少女時代〜もうひとつの裏の顔〜
不幸なことばかりではなかった
このページには私の辛かった少女時代やその後が沢山摺られている。今だからこれから述べることをかけるのかもしれない。休みの日でも片時も学校での自分の不安を忘れることのないまま家で遊んだり、夏休みに入ると8月にもなれば学校までの日にちをカウントダウンし出す私だったが、それらのことを全て除いてある意味恵まれていた私もいたことを。
幸せな子供の一人だと思っていた。
母は私に無形、有形いろいろなものを残してくれた。とくに私の環境に対する意識や、美意識、何がなくても遊べる想像力豊かな女の子に育ったこと、ボランティア精神旺盛な母、インターナショナルな母、差別や偏見、弱いものをいじめること、人の道をそれることなどが許されないこと、世の中には恵まれない人達が沢山いることなど、いろいろなメッセージを送ってくれた。もし母が今でも生きていたらパートに出ずに、ボランティアをしていたと思う。
私はおさなごころに、ユニセフの報道で丸裸であばら骨が見えてお腹だけぷっくり出ている飢えた子供達が出ている映像を何回も見せられたのを覚えている。だから、お米の一粒を残すことも、お百姓さんが丹精こめて一生懸命育てたものだから許されなかった。お米を育てるのはとても手がかかることだと教えられたのを覚えている。
私には父がいて、母はそのころは当たり前だった専業主婦で、傍ら、家で英語教室を開いていた時期もあったり、私が小さい時綺麗なものが大好きで、ピアノやバレエなどの習い事を自発的にやりたいといったものをやらせて貰えていたし、母の英語教室に父親が払う授業料で習わせていてくれたこと、母方の祖父が季節のイベントごとに毎年、私と妹に抱えきれないほどの美しいお土産をもって着てくれたこと、その祖父は日曜画家で、ニ科展の史上最年少で入選した会員で、新築祝いに家に二枚の油絵が物心つくころには飾ってあって、いつもそれを眺めていたこと、そしていつもベレー帽にループタイととてもおしゃれだったこと、会社勤めをしていた母方の同居の祖母と休みの日はデパートめぐりをしたり、美術館へいったり、器用で、絵をかいている祖母の背後で真似して私もデッサンをしたり、そういった環境に恵まれていたことなどから私は恵まれた女の子の中の一人だとずっと思っていた。
小学生の後半にもなると、私は、長女であるにもかかわらず、お下がりを着せられていたことをよく覚えているし、母にはおもちゃなどごく特別な時しか買ってもらえず、人形の洋服も自分で縫ったり、サリーのように、ハンカチを巻きつけて着せてみたりして創意工夫をして遊んでいたが、私は長女だったからか、物心つくころまでは今アルバムをめくれば結構おしゃれをさせられていたことを思い出す。
特に、お誕生日やクリスマスは渋い黒地の赤や黄色の花柄のベルベットのタックやフリルのついたロングドレスを着せられ、そんな姿で縄跳びをしていたり、ごく小さい時、中にボアが張ってある一見母親とおそろいの茶色いブーツを冬は履かされていて、おにんぎょさんみたいで嬉しかったこと、コートはカラシ色で兎の毛皮のボンボンが後についていたとても素敵な女のこらしい、知り合いからの手作りのコートがとても気に入っていたこと、張り地が全部、紙風船のように色が違う傘を持っていて風に飛ばされてしまったこと、幼稚園に入ると、近所の、上に兄弟がいて少し大人びた友達が持っていたサーモンピンクの傘や、朝紅茶を飲んできたといっていたのがうらやましかったこと、もっと年があがると、日曜日の朝は母は少し朝寝坊をして、必ず兼高薫世界の旅を見ながら、少し高級な菓子パンを食べ、それぞれがお決まりのカップで家でひいたコーヒーを入れて過ごしていたのが恒例だったこと、小学校の入学式には、その当時は良さがわからず地味で好きではなかったけれど、グレーの、母が永遠の憧れだったジバンシーのワンピースを母の趣味で着せられたこと、洋服は、ファミリア、ピノキオなどの有名なものも着ていたこと、お正月には毎年、中学生まで着物を着るのが恒例だったこと、(中学のころになると、振袖は卒業し、戦争の時も疎開させていたという凝った手書きの友禅の正絹の上等な長じゅばんを着物としてきていて、特に黒地に花柄のがモダンでお気に入りだった。)リゾートクラブに入っていて、毎年旅行へいったことなど。
