ヴィレッジ(2004・米)

 「21世紀のヒッチコック」と呼ばれることもあるというのが、この映画の監督であるM・ナイト・シャマランである。余談だが、「21世紀のヒッチコック」ということは、「20世紀のヒッチコック」はアルフレッド・ヒッチコックしかいないわけなので、「ヒッチコックの再来」と呼ばれたブライアン・デ・パルマは数からはずされているということになる。まあ、いたしかたないか。それはさておき、M・ナイト・シャマランが「21世紀のヒッチコック」と呼ばれることには違和感があった。それは、シャマランの映画はオチが魅力的な映画であるのに対し、ヒッチコックの映画はサスペンスが魅力の映画だからだ。たとえば、ヒッチコックの「めまい」では、マリオンとジュディが同一人物であることが、中盤で明らかにされる。原作ではラストで明らかにされている、つまりオチであるにも関わらずである。ヒッチコックは途中でネタを割った上で、その後は愛のサスペンスとも呼べる映画に仕上げている。出来は・・・少なくとも私にとっては、最上級のものだった。

 自身が作る映画がヒッチコックの作り映画とは違うタイプであることは、シャマラン監督も自覚している。パンフレットの中のインタビューで、「どんでん返しの名人として名高いアルフレッド・ヒッチコックだって、典型的なツイスト(=オチ)で幕を閉じるのは『サイコ』だけだと思うよ」と語っている。ヒッチコックの映画を見る限り「どんでん返しの名人として名高い」というのも首を傾げさせるのだが、理由はいくつかあると思う。とりあえず思いつくだけで2つ。

 1つ目は、シャマランも語っているが、代表作がラストがどんでん返しの「サイコ」であるということ。そして、2つ目はテレビで放映されていた「ヒッチコック劇場」の影響があるということである。

 「サイコ」についてはいわずもがななので書かない。ここでは「ヒッチコック劇場」について書こう。「ヒッチコック劇場」は1950年代〜60年代にかけてアメリカで放映されたテレビシリーズであり、日本でも放映された。尺は30分(後に1時間)で、ほぼワンアイデアで成立している。サスペンスを重視した作品もあるが、ラストのどんでん返しを魅力とした作品も多い。そのために、ヒッチコック=どんでん返しのイメージが出来たのではないかと思われる。

 テレビシリーズではどんでん返しの話を多く取り上げたヒッチコックだが、映画では「サイコ」以外では取り上げていない。その理由はなにか?それは、単純に時間の問題ではないかと思われる。平均で1時間半〜2時間という映画の上映時間を考えると、オチに至るまで1時間半以上をかけるというのは、非常にリスクの高いことなのだ。何といっても、飽きる。30分なら途中がつまらなくとも、オチがよければ楽しめるが、1時間半の退屈を耐えられるようには人間は出来ていない。だから、ヒッチコックはオチの映画ではなく、サスペンスの映画を作りつづけたのだろう。

 シャマランの話なのに、ヒッチコックについて長々と書いたのは、「ヒッチコックと比べて、シャマランは映画をわかっていない」なんていう説教じみたことを言いたいからではない。自分が映画についてわからないことだらけなのに、そんなことはいえるわけがない。言いたいのは、シャマランはヒッチコックですら避けたオチの映画を撮り続けているということだ。

 「シックス・センス」より「アンブレイカブル」は魅力をオチに頼っていない作品といえるだろう。「サイン」にはオチはなかったが、シャマラン作品というブランドと映画全体の雰囲気がオチを予感させ、映画の背後には常にオチが付きまとっていたという意味でオチの映画だったといえる。だが、さすがにオチに頼ることには無理が出てきたかと思わせたところでの「ヴィレッジ」は再び、「シックス・センス」並みに、オチが魅力の映画となっていた。

 実際にはオチがなかった「サイン」を除いて、「シックス・センス」「アンブレイカブル」「ヴィレッジ」を並べて見ると、気づくことがある。「シックス・センス」がホラー、「アンブレイカブル」がヒーローもの、「ヴィレッジ」が19世紀の人間ドラマと、オチが魅力とは思えないジャンルで縁取りされているということだ。オチが魅力というと、犯人探しの探偵ものが真っ先に浮かぶが、これらの作品のどれにも当てはまらない。

