラマンたちは何回も「自分たちのしていることはいけないことではないか?」と思わせる面に遭遇するし、見ている側にもそう感じられるようになっている。そして、主人公のカメラマンは命を狙われ、足を骨折するという代償を払うことで、絶対的に「覗き」を肯定しているわけではないことが描かれている。

 プライバシーの保護と犯罪調査、個人の幸せと公共の利益の軋轢は、どちらが正しいという結論が出ない問題だ。常に考え、常に揺らいでいなければならない問題だ。「他人のプライバシーに土足で踏み込んではいけないが、無関心なのもいけない」というメッセージをこの映画はモラルを持って「覗き」をする主人公を通して発している。

 もし、時代がプライバシーの保護や個人の幸せに行き過ぎた時にこの映画を見たら、「もっと他人に関心を払うべきだ」と思うだろう。もし、時代が犯罪捜査や公共の利益に行き過ぎた時にこの映画を見たら、「プライバシーはもっと保護されなきゃいけない」と思うだろう。この映画はそんな映画だ。玉虫色ゆえに、この映画は倫理観の面でも決して古びることなく、受け入れられていく事だろう。
(2005,1,29)