お正月や旅行へ行くときはいつも地味な母もおめかしをして機嫌がよかったり、きているものも独身時代買った馬里邑や伊太利屋といった、高いブティックの水色の、男の子がアイスホッケーをしている珍しい絵柄のプリントのワンピースを着たり、飾らない母親の欠かさなかったものは上質の銀の独身時代からの母の育ての大おば様が昔おかみをつとめていた今でも皇室御用達の銀座天賞堂の華奢な腕時計が上品さをかもし出し、子供のころはYAMAHAの黒塗りのぴかぴかのピアノに憧れていたが、後から値打ちがわかった独身時代母が買った鍵盤の重い象牙の鍵盤でマホガニーで凝った彫刻も施されている中古の外国製のピアノ、唐草のレリーフの私のおじの務めている地金屋、「徳力」の結婚指輪や、銀の、ハートがたの香水ペンダント、(発想が素敵。香水を染み込ませるの)母の大好きな画家、イタリア製のビアズリーのプレート、幼稚園のバザーで買った母の好きだったジバンシーのケーキ用のおさら、新婚時代に買ったノリタケのカップシリーズ、母がいつかかった花篭を持っている籠の取っ手がポットの取ってになっている凝った、水色のドレスの女の人の形をしたティーポット、まるで編んであるようで、お花のついた籠のような優美な陶器のお菓子入れ、美しいティースプーン入れ、 今はどこへいったのかわからなくなってしまった母の、なにかの記念に貰った和光の、阿古屋貝にレリーフを施してあるとても素敵なコンパクト、母方の祖父からの結婚祝のゴブラン織りの椅子の素敵なドレッサー(母は使ってなかったけど)、カーテンを止めてあった素敵な葡萄のモチーフのビーズのカーテンタッセル(私が壊した)、ガラスの馬の置物(これも母が気に入ってたのに私が弄くり壊してかなり怒られた)、男の子が犬と戯れている置物、母のビーズの優美なかみどめ、シフォンのリボン、スカーフ、結婚祝に貰った素晴らしいレース編みのテーブルクロス、どこから入手したのか、古くから家にあった皇族の菊の家紋が入っている高級なシーツをテーブルクロスに使ったり、母が時々見せてくれた宝石箱の中身・・・それは今は二つ行方不明・・・ひとつは私が15の時に譲り受けた指からはみ出るぐらいの天賞堂のルビーの指輪(私で三代目)、旦那がくれたという、本当はブローチだった天賞堂のダイアが無数にちりばめられてある帯留め、今も健在の、大きなオパールの帯留め、特別あつらえの翡翠のセミの懐中時計用アクセサリー、サファイアのルース、(妹の誕生石なので将来妹にこれで指輪をあつらえてあげたいといっていた)などを始め、母に目を養うためのクイズを出された、どっちがガラスだまでどっちが水晶か?のネックレスや、黒曜石の綺麗なネックレス、べネチアングラスのネックレス、今は手に入らない象牙のアクセサリー、美しいポーチに入ったオペラグラス、大おばさまのしていたさんごのかんざし、べっ甲の曲げがけ、べっ甲のくし、かんざし数々、しかも代え紋の「ツタ」が掘り込まれているもの、「けし」といわれるほどちいさい真珠がずらっと縁取っているもの、高級品ばかりだった。
そのほかに母のとても愛していたものはいわさきちひろの絵だった。いたるところにいわさきちひろの絵葉書を飾った額があったこと、いわさきちひろの絵がついた便箋、ハンカチ、Tシャツがあったことを覚えている。
母の口癖は、「私は絵をかいたり、楽器を演奏したりする才能はないけれど小さいころから本物を見て育っているから何がよくて何が悪いかはよくわかるのよ。といって、私の絵やピアノを味があると誉めてくれた。それから、小さいときはその意味や価値をわからなかったが、今となっては素敵なことだったんだなと幼かった私に、お誕生日などには必ずアクセサリー(本物)をおくってくれた。
10歳のお誕生日に盛大なお誕生パーティーを開いて従兄弟も呼んでやってくれたときは、母が私が寝ているうちにやっていたという、「騙し絵」の、王様のモチーフの、デコパージュをした私が好きだったピンク色に塗ったオルゴールつき宝石箱をその不器用な手で作ってくれた。夜中こっそり買いにいったという、中にはちゃんと鏡も張ってあった。その中には、母が子供時代、大阪のおじからドイツへ出張した時のお土産としてもらった、ドイツのカメオの学校の学生が作ったものをうっていたという貝殻の渋いカメオのブローチ・ペンダントが入っていた。
