小説的なもの
小説的なもの
「S}シリーズ(自伝的エッセイ)
”野蛮人”と呼ばれた父とビートルズと日曜日の遅い食卓 お姉の化粧は鴉の行水
「S」と秘密の引き出し 家で過ごした思春期とオリーヴ・ロココ調と赤毛のアンと空想と…
「S」と「S」の城 「S」の鎖国 「S」はお嬢様 「S」お嬢様とハエタタキ 「S」と陶酔
専業主婦だった母の作ってくれたお料理 バブルに多感な時期を迎えた私だから
その他エッセイ
詩のような物もろもろ
クロール ネコ 木の枝のように ある日の肖像 嘘 蒸発
貧乏 衝動 かすみそう ご先祖様 墓穴 白い月 荒削りな歌
「S」という女は昔は若草物語の中に出てくる心優しき少女ベスのように内気でおとなしくおっとりした女の子だったそうだが、母親を18のときになくしてから失うものがなくなってある意味気丈であったり、そう簡単に人のために涙も出なくなって薄情であったり,心がないような人間になってしまい,普段は言いたいことをいって開き直っているが,ひとつでも心配事の種があると不安が不安を呼び,いても立ってもいられなくなって大変な始末である。
この「S」という女は,昔式にできているらしく,社会性はまったくないが家のことは案外かなり良くできるのである。ただし,外で働くことになるとストレスにトンと弱く,その練習の場である、彼女が通っている作業所なる施設のスタッフにまでにも、愚痴をこぼしたり,唐突なことを言い出して疲れさせて閉口しているのではないかとか,悪く思われているのではないかと妄想がひどくなり,昔のように病気がひどかったときのようにもどってしまうのが怖くて一生懸命しがみつくようにして通っているが,たまに一週間ぐらいまとめて引きこもりたくなってしまうことがあったりすることが最近多い臆病者である。
この女,小さいときから一番はじめての子供で、一番はじめての孫であったからか,慎重に育てられすぎて,いわば,温室育ちで、きれいなものばかり見せられて世の中の醜いものに関しては蓋をするようにさせられてきたからか,(そのおかげで今、美術の道に進む羽目にもなったのだが…)不幸にして幸いなのか,世の中はすべてきれいであり,きれいであふれているべきであるという独特の価値観を持っている。だから、「汚いもの」や、割り切れないものに出くわすとどう対処したらいいのかわからないのである。
彼女は今,森茉莉の、「贅沢貧乏」や、香りのいい紅茶にはまっていて,ビートルズの「Imagin」の歌詞に強く共感している。
一般社会への復帰を目指した訓練場所のカラーのよそより強いこの作業所に,彼女は余り向かないようで…というのは彼女は美術の道を志した仮にも美術学士あり,型にはまった生き方や、長いものに巻かれろ的発想,いいかえれば,一億総クローン人間大量製作工場のベルトコンベアのように時に感じることがあり,自由にいきたい彼女にとっては息苦しく感じながらもなすすべがなくふんばっている毎日である。本当は,大きなことはいえないが,彼女が「S」というものとしてこの世に生を受けてきた以上,「S」にしかできない「S」らしいオリジナリティーにあふれる人生を送りたいのである。それが時に体当たりであっても。
それから,彼女は非常に頑固者で,人にいくら警告されても自分で納得し,合点がいかないと,頑として動かず,ぼろぼろになってからはじめてきがつく,信念だけで生きているような人間なのである。
また彼女は弱いので,不安になったとき,相談する人を慎重に選ぶことが多い。時には気休めでも言ってくれる人を助言者として選ばなければならないほどもろい心である。
彼女は最近あるところで知り合った親友の母親によく相談している。きっかけは,彼女の家に電話をかけると決まってその母親が出るから、遊びに行ったこともあって面識もあるので,あるとき,実の娘のように体を心配してくれたことをきっかけに相談するようになった。
理屈や現実的な対処法を並べられるより,心の底からひしひしと伝わってくる思いやりや愛情が痛んだ彼女の心には何よりもありがたいのである。
又,親友とは親しき中にも礼儀ありで,ワンクッションおいた相手のテリトリーに踏み込みすぎない、お互いを敬えあえる大人な関係が心地よいのである。お互いの意志を尊重したり,時に迎合たり。彼女にとって,仲が良いからといって,ずかずかと土足で踏み込んでこられるような関係は彼女のプライドが高すぎるせいか,「S」にとっては耐えがたいことなのである。
鉄のような意志を持つ「S」はちょっとやそっとのことでは動かない。彼女の母親が生前,「あんたは気難しいからフランス人の生まれ変わりなんじゃない?」といわれたことがあるほど,今は歳をとって少しは丸くなってきたとはいえ元来,相当の気難しがり屋で,ポリシーを非難してくる人,無理やり,ありきたりな集団の中に押し込めようととされると危機感を感じて堪えがたいことになる。彼女は余りにも哲学や今までの生き方で浮世ばなれしているので窒息しそうになるし,そんな「S」の昔の業績もみせない人にはわからないのである。彼女は集団で働くのがかなり非現実的な集団のストレスに弱い人間なので,人糞の始末でもなんでもいいから,一人でできる掃除などのパートの掛け持ちをしながら体を張っていつか自分の力で生きていき,かたわら油絵でも描いて生きていきたいのである。
彼女は今病気で働けないからもらっている年金を将来に向けてためていて,月に自由に使えるお金はわずかなので、お財布の中にお金を入れておくと無駄使いしたら困るので,あるときはお財布の中に一円も入れずにカードだけ持っていたが,最近では,さすがにいい年をしてみっともないと思い,安いコーヒー屋のコーヒーを一杯のめるぐらいのお金は入れている。
一時はひどい過食で毎日チヨコレイトを二枚買っても足りないほどひどく、お金に工面していたが,親友の母親の助言で目がさめ、今は健康的生活しているのであんなに吸