スクール・ウォーズ HERO(2004・日)
テレビシリーズが十数時間かけて醸造していったドラマを、2時間にまとめるというのは至難の技だったことだろう。「踊る大捜査線」のように、テレビシリーズからまだあまり時間が経っていない段階であれば、人物の紹介や舞台設定も省略が出来る。だが、「スクール・ウォーズ」の空白の期間を考えると、そうはいかない。たとえ熱狂的ファンが多い作品といえどもだ。
校内暴力が吹き荒れる高校に、元ラグビーの日本代表の山上が赴任してラグビー部の顧問となる。そこまでをあっという間に描く。しかも、単純な出来事の羅列ではなく、山上の葛藤も描きながら。その腕前は最後まで光っている。テレビシリーズのように時間をかけられない分、山上以外の人物の葛藤は比較的あっさりとしてはいるものの、ヘタにドラマが拡散してしまうようなことにはなっていない。
巧みにテレビシリーズから映画へと置きかえられたこの映画は、いったい何を描いたのだろうか?パンフレットを読むと、そこにはまるで映画のパンフレットというよりは、教育教材の取り扱い方法のように、教育問題に絡めての文章が並んでいた。そのことは決して的外れではなさそうなことは、私が目撃した数組の子供連れが証明している。
この映画には大きな免罪符がある。それは、実話をモデルにしているということだ。果たしてどこまでが実話で、どこからがフィクションなのかはよくわからない。ただ、テレビシリーズでもこの映画でも主人公の山上は熱い男として描かれている。熱い男であることは間違いがないのだろう。そんな熱い教師にワルだった生徒たちの心もほだされる。それは疑似家族のようである。もちろん山上が父親で、生徒たちが子供たちだ。山上の妻は見事なまでに山上を支え、SAYAKA演じるマネージャーは「北の国から」の(テレビシリーズの)蛍のように、反抗する息子によって負った父親の傷を癒す役割を果たしている。そう考えると、この映画は家父長的な家族に価値を置いた保守的な映画といえるのかもしれない。教育教材にはぴったりだ。
テレビシリーズには有名なシーンがある。京都府大会で112対0で敗北した後、山下真二演じる顧問が生徒たちを殴るシーンだ。山下真二は「これから俺はお前たちを殴る!」と言った後、部員をひとりずつ殴っていく。そこにナレーションが被さる。「これは暴力ではない」と。映画にも同じシーンがあるがちょっと違う。試合の後、生徒の方から「俺たちを殴ってくれ!」と頼むのだ。これは、教育的な配慮からなのだろうか?いくら愛の鉄拳といえども、生徒から頼まれなければ教師は生徒を殴ってはいけないということなのだろうか?
私は「体罰も致し方ない」と思っているわけではない。ただ、テレビシリーズと映画との違いを語りたいだけだ。テレビシリーズも映画も根本にあるのは、熱い教師と生徒たちの物語である。熱い教師は、「教師」という職業でありながら、「教師」という枠組を越えて生徒たちにぶつかっていく。犯罪を犯したわけでもない、誰かを傷つけたわけでもない、そんな生徒たちを「ラグビーが負けたから殴る」というのは、「教師」という枠組を越えている。主人公の教師の人物を説明する上で、非常に象徴的なシーンだと私は思う。その場面で、映画はどこか描写が及び腰だということを言いたいのだ。
この映画の副題は「HERO」である。ヒーローとは、更正してラグビーに打ち込むようになった生徒たちへの言葉でもあるだろうが、メインは山上という教師に対してのものだろう。山上は「教師」ではなく、ヒーローなのだ。ヒーローの定義は難しい。「スーパーマン」のように常人とは違った能力を持った人のことを指すことが多い。また、ヒーローはヒーローゆえに、ある程度何をしても許される部分がある。ヒーローは権威なのだ。人は権威に弱い。そう考えると、テレビシリーズではヒーローゆえに生徒たちを殴ることができたが、この映画ではヒーローではないのかもしれない。
だが、先を見ていくに連れて、この映画の主人公は「教師」を捨てていくことになる。主人公は過去の栄光であるブレザーを脱ぎすてる。そのブレザーは見た目からして堅苦しく、「教師」という権威にぴったりのものであった。見た目から「教師」を捨てた主人公は、行動でも「教師」を捨てる。生徒を殴ったことで謹慎処分になった主人公の家の前に、生徒たちが押し寄せてくる。「俺たちにラグビーを教えてくれるって言ったのに何やってんだよ!」という生徒たちに、「謹慎なんてどうでもいい!」と次の日から学校にラグビーを教えに行くのだ。謹慎は命令であるはずだ。教師として生きていく以上は、従うしかないルールであるはずだ。主人公はそのルールをあっさりと破る。それはもはや「教師」の行動ではない。
主人公はこうして「教師」から「ヒーロー」になっていく。生徒たちを殴るシーンも、謹慎を破るシーンも生徒たちの行動が引き金になっていることは、注目すべきところだろう。主人公は元からヒーローなのではない、生徒たちによってヒーローとなるのだ。
生徒たちを殴るシーンはテレビシリーズでは、ヒーローが生徒たちを殴るシーンだった。しかし、この映画では教師が生徒たちによってヒーローになっていくきっかけとなるシーンだと言えるだろう。教育的な配慮から生徒たちから「殴ってくれ!」と言わせたのかもしれないが、結果としてはテレビシリーズとこの映画を大きく隔てる特徴的なシーンとなった。
俗にいうヒーローの物語は、人間の物語とは言い難い場合が多い。ヒーローの言葉の意味にの中の「常人離れした」という意味合いから見るとそうなるし、常人離れしたおもしろい物語も、映画は私たちに見せてくれた。だが、「ヒーロー」はよい仕事をしたときにも使われる。たとえば、スポーツで「今日のヒーローは・・・です」というように。この映画の主人公はよい仕事をしたという意味でのヒーローだといえるだろう。
だが、同時にこの映画は、「教師」を捨てることでヒーローとなった人物の物語でもある。いいかえれば、ルールを破ることでヒーローになった人物の物語だ。文科省は決して認めることが出来ない教育的な映画である。家父長性に価値を置いているということは、価値観の問題だろう。だが、ルールを破るということは、社会の仕組みの根幹を揺るがしかねない問題なのだから。
(2004,11,21)