こうやって毎年アクセサリーがおくられ、私のイニシャルにまつわる花文字のペンダントや、星座のモチーフを水晶に裏から立体的に彫ってあるなかなかないデザインのペンダント、父方の祖母がおじの伝で徳力で買った目隠しをしている女神がモチーフのインゴットを、「幸せは目に見えないもの「〜フォーチュン〜=私の名前」にまつわるもの」や、小学校二年生の時、クリスマス、サンタクロースに枕もとのかみにお願いした「魔法が使えるハートのペンダントを下さい」・・・翌朝、見覚えのある字で私の名前がひらがなで裏に掘られていた銀のハートのロケットペンダント・・そのときはがっかりしたが、素敵なもので、私のファースト・アクセサリーだった。
今みたいにフリマなんてないころ、「バザー」とか、「ガレージセール」と呼ばれていたころ300円ぐらいで買ってくれた本物の銀のしゃれたペンダント、それはハート、いかり、十字架が三つくっついた銀のペンダントヘッドに母の手持ちのチェーンをつけてくれた。ほかにも母の持ち物を今見るととても素敵なものがある。螺鈿のピルケース、素晴らしいレリーフが施してある銀?のアトマイザイザー、ゴブラン織りの、ミレーの落穂拾いのモチーフのがま口ポーチ、昔母がラジオ入れとして使っていた皮の丸いポシェット、今はなき、昔脱衣所にかかっていた「マリメッコ」の布で母が作ったカーテン、私の父からおくられたというモンブランの万年筆、カメオのときと一緒にくれたらしいドイツの、ナポレオンも愛用していたといわれる超ロングセラーの凄い香りのする香水、そして、TOSCA,母が独身時代、写真にうつっている時に来ていた服、とくに「エスカルゴ」といわれる技法で作っているパフスリーブのワンピース、ウコン色のチェックのコート、ニットのスカート、ベスト、パンタロン、私が生まれたとき、祖母が作ってくれた水色のひよこのモチーフのアフガン編みのおくるみ・・・。そして毎日泣きながら通い通した厳しいカトリックの幼稚園で唯一好きだった救いだったものは先生のお御堂に行くときに持っていく普段は引き出しに入っている美しいロザリオ、お御堂のステンドグラスやシスターの弾くチャーチオルガンのBGMの旋律や、真っ白なマリア様の像や建物の天使のレリーフが美しい幼稚園の建物のあれこれや、近所の憧れのお姉さんと夏服がまるでおそろいだったような制服、一年に1度神父様からいただいたメダイオを、園長先生から紐をはずしチェーンをつけてもらいなさいとおっしゃられた、女のこは赤、男のこは青の七宝のマリア様のメダイオのこと・・・。
昔の母はとても地味だけど素敵な格好をしていたが弟が生まれてから英語教室も止め、着る服も生活も所帯じみてしまったことが私のとても残念なことだった。妹と二人のときは私と妹がおそろいの服を着て、たまに行く、駅ビルのブティックで私が母に選んであげて素敵なワンピースを買わせたことも。そして帰りにはお食事。結婚するまで包丁を持ったこともなかった母、和食は父方の祖母の右に出るものはいないが、洋食は下手なレストランへいくよりもよほどおいしい。それでも小さなころは毎週のように土曜日、当時は珍しかったデニーズへいっていたが、「世の中には食べられない人達もいるのだから、いつもこんな外食するのはやめましょう。」などといって、三井の益田家でお行儀見習をした大おばさま直伝のペシャメルソースを使ったグラタンやシチューを作ってくれた。
ピアノのレッスンからかじかんだ手で帰ってくると家から美味しそうなシチューの匂いが漂ってくることも私の中で自慢だった。そして、母が英語教師を開いてることと、よくパーティーをやって母の手料理はとても豪華でおしゃれで特にミートローフやオードブル、母の作るデコレーションケーキ、パウンドケーキ、アイスボックスクッキーは大好物であり自慢であった。
あるお正月浅草まで車で初詣に行った途中、浅草ビューホテルのふかふかの絨毯が敷き詰めてある高級イタリアンレストランでラザニアを食べた。ジュースも目の前で絞ってくれた。こういう優雅なことが大好きだった私に母がレストランごっこをやってくれたのを覚えている。(小さいときはハンバーグも鉄のお皿の上に乗っていたのを覚えている。)マナーを覚えるのにもいい機会だったからだろう。新物好きの母は豊かなころはしゃれた外国のものをよく買いこんできた。バナナ・ヌガー、アップルサイダー、香りのするドロップのようなカラフルなロウ、いろいろ・・。英語教室を経営するための研修で青山の方へいった時など。それから、バザーで買ってくれた素敵な繊細な花模様の刺繍のついた白いレースのネグリジェや、兎の毛皮のついた素敵なミカレディーの子供用オーバーコートも嬉しかった。母は独身時代の着るものを殆ど処分してしまったがミカレディーのジャンパースカートとか、今でも取っておいてくれればよかったのにと思う。母は、恵まれない人のために、よくマザーランド・アカデミーというところへ着なくなった洋服を送っていた。そして、毎年、クリスマスにはユニセフのクリスマスカードを沢山かっていた。