 ヒッチコックですら「サイコ」の1本だけであったオチの映画を、これまで3本も撮ってきたシャマランの秘密はここにある。さまざまなジャンルの利用である。シャマランはそこに必ず人間ドラマを付け加える。「シックス・センス」は少年の自立の話、「アンブレイカブル」は中年の男がヒーローとしての自分を受け入れる話、「ヴィレッジ」では愛する人を守る話。オチだけであれば、30分で終わる話をシャマランはこうして1時間半以上の「映画」として成立させているのだ。

 秘密は内容だけではない。シャマランの演出にもある。シャマランのこれみよがしの演出は時間を引き延ばす。「何かある」という雰囲気や観客の想像を盛り上げるために、シャマランはドラマには不要なオチのためのシーンを積み重ねる。この映画では、森と村の境界にある切り株の上に立って何分我慢できるかを競うゲームがその代表例。ウィリアム・ハートはシガーニー・ウィーバーの登場するシーンなどは、その存在感だけで「何かある」感じを醸し出す。

 映画に没頭ができ、雰囲気を楽しめる人にとっては、このシャマランの演出は問題にはならない。だが、シャマランの演出はヒッチコック映画のサスペンスとは異なる。シーンの単位でサスペンスを高めるヒッチコックの演出は、サスペンス・シーンごとに観客は濃密な緊張感を抱くことになる。だが、シャマランの場合は、映画全体を緩く包むサスペンスいえばよいだろうか。オチをオチとするためのサスペンスであって、シーンごとに緊張感を観客に与える演出ではない。だから、雰囲気を楽しめない人にとっては退屈な映画となることだろう。これは、映画に向かう姿勢の問題でもあるので、どちらがよいとか悪いとかいう問題ではない。ただ、シャマランもそこは理解しているのか、サスペンスではなくサプライズを用意しているシーンが挟まってくる。後ろから「ワッ!!」と驚かされるようなシーンのことだ。

 人間ドラマとオチ。この2つはこれまで相容れる要素ではなかった。なぜならば、人間ドラマは観客に深く考えさせるものであり、観客への情報提供が前提となっているのに対し、オチは観客への情報提供を限定することで成り立つものだからだ。再度ヒッチコックの「めまい」を引用すると、マリオンとジュディが同一人物であることが観客にいち早く伝えられるため、ジェームズ・スチュアート演じる主人公の思いとマリオン=ジュディのやり取りが人間ドラマとして(それは変態チックではあるものの)観客に伝わってくるという仕掛けになっている。

 シャマランはオチを武器にすることで「上映時間」という問題と格闘している。その一方で、「人間ドラマ」とも格闘することとなった。その格闘の最新の結果報告が「ヴィレッジ」と言えるだろう。解決するための手法は変わっていない。人間ドラマとの格闘は苦闘している。「シックス・センス」や「アンブレイカブル」といった作品が、特別な人間の人間ドラマだったのに対し、今回の作品は盲目とはいえ、我々の常識の範囲内の人間であるために、その薄っぺらさが気にかかる。

 シャマランのオチに向かっての映画作りの腕前は確かだ。その雰囲気作りは一級品だし、話術はフェアだ。そのことはすでに「シックス・センス」で完成されていたことだし、私たちも知っている。特別な人間のドラマとオチの融合は「アンブレイカブル」で一つの頂点を迎えた。その後、「サイン」でオチを意識させておいて、人間ドラマに重きを置いた作品を様々なジャンルを混合させてやりたい放題に作って見せたシャマランは、「ヴィレッジ」で再びオチと人間ドラマ、しかも今までより普通の人々の人間ドラマを作ろうとした。この作品は、「特別な人間」を「普通の人間」に置き換えた、今までのシャマラン映画の延長線上にある映画だ。シャマランの挑戦は続いている。ヒッチコックがサスペンスと人間ドラマを融合させた傑作「めまい」を撮ったように、シャマランがオチと人間ドラマを融合させた傑作をいつの日にか撮ってくれることを期待している。いま、そんなことを期待できる監督はシャマラン以外にはいないのだから。
(2004,10,11)