宇宙戦争(2005・米)

 「プライベート・ライアン」でアカデミー監督賞を受賞した際に、スピルバーグはオスカーを見つめ、次のようにスピーチした。「これが欲しかったんだ」と。思えば、「プライベート・ライアン」までのスピルバーグの作品は、「映画史に1ページを残してやる!」という勢いが感じられた。それは、スピルバーグの監督作を見る私の側がスピルバーグの監督作を見る際のスタンスでもあった。「ジュラシック・パーク」や「シンドラーのリスト」を見に行くとき、それは何か特別な「事件」を見に行くような気持ちだった。

 それが、変わったのは「A.I.」からだろう。キューブリックが遺作として撮影しようとしていた企画を引き継いだ「A.I.」は、スピルバーグの作品であると共に、キューブリックの作品でもあった。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は、スピルバーグの作品であると共に、ディカプリオとトム・ハンクスの作品であった。「マイノリティ・リポート」はトム・クルーズの作品でもあった。「ターミナル」はトム・ハンクスの作品でもあった。まるでスピルバーグが作品の責任のすべてを背負って、映画史に1ページを残すべく作られたかのような感覚は失われていった。

 思えば、スピルバーグの作品にスーパースターは必要なかった。スピルバーグがスーパースターだったからだ。「インディ・ジョーンズ」のシリーズでは、確かにスーパースターのハリソン・フォードが主演していたが、1作目の「レイダース」の時のフォードは、「宇宙戦争」のトム・クルーズのような名実ともに認められたスーパースターではなかった。そして、何よりも「魔宮の伝説」も「最後の聖戦」も、フォードの映画ではなく、スピルバーグの映画であった。

 「宇宙戦争」では、スピルバーグの影は薄い。あれほど異星人に対して友好的な眼差しを向けていたスピルバーグの特徴は、この作品には影も形もない。異星人は問答無用で人類を根絶やしにしようとする。その凄まじい異星人たちの攻撃の前に、トム・クルーズはひたすら逃げる。凄まじい攻撃の様子は、一見の価値がある。スピルバーグの演出は、そんじょそこらの監督たちが足元に及ばないくらいうまい。しかし、それでも何らかの違和感を感じるのはなぜだろうか?

 それはもう普通だからという点に尽きるのだ。宇宙人からの問答無用の攻撃は、私たちは「インデペンデンス・デイ」で見ている。第一、この作品自体が50年以上前の作品のリメイクだ。ビジュアル的にグレードアップし、スピルバーグの演出によって見応えたっぷりになっているとしても、それはどこかスピルバーグの作品と呼ぶには抵抗のある何かがある。

 スピルバーグ映画の主題としてよく取り上げられる「家族」。「E.T.」や「未知との遭遇」、「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」で描かれた家族は、両親と子供が揃った家族を描いた作品ではなかった。家族がうまく機能しないがゆえに、登場人物たちは宇宙や異星人に惹かれたり、冒険に駆り立てられたりしていた。それは、うまく機能しない家族に対して、機能を回復することができない弱者たちが、家族とは別に生きていくための何かを見つけ、それに惹かれたり、駆りたてられたりする物語でもあった。「宇宙戦争」でも、家族はうまく機能していない。しかし、主人公は、機能しない家族の責任者たる父親だ。この映画の物語は、機能しない家族に対していかんともしがたい弱者ではなく、取り戻すことができる強者の側なのだ。トム・クルーズは、異星人の襲撃という危機に遭遇し、それに対処していく事によって、子供たちの信頼を取り戻していくことができる。

 これもまた、普通なのだ。スピルバーグが多くの子供を持ち、大人になったからだと見ることもできるだろう。確かにそうなのかもしれない。しかし、私たちを魅了してきたスピルバーグは、弱者を描いてきたスピルバーグなのだ。スピルバーグの演出の見事なことは、言うまでもない。だが、「プライベート・ライアン」を境にして、スピルバーグの演出は見事なだけにとどまっているように思える。出来上がった作品は、もちろん主題の面でもおもしろいものも多々あるが、それはスピルバーグの意図したものとは異なっているように思える。かつてのスピルバーグの作品が、演出でも主題でも「映画史に1ページを残してやる!」という勢いに満ち、演出も主題もその勢いに沿ったものであったことを考えると、何だかさみしいものがある。

 「プライベート・ライアン」はその意味で、象徴的な作品であるといえるかもしれない。冒頭のオマハビーチの戦闘シーンの圧倒的な迫力は、スピルバーグ以外では撮影できないと思わせるものであったし、そのシーンだけですでに主題ですらあった(この映画ほど、戦場へは行きたくないと思った作品はなかった)。しかし、オマハビーチ以後は、演出の面で見所は多々あったものの、そのストーリーはどこかで聞いたことがあるようなものであり、最後は英雄の物語の様相を呈していた。この作品を見たとき、スピルバーグに対する感嘆の念と違和感を同時に感じたのだが、それがどういうことなのかが、7年の時を経た今はわかるような気がする。スピルバーグはすでに主題の面で、あまりにも「普通」になっていたのだ。

 私の世代はスピルバーグの映画が「映画」であった世代だ。だから、スピルバーグにこだわりすぎているのかもしれない。スピルバーグから離れて見ると、この作品の迫力は十分楽しめるものであることは確かだ。それでもなお、スピルバーグ作品に感じていた興奮はこんなものではなかったという気持ちが私をこの作品に否定的な気持ちにさせる。こういう見方はよくないのかもしれない。ただ、それくらいにスピルバーグは特別な監督であった事を、私はいやがうえにも再確認させられた。そしてまた、映画は演出だけではなく、主題も重要なのだということを再確認させられた。
(2005,8,20)