それから、幼稚園を卒業し、制服がなくなり、小学校になると、学期末や、新学期になるといつも、新しい服を着せられ、ある日なんて、黒は幼稚園ではきなれてたからいいが、ぶりぶりな赤いエナメルのストラップシューズをはかされ物凄く恥ずかしい思いをしたのを覚えてる。上級生にもげたばこを見て、「これ誰のだ?」と騒ぎになり、かえるときはいて帰ったらずっと付きまとわれ虐められた日々が続いた。
たんすを開けるといつも石鹸の匂いがした。これは母が香りのいい石鹸をいつも必ず、たんすの一段一段に忍ばせておいたからであって、いつもいい香りのした洋服を着て学校へいったのを覚えている。母の匂いは石鹸の香りもしたが、よくにんにくをふんだんに使った料理をしたので指先はにんにくの香りが染み付いていた。でもその香りが好きだった。
母は、英語のサークルとか、友達同志の集りがあると、よく、アイスボックスクッキー(私はよく、ワン・パターンクッキーとよんでいた。母は、(平野レミや聡明な女は料理がうまいという、桐島かれんの母親の本が好きでイタリアンが得意だった。)や、友達から習ったレア、ヨーグルト・ケーキや、アメリカ人の友達から教わったバナナブレッド、タコスサラダ、サークル仲間から教わったチキン&セサミのキッシュなんかを持っていった。
心の肥やし
母にあそんで貰った記憶は殆どない。でも、どんぐりや落ち葉を拾ったこと、小さい時、寝る前かなんかに、よく絵本や童話を読み聞かしてくれたことは覚えている。この時の母は、登場人物の声を微妙に使い分けていた。大好きだったほんはぐりとぐら、ピーターラビット、メアリーポピンズ・・・。そして、グリム童話やアンデルセン、母がよんでくれるととてもその中に出てくるものが素敵なものに思えた。ある程度の年になるともうよんでくれなくて、自分で読みなさいといわれ、母は本の虫だったので、岩波の100冊なんか当然持っていたので新しく買い与え貰えず、ほこりの匂いと赤茶けた紙、読みにくい旧かなずかいと遠視が、私を本嫌いにした。
母は花をとても大事にしていた。私は母からいつも色んな花の名前を教えた貰って、つつじが咲いたあとは花柄をつみ、庭の手入れをした。花が咲くときりばなにして学校に持っていかされた。強烈な不安を抱えながら幼稚園へ行くとき、庭先に咲いていたパンジーがとてもきれいだったことを覚えている。
ごっこ遊び
私はとても想像力豊かな子供だったように思う。それは母の情操教育や毎日きかせられていたマザーグースや童謡、極力おもちゃは買い与えられなかったこと、美しいものに対する憧れがとても強かったことに関係するだろう。
おままごとなんかでご飯のつもりでティッシュを使おうもんなら厳しくしかられたし、その頃はまだいっぱいあった空き地の中から赤まんまやぺんぺん草、きのみをつんで遊んだり、空想遊びをしたりしていた。私道だったのでろう石で道によく絵もかいたし、白い折り紙を小さく切って真中をねじって蝶の様に飛ばしたり、激怒されたのは、水性のサインペンでうちの玄関のドアの両脇に張られたガラスに色を塗ってステンドグラスのつもりにし、うちの名前を入れて●●教会とかいた時だった。後、ある美容院のシャンプーの香りが気に入りなんとかあの香りが作れないかと石鹸水を作ってフィルムケースに入れ、シャンプーを作ったり、お米のとぎじるとオシロイバナの種の中身の白い粉を混ぜて化粧水を作ったりしていた。そして私は毎日絵を書いていて、毎日ピアノをいじり、音楽を作曲したり、妹を遊び相手にして、一緒に、クリスマスプレゼントとしてもらった大好きな「レミとピアノ」という、ピアノ名曲集のテープに会わせ踊ったり、カーテンの中を部屋にみたて、たまに許可を貰いカーテンの中に小さなテーブルを持ちこみ、妹と二人でご飯を食べたりしていた。また、両祖母の部屋におとまりごっこもよくしたし、(休みになると父方の祖父母の家に滞在し、家ではやらせて貰えなかった、切ったり焼いたりのお料理をやりたいほうだいやらせてくれて楽しく、小さいころから何かと預けられていたが家に帰りたいと思ったことは1度もなく、おばあちゃんちの子になるかといわれると、きまって、「うん」と答えた。父が車で迎えに来ると押入れに隠れぐずった。)それから、家で、夏はよく庭でお昼を食べ、ある日は庭にテントを張ったりとても楽しかった。また、妹と私でお店屋さんごっこをしていらないものを交換し合ったり、たまにそこに母が加わる時もあった。私と妹は一人何役もこなし、色んな人が出てくる高度なごっこ遊びもよくやったし、高校のころは私はご飯も忘れてもの作りに没頭していた。全部身近にある材料で。それから、終末はお茶会をよく妹と二人で開き、お菓子を作った。優雅なことが大好きだった。私の愛読書は赤毛のアンシリーズや、小公女だった。(母は少女小説だと余りよく思っていなかったが)
