丹下左膳 百万両の壷(2004・日)

 天才とされる山中貞雄には三本の作品しか現存していない。その中の1本で、一番面白い作品と評価されているのが、「丹下左膳 百萬両の壷」である。この映画の元となった作品である。山中貞雄が天才だったのかということは別として、天才とされる映画監督の、その中でももっとも面白いとされる作品をリメイクするのはたいへんな勇気のいることだったろうと思う。プロデューサーとして、この映画を生み出すのに最大の尽力をしたと思われる江戸木純氏は映画評論家でもある。映画評論家として、この映画の日本映画史における位置は十分過ぎるほど認識しているはずだということを考えるとなおさらだ。しかも江戸木氏は、脚本も担当している。すごい。

 江戸木氏には勝算があったのだろうか?おそらくあったのだろう。私が思いつくだけで2つある。1つ目には、この映画の製作が1935年であったということだ。DVDで発売されたばかりのオリジナル作品だが、おそらくオリジナルを見たことのある人は多くない。日本人はあまり昔の日本映画は見ない。例外は黒澤明くらいだろう。見たことのある人が少ない作品のリメイクはほぼオリジナルと変わらない。少なくとも、一般の観客が簡単に比較して、安易に「オリジナルの方がいい」と自己満足のための感想を抱くことはない。また、江戸木氏としては、この映画を製作することによって、昔の日本映画へ日本人の目を向けようという意図もあったかもしれない。それは、意義のあることだろう。何もしなくたって山中貞雄作品よりも多くの人に見られるであろうヒッチコックの「サイコ」を、オリジナルに目を向けてもらうために製作したガス・ヴァン・サントの行為よりも意義があるように思える。

 2つ目には、オリジナルの脚本がよく出来ていることだ。山中貞雄監督版と、今回の作品を見比べると、ラストを除いて、脚本に大きな変更はない。丹下左膳とお藤の掛け合い、丹下左膳とお藤とちょび安が疑似家族を形成していく人情話としての情感、壷をヒッチコックが言うところのマクガフィンとして使ったストーリーテリングの妙・・・こういったオリジナルの完成された脚本をほぼ踏襲する形で脚本は出来あがっている。江戸木氏としては、オリジナルの話それ自体が今でも十分に通じるという自信があったのではないだろうか?オリジナルの脚本は、スクリューボールコメディのようなセリフのやりとりと人情話のハイブリッドを、見事なストーリーテリングが支えた作品といえる。しかも、時代に左右されるような思想的・文化的な部分が希薄である。もし江戸木氏が現在でも通じると読んでいたとしたら、それは正解のように思える。

 出来あがった映画は、やっぱりおもしろい。話がおもしろいのだから、当然である。豊川悦司の丹下左膳は、しゃべり方や動きを大河内傳次郎に近づけれ近づけるほど、不自然に見える。和久井映見はどんなにかんばってもオリジナルの喜代三のナチュラルな江戸娘ぶりには届けない。それでもなお、やっぱりおもしろい。最初は不自然に見えた、豊川丹下も和久井お藤も徐々に親近感が沸いてくる。2人の役者の力量か、それとも脚本のよさがそうさせるのか。おそらく、その両方なのだろう。

 ラストは変更されている。ウェットな側面が強くなっている。「泣ける映画=いい映画」という公式が出来て久しいが、この映画はそんな現在の映画のトレンドに合わせたのかもしれない。仕方がないのかもしれない。だが、この変更によって、オリジナルがもっていたスクリューボールと人情話のハイブリッドの感覚が薄れている。人情話の方に一気に傾斜しているのだ。

 オリジナルの最大の魅力は、スクリューボールと人情話のハイブリッドが生み出す絶妙な距離感にあるように思える。ねっとりしすぎても気持ち悪いし、カサカサしすぎていても寂しい。その中間に位置して、心地よい気持ちにさせてくれるような距離感。この映画のラストはそれを失わせている。それが、江戸木氏の狙いだったのだろうか?そうではないとしたら、この変更は失敗であるように思える。

 メル・ブルックスがエルンスト・ルビッチのオリジナルを踏襲して作った「メル・ブルックスの大脱走」も同じような隘路に陥っていた。こちらは、ラストではなく、オリジナルがさりげなく示していたナチスへの抵抗意識を露骨にしてしまうことで、距離感がずれてしまっていた。その結果、オリジナルの魅力は半減されていた。どちらも、大筋をオリジナルにほぼ従っていたのに関わらず、肝心なところでずれてしまったように思える。

 時代の変化は、様々なところに影響を与える。「大脱走」は、ナチスへの評価が落ちついた頃に作られた作品ゆえに、ナチス=悪の図式を作りやすくなってしまい、隘路に陥った。この作品は、映画のトレンドが「泣ける映画」に移り変わったという変化によって、魅力を半減させた。リメイクの難しさは、何といっても「時代」にある。

 それでも、この映画はおもしろい。それは、やはり脚本がおもしろいからに尽きる。それに、オリジナルを見る日本人が少ないことを考えると、魅力の半減もあまり関係ないのかもしれない。もし見たとしても、豊川悦司や和久井映見は、大河内傳次郎や喜代三よりも間違いなく、現代に生きる私たちにとって、なじみ深い存在であるわけで、それを足し引きすれば、リメイクの方が上に立つかもしれない。ただし、30年後の人がどちらを支持するかは別の問題であるが。
(2004,8,14)