死に花(2004・日)

 私のこの映画に対しての最大の興味は、この映画の登場人物たちを「じじい」とためらいもなく呼べるかということであった。「スペース・カウボーイ」の4人をそう呼べたように。年寄りを、保護されるべき存在として描かれていたり、敬うべき存在として描かれていたりしては快く「じじい」とは呼ぶことはできない。年寄りのあるがままの愛すべき部分も、腹が立つ部分もきっちりと描かれることによって、そのすべてをひっくるめて魅力的であることによって、初めて「じじい」と呼ぶことができるように思える。

 「死に花」の登場人物たちが、高級老人ホームに住んでいるという設定に戸惑いを覚えた。そうとうな入居費用がかかるこの老人ホームに住めるということは、金があるということである。それだけで、なんだか遠い世界の物語を聞かされるような気がした。そんな彼らは銀行強盗を行う。金の心配などしなくてもよい彼らがである。彼らの銀行強盗の目的は、決して金のためではない。人生にもう一花咲かせたいという欲望からである。金がどうしても必要で行う銀行強盗のような切羽詰った状況はここにはない。

 私は批判的な目で彼らを見ていた。金持ちの道楽。そんな言葉が私の頭には浮かんだ。これは、決して金持ちとは言えない自分の、将来の年金制度に不安がある私のような世代のひがみなのかもしれない。思えば、たいして金に困っていない人間が、金を得るためにこの映画のように犯罪を犯す映画はごまんとある。その多くは、若者が主役だ。その目的は何か。「もっと上にのし上がりたい」「もっといい暮らしがしたい」という欲望のためである。私は、こういった銀行強盗のような犯罪を犯す動機に目を奪われすぎていたのかもしれない。金持ちの年寄りには金持ちの年寄りの動機がある。そんな当たり前のことを忘れていたのかもしれない。

 生い先がそれほど長いとは言えない彼らは、若者以上に怖いもの知らずなのかもしれない。だからこそ、楽しさを求めて銀行強盗をするのかもしれない。私がそんな当たり前とも思えることに考えがいたったのは、映画を見た後、かなりの時間が経ったあとである。宇津井健が整った容姿や、整った演技を崩して、かつての銀行マン時代に舐めた辛酸を思い返すシーンや、一番のしっかりもののように見えた山崎努が痴呆の症状を見せるシーンが、「なぜ、金持ちの彼らが銀行強盗を?」という疑問に答えを示していたように思える。映画の中の登場人物と同じ境遇の人々であれば、すぐに感じ取ることができたであろうこの映画の前提を理解するのに、私はかなりの時間を要してしまった。

 時間がかかってしまった理由に、私の中に年寄りに対する先入観があったことは否定できない。しかし、同時にこの映画の中の、若者代表である星野真理の存在が、あまりにも年寄りに添っていることも理由にあるように思える。星野真理は、途中、恋人と思われる男性と喧嘩別れする。そして、まるで若者よりもエネルギーに溢れた年寄りといた方が楽しいとでも言わんばかりに、その後彼らの銀行強盗に付き合う。この星野真理の行動によって、この映画の主人公たちが行う銀行強盗は、全面的に認められているかのようになっているように感じられたのだ。生い先短いがために、金ではなく楽しさを求めるという目的で行う銀行強盗を、この映画は何のためらいもなく認めているかのようだ。若者には若者の諸事情があり、年寄りには年寄りの諸事情がある。星野真理の行動はそんな当たり前のことを曇らせている。

 銀行強盗が成功に終わったとき、計画書を遺書として山崎努に託した藤岡琢也の隠れた目的を知ることととなる。それによって、この映画は磐石の様相を呈する。年寄りの楽しみの他に、1人の老人の悲しみを癒す目的があったという理由が付加されることで。その一方で、この映画は兜町のビルを1棟倒壊させるというその代償としては大きい出来事も描き出している。数人の年寄りの楽しみと、1人の老人の悲しみを癒すことは、1棟のビルに優先するとでも言わんばかりに。ここに大きなアイロニーを感じさせる。

 ビルの倒壊を目にするにあたって、この映画はハリウッド製アクション映画の年寄り版であるかのように感じられた。ハリウッド製アクション映画では、ビルの倒壊くらい当たり前である。そう考えると、老人にとってあまりにも都合のよい星野真理の存在もまた納得がいく。年寄りが主役ということで、ヘンに身構えて見てしまった自分が間違っていたのかもしれない。悪役を追い詰めるために、何を犠牲にしても構わないかのようなハリウッド製アクション映画のように、この映画の登場人物の楽しさのためには何を犠牲にしても構わないのだ。そうでなくては、娯楽映画を作ることなどできないし、その前提を受け入れなければ、娯楽映画を楽しむことはできない。この映画は007が男性にとって都合のよい主人公であるのと同様に、年寄りたちにとって都合のよい主人公を描き出している。

 年寄りを主人公にした映画を前にして、私たちの中にその下地があるのかは疑問の残るところではある。私にはその下地がなかったようだ。いろいろと考えあぐねてしまった。しかし、そのことに気づかせてくれたことはこの映画に感謝しなくてはならないだろう。分かっていることを再確認させてくれたり、自分の尺度で批評したりするのも映画の楽しみの一つであるとともに、自分自身がどういう存在なのかを再発見させてくれるのもまた映画の楽しみの一つであるわけだから。

(2004,5,30)