スパイダーマン2(2004・米)

 「1」も見ていたのだが、忘れていた。あのスパイダースーツは、手作りだったのだ。どんな素材を使っているのかは分からないが、この映画を見て情報が1つ入った。それは、色落ちする素材を使っているということだ。色落ち。自分で洗濯をする人であれば、だれでも1度は経験をする失敗だ。洗濯機(映画ではコインランドリー)の蓋を開けた後に気づく異変。一瞬、何が起こったのか分からないが、すぐに思い当たる。「あぁ、あれか・・・」。この脱力感ったら、ない。ポケットに入れたままのティッシュも一緒に洗濯してしまっていたら、脱力感は倍増である。「人々を救う?その前に、とりあえずスパイダースーツの赤と青の色がついてしまったシャツを何とかしなきゃ・・・」である。

 「1」も見ていたのだが、忘れていた。メアリー・ジェーンは、ピーターに愛を打ち明けていたのだ。ピーターはそれを拒絶する。自分はスパイダーマンなのだから。自分はもはや、自分の欲望に従って生きていくことはできないのだから。でも、やっぱりメアリー・ジェーンのことは忘れられない。自ら言ったように、「友達として」付き合おうとしても、「男女間に友情は存在しない」という「恋人たちの予感」的法則によって、うまくいかない。やっぱり好きなものは好きなのだ。そんな葛藤に悩まされて、ピーターは仕事にも支障をきたす。「もうダメだ。こんな仕事はやめて、メアリー・ジェーンとうまくやれる責任の軽い仕事をしよう」と、スパイダーマンを廃業することを決意する。しかし、運命のいたずらは、ピーターがそんな決意をしたことが引き金であるかのように、メアリー・ジェーンの心を新しい恋人の方に向ける。ピーターは思う。「やっぱり、俺にはスパイダーマンという仕事しかない」と。しかし、運命のいたずらは、ピーターがそんな決意をしたことが引き金であるかのように、メアリー・ジェーンの心をピーターに戻す。「なんて、こうタイミングが悪いんだろう・・・もう嫌になっちゃう」である。

 と、このように、ひたすらリアルに、そのままに、主人公の悩みは普通に生きる私たちの悩みと共通している。本当に、そのままに。ひねりなど何もない。それが、等身大のヒーローとしてのスパイダーマンを見事に描き出している。原作にどこまで忠実かはわからないが、映画版ではとにかく見事に描き出している。

 トビー・マグワイアが主演している意味は大きいだろう。どこにでもいそうな顔、どこにでもいそうな体格のマグワイアは、この映画のスパイダーマンにぴったりとはまっている。「スパイダースーツを着てしまえば、誰だって同じじゃないか」という声が聞こえてきそうだが、それは違う。少なくとも「2」では違う。

 仕事とプライベートでの間で揺れるピーターは、この映画では(とりあえず)その壁を乗り越える。どう乗り越えるかというと、素顔を晒すことで乗り越えるのだ。今まで、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という、亡き叔父さんの言葉を胸に秘め、「自分には責任があるんだから、がんばらなくちゃ」と自分に言い聞かせてきたピーター。スパイダースーツを着ることで、気持ちをシャキっとさせ、がんばってきたピーター。実は、色落ちするスパイダースーツに悩まされたり、好きな彼女とのすれ違いに悩まされたりしていることなんて、スパイダーマンでいるときは人々に感じさせずにやってきたピーター。

 そんなピーターは、ドク・オックとの戦いで、素顔のまま電車に乗り込み、乗客たちに顔を見られる。今まで、スパイダーマンを「スパイダーマン」としてしか見てきていなかった乗客たちは、おそらくスパイダーマンが裏でいろいろと悩んでいるなんてことは考えもしなかったことだろう。しかし、今目の前にいるスパイダーマンは、「まだ、子供じゃないか!」と乗客に言わせる存在、悩みも多そうなより身近な存在なのだ。そこに現れるドク・オック。スパイダーマンを狙う。乗客たちは、スパイダーマンをかばうように、「俺を倒してから行け」と叫ぶ。その瞬間、ほんとに一瞬なのだが、スパイダーマンと乗客の立場は入れ替わる。ヒーローは乗客で、ヒーローに助けられるのはスパイダーマンになる。おそらく、「スパイダーマン」という存在を前にしては、ヒーローにならなかったであろう乗客たちも、ピーターの素顔を見て、その存在の身近さを知ったからこそ、ヒーローとなったのだ。責任を一身に背負っていたピーターは知るだろう。「大いなる力には、大いなる責任が伴う」のだが、それはすべてを背負うこととは異なるということを。そして、どんな人々もその力に応じた責任があるということを。素顔を晒すことで、ピーターはそのことを知ることができたのだ。

 スパイダーマンはメアリー・ジェーンも素顔を晒したまま救出する。今まで、「スパイダーマン」という「公」と、ピーターという「私」に振りまわされ、メアリー・ジェーンとの関係をどう築いていいのか悩み続けてきたピーター。ついにここに至って、メアリー・ジェーンに自らのすべてをさらけ出すことになる。ピーターの「公」を知ったメアリー・ジェーンは、ピーターの仕事を知り、「行って!」と力強く後押しする。ピーターは自分がスパイダーマンであることを隠すことで陥っていたメアリー・ジェーンとのすれ違いを解消することに成功する。

 素顔を晒すことで、「公私」をどうつけるかで悩んでいたピーターは、ピーター=スパイダーマンというアイデンティティをさらけ出すことで乗り越える。だから、マグワイアが主演している意味が大きいのだ。変身前だけを演じるだけの場合よりも、役者としての実力が問われることになるのだから。

 この映画は、スパイダーマンをサラリーマンに置き換えても十分に存在しえる内容の映画となっている。スパイダーツはスーツとネクタイにして、会社では周りからも頼りにされて、自分でも「やらなきゃ」とがんばっているサラリーマンの物語に。1人暮らしの彼は、休日になると自分で洗濯するが、色落ちするものと一緒に洗濯してしまって、白いYシャツがピンクになって・・・。この映画は、がんばって仕事をしている(と自分では思っている人)人にとっては身につまされる映画になるだろう。そして、ピーターが選んだ選択、自分をさらけ出すという方法は、そんながんばっているサラリーマンの悩みを解決する一助になるのかもしれない。

 この映画は、「スパイダーマン」でもあり、都会を舞台にした仕事をがんばっている一青年の物語でもある。スパイダーマンが糸を高層ビルにうまく引っ掛けて移動するのを見ていると、彼は都会、それも高層ビルが建ち並ぶ大都会でこそ活躍できる存在であることに気づく。

 そして、当然のことなのだが、この映画はスパイダーマンの活躍を活劇としても見事に描いている。何が素晴らしいって、サラリーマンにも置き換えることができるような、公私のバランスを必死に取ろうともがく、仕事をがんばっている等身大の青年の物語であると共に、活劇としてのおもしろさも持っていることだ。

 「1」は、ピーター・バーカーがスパイダーマンを仕事として選択した映画であった。「2」は、スパイダーマンという仕事とピーター・バーカーというプライベートのバランスの取り方を発見した映画であった。「3」はどうなるか。今から楽しみである。