私の美意識のもと
今の私をたどってみるとみんな母がこよなく愛したものをまた自分の手で似たようなものを探しているように思う。不器用な母が残してくれた妹と色違いのイニシャルの入ったフェルトのティース・ケースのなかに、母が作ってくれたお料理を食べていた私の乳歯が残っているし、母が、お化粧は殆どしなかったが、アクセサリーはどんな状況でもかかさなくて、沢山持っていて、「アクセサリーやベルトを身につけないことは、欧米では、自己を持っていないと同じことなのよ。」といって、ネックレスとイヤリングは欠かさなかったこともよく覚えている。イヤリングをしていた母はとても華やいでみえた。そして本物に触れたこと。中学からは雑誌はオリーブにしなさいと進められ、高校まで愛読し、高校からは母と共有でマリ・クレールなどを見ていたし、たまには母の家庭画報などを見てその広告にうっとりしたりしていた。そして美術館に良くいったこと。幼いころには母がいない隙によく母のドレッサーの引出しからパッケージの綺麗なほう紅や口紅を塗ったくって怒られたのもよく覚えている。母が健在だったころは、私は気恥ずかしくて大人になっても私はアクセサリーなんてつけないなんてのたまっていたのに、今は手に沢山、イタリア人のようにつけている。それでも下品にならないと人に言われるのはやはりあの母のセンスを受け継いで育ったからだろう。
クリエイター・アーティストの道
小さい時、私がなりたかったものは全て、芸術関係の仕事だった。仕事というより、むしろ、芸術の世界。ピアニスト、画家、バレリーナ、オペラ歌手、デザイナー・・・・全て芸術関連のものであった。小学校高学年のころ、図画工作のユニークな先生のお蔭で美術の道へ早くから進むことを決めた。中学一年のころから芸術系の高校の文化祭の見学へいったりした。そこは音楽と美術が両方あり、オペラ研究会がミュージカルをやっていたり、素敵なコンサートが聞けたり、迫力ある芸術作品の秀作が見れた。制服のないその学校へ私は行きたい気持ちでいっぱいだった。結局、目指したのは母方の祖父の血が入っている私らしく、絵の道で、美術系に進むことになった。美術をやっているときはとても幸せだったし、多少の優越感や、うまく表現できなくても自分の世界の中に入れて楽しかった。受験がちずけば、好きなようにはやれなくなって、苦しかったが、その学校に入るためならと頑張った。母にも、好きな事をやりなさい、でも自分で決めた事はどんな事があっても貫き通しなさい。失敗しても誰のせいにもできないのよという母の言葉を受けながらがむしゃらにすすんだ。遅咲きの私は、美大へ入ってから哲学もやりたかったと、学者っていうものも良いものだと思ったり、別の道に進む事も良いものだとちょっと悔しかったが、美大へ入る前は、私には絵しかないと思っていた。語学もやりたかったが、それより絵。勉強もその気になったり予備校へ通えばいくらでも伸びたかもしれないが、独学の時点では同じ分野では勉強で母を抜くことはできないと思った私のライバル心ももしかしてあったのかもしれない。でも、私は独学でかなりの地点までいったので磨いてくれる人の元で磨かれれば、母と同じ道を歩む事も不可能ではなかったと今では思っているが、やはり私の興味は母と同じではなく、芸術だった。小さいころからのすりこみや、父方の祖父母の、私が入ちまい絵を書けば、さすが●●のおじいちゃんのこと、大げさなほどにも誉められたことが自信やおだてれば木に登る状態で子の道に進んだことを手伝わせたのかもしれない。でも私は小さいころから美しいものをこよなく愛し、幼稚園のころ、古典派を見てどうしたらこんなリアルにかけるのだろうと、自らも挑戦したくなったあのころから私の進むべき道はもうきまっていたのかもしれない。
このページに出てきたもの達

