ターミナル(2004・米)

 この映画の原案にはアンドリュー・ニコルの名前がある。彼の名前を聞いてピンと来る人はあまり多くないだろう。「ガタカ」「シモーヌ」「トゥルーマン・ショー」の脚本(前2本は監督も)を担当した人物である。挙げた3本に共通するものは何かというと、「管理」だ。「ガタカ」は遺伝子の優劣によって人類が分類された未来の物語だし、「シモーヌ」はコンピュータによって管理さえた完璧なCG女優を生み出したプロデューサーの物語だ。「トゥルーマン・ショー」はその典型で、主人公はテレビ番組のために作られた街で(そうとは知らずに)生活し、人生はすべてテレビカメラに収められて放映されている。

 見る前は、「ターミナル」とアンドリュー・ニコルの間に関連性を見出す事ができなかった。だが、見ていくうちに、徐々にアンドリュー・ニコルの匂いが感じられた。私が感じ取ったアンドリュー・ニコルの匂いと、それをスピルバーグがどう料理したのかを考えてみたい。

 舞台は空港だ。トム・ハンクス演じる主人公は、空港の国際線の待合ロビーから出る事ができなくなる。彼は「このロビーの中では自由だ」と言われるが、ロビーから出られないという意味でまったく自由ではないことがギャグともなっている。だが、笑い事ではなく、彼はとんでもなく不自由な世界へと放り出される。そんな主人公はカメラで監視されている。閉ざされた世界の中で生き、カメラによって監視されている。「トゥルーマン・ショー」にそっくりだ。

 物語はまるで、カメラに撮られ、見られることを意識しているかのように順序良く進んでいく。ロールプレイングゲームをこなしていくように、主人公は空港の中で小銭を集める術を覚えることから始め、仲間を増やし、与えられた任務をこなしていく。要所要所に主人公が利用すべきものが置かれており、主人公はそれを使って生きる方法を見つけていく。キャサリン=ゼタ・ジョーンズとの出会いと別れも、アメリカ人女性との付き合いを覚えるための任務に見える。もちろん、「ターミナル」は映画だ。作り物で、脚本があって映画が撮られていくのだから、計算されていてしかるべきものだ。だが、それでも、この「任務遂行=レベルアップ」的に進む展開は、あまりにスムーズ過ぎるように感じられた。主人公の英語が徐々に上達していくのが、あたかも物語が進み、主人公が経験を積みレベルアップしていることの証明のように見える。

 旧ソ連邦の一部だった東ヨーロッパの小国からやってきたという主人公は、アメリカには一歩も踏み出す事は出来ず、空港という中間地点で、カメラで監視されながら経験だけを積んでいく。中間地点とはいえ、英語が飛び交い、ショッピングする場所もたくさんあり、何よりもアメリカ人の労働者と触れ合う主人公は、まるでアメリカに入るための予行練習をさせられているかのようだ。英語も話せず、金もなく、知り合いもいない、発音するもの難しい小国からやってきた一人の男が、アメリカに入国するに足る人物となるための予行練習を。

 (結末に触れます)

 そんな主人公の入国の目的が、アメリカを代表する文化の一つであるジャズのミュージシャンにサインをもらいに行く事というのが皮肉だ。彼はアメリカを、少なくともアメリカの文化を愛する人物だったのだ(それが父との約束だったとしても)。アメリカに入国する理由として、これ以上のものはない。「ビジネス」でも「観光」でもなく、アメリカの文化を愛するがゆえにやってきた主人公は、9ヶ月もの間、予行練習を繰り返す事になる。

 では、主人公の9ヶ月は無駄だったのだろうか?決して、そうではないところが、この映画のもう1つの皮肉といえる。主人公は、空港での9ヶ月で、英語を覚え、アメリカでの生き方を覚えた。そのことによって、ミュージシャンにサインをもらいに行くという目的はスムーズに行われる。初めてやってきたときの、主人公と空港職員とのやりとりでは決してそううまくはいかなかったことだろう。

 文字通り監視カメラで管理されながら、主人公は経験を積み、その箱庭的世界から抜け出して、アメリカへ飛び出してもうまくやれるように育っていく。管理される人物いう寓話性や、裏に込められた多くの皮肉にこの映画にはアンドリュー・ニコルの匂いを感じる。しかし、この映画はアンドリュー・ニコルの匂いの部分があまり際立っていない。むしろ、「管理」を感じさせる部分はなるべく排除され、皮肉もなるべく感じさせないように考慮されているかのようだ。

 それは、スピルバーグのせいなのだろうか?スピルバーグの主眼が、全体的な構造(アンドリュー・ニコルの匂いの部分)ではなく、個人の奮闘や触れ合いに置かれていることは確かだろう。スピルバーグ自身が語っている。「人々を笑わせて、泣かせて、人生っていいものだなと思える作品を。にっこりと人々を微笑ませる作品を」作りたかったと(パンフより)。そのために不必要な部分はなるべく見ていて感じないように作られているように思える。

 たとえば、フード・サービスの男性と入国係官の女性との恋が、もっと自由に行えるはずなのに主人公を介してぎくしゃくとすることで成功するのに対して、主人公とスチュワーデスの恋が、もっと主人公が自由であれば(外に出られれば)うまくいったかもしれないという対比を見せて、管理される主人公の苦さを感じさせる事もできたはずだ。また、たとえば、主人公が母国の隣国からやってきた、父への薬を国外に持ち出そうとして止められた男性の通訳をするシーン。主人公はここで男性が薬を持ち出させるように嘘をつく。嘘をついても人助けをすることを主人公の予行練習の成果だとすることもできるし(多くのアメリカ映画では人助けのために嘘をつくことは良い事だ)、管理しているはずの人物に翻弄されるという皮肉(これは多くの現実を指すが、ここでは触れない)を描く事もできるが、人情話として処理されている。

 スピルバーグの主眼が間違っているといいたいわけではない。ただ、スピルバーグが料理する事でそうなったということを言いいたいのだ。スピルバーグの演出はさすがに見事で、手際よくさばかれている。セットで作られたという空港がそれを助けているが、それだってスピルバーグが監督した作品でなければ造られることはなかったという意味で、スピルバーグによるセットという事が出来る。トム・ハンクスの演技も助けているが、それだって同じだ。

 だが、アンドリュー・ニコルの匂いと、スピルバーグの調理法はあまり合っているようには思えない。おいしいのだが、なんだか1つの調味料の匂いが際立ちすぎているような感じなのだ。それが、この映画をスピルバーグが望んだ作品としての完成度には達してはいないが、奥深い意味を持った作品としているように感じられる。寓話とも人情話ともなりきれなかった中途半端な作品といってしまうとそれまでなのだが。

 この作品はアメリカではコメディとして売られ、期待通りの成績を上げることができなかったという。日本では、人情話として売ってヒットした。コメディの部分が「管理されている主人公」を前面に押し出した部分が多々あると考えると、前者がアンドリュー・ニコルの部分で、後者がスピルバーグの部分で売ったとも言える。やはり、スピルバーグの部分の方が、ヒットしやすいという事なのだろうか。
(2005,1,24)