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政治学を「臨床」という嚮導概念を用いて架橋 |
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「臨床政治学」(clinical politics)という言葉は、何を意味しているのだろうか。読者の多くは、「臨床」という医学用語が無造作に「政治学」に連結されていることに、戸惑いを覚えるかもしれない。しかし、既成観念にとらわれず素直にこの言葉を見つめれば、「可能性を実現するための技術(アート)」としての政治学が、結局は「臨床的」でなければならないことは自ずから明らかになる。試しに、「臨床」(clinic)という言葉を
Webster Interactional Dictionary で調べると、次のように定義されている。
Clinic :a class,sesson,group meeting devoted to the presentation,analysis,and
treatment or solution of actual cases and concrete problems in some special
fields or discipline.
この定義にも見られるように、"Clinic"という用語は、必ずしも医学用語というわけではない。この言葉の核心は、「実際に起こった事柄や現実に存在する問題を報告・分析し、またそれらを処理あるいは解決する」ことにある。このことからも分かるように、政治学は本来、「臨床的」でなければならない。
日本では医学用語として通っている「臨床」という用語を、岡野先生が敢えて政治学に連結した理由は、まさにこの点であったのではないかと思っている。(中略)
政治が作動する仕組(制度)を徹底的に研究すること。その中で生じる様々な政治現象を、一次資料(できれば現場にいて)を通じて、具体的にしかも客観的に観察・分析すること。その上で、適切な処方箋を書くこと。この三つの要素が、創造性に富んだ政治学の確立には欠かせない。こうした観点から、岡野先生は、マスコミの「現場主義」と、現実から遊離しがちなアカデミックな世界の「客観主義」との間を、「臨床」という嚮導概念を用いて架橋しようとした数少ない研究者だと考えられる。
(「比較政治学とデモクラシーの限界」大六野明大教授あとがきより) |
■毎日新聞 2000/5/19 朝刊
政治学者の岡野加穂留さんが「臨床政治学」を提唱している。臨床医学や臨床心理学なら前からあるが、臨床政治学というのは、寡聞にしてまだ聞いたことがない。
「欧米・オセアニア・東南アジア諸国の政治文化の比較研究の中で痛感した事があります。それは、ジャーナリストの取材方法でもなく、学者・研究者のそれでもないものとして、臨床政治学と言う未知の分野の開拓と確立の必要性を認識した事です」とお手紙にある。
手紙の肩書は「明治大学名誉教授・元学長・臨床政治学者」。(2000年)3月に定年退職した岡野さんは、自由な時間を駆使して、マスコミとアカデミズムの懸け橋となる臨床政治の構築に励むそうだ。明治大学の「政経論叢(ろんそう)」に、岡野さんの「『臨床政治』学の覚書」が載っている。
その中で岡野さんは「デモクラシーは、それが正しい反省と本質的にその問題について討論することなしに導入したところでは、どこでも傷ついてしまっていることをよく認識しておくこと」というH・ティングステンの言葉を引いている。
政治学でも「正しい反省」と「本質的討論」が不可欠で、それがないと疑似権威に追従する危険があると岡野さんは述べている。いまの日本の政治もまったくその通りだ。自民党に「正しい反省」と「本質的討論」が欠如しているから、民主主義は傷ついてしまった。チミモウリョウに担がれて、疑似権威がうろついている。
臨床検査では「医師は患者の訴えを聞き、病気があるのかどうか、あるとすればどの臓器が侵されたか、なにが原因で、現在どの程度に悪いのかを知るために診察をし、尿をとる」(平凡社「世界大百科事典」)。臨床政治学も検査しなければならないが、この患者は「どこも悪くない。食欲は極めておう盛、体力はスポーツ選手並み」と威張っている。
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