母が贈ってくれたアクセサリーたちと神父様からいただいたメダイオ

母が愛でてたもの。べっ甲風のブローチは父方の祖父からおもちゃ的に貰った。

母が夜な夜な作ってくれた10歳の誕生日の宝石箱とドイツのカメオ学校生のカメオ

左は祖母がほっぽらかしてあった国産のオリエンタルの時計をバンドをかえて使ってる手巻き。風合いが良いと思ったら、最近、母がしていた銀の時計を買った場所で、うちにゆかりのある皇室御用達宝石店銀座天賞堂で祖母が買ったものらしい。
右は天賞堂のお紙を勤めていた祖母の叔母が自分の母親宛てに特別あつらえで職人に作らせたもの。いつも形見代わりにダイアの方をしている。20の時に譲り受けた。真珠は風合いが好きだが水仕事が出来ないので大切にしまってある。
15の時に親子三代にわたって譲り受けた大きなルビーの指輪。大きな原石が手に入ったのでさん分割して親しい人に二つはあげたらしい。

これも天賞堂女将現役時代に職人に作らせた翡翠の懐中時計用のアクセサリーと旦那から貰ったオパールの帯留め。
右はダイアが無数ちりばめられた帯留め。戦後家が焼けてお金の価値がなくなって貧乏になったとき旦那に貰った5カラットのダイアを売り、たけのこ生活をしてのこったものはこれぐらい。店員に盗まれたものもあるそうだ。逃げられて後1歩で船に乗りそこね間に合わなかったらしい。

大叔母さまはこのくしで日本髪を結っていたらしい。右はべっ甲やさんご。くし、かんざし、曲げがけ。

上は「けし」と呼ばれる小さな真珠をあしらった贅沢なもの。下の二本はべっ甲で、かえ紋のツタをモチーフにしたもの。みぎもけし。

これもつたの模様が掘ってある。

曲げがけにもかえ紋のツタが。

私の大好きだった着物。着物と言うよりはもともと贅沢な長じゅばん。正絹の手書きの友禅で地味な着物の下にきていたたらしい。私はこれをお正月に中学生のころ毎年きた。物が良いので戦時中疎開までさせたもの。モダン。

画面では見にくいがこれは紫。羽織り。これも手書きの友禅。

これは母が持っていた何かの記念に貰った和光の阿古屋貝のコンパクトにそっくりなものをネットサーフィンでコンパクトコレクションで見つけてきました。何処行ったのだろう?ほかにも中国のきり絵とか、母親の死とともに行方不明になったもの色々。

母がもらったのと同時期に祖母がもらった和光のコンパクト。と、古い香水。

母の形見のドレッサー。母方の祖母からの結婚祝。

母がいたころ活躍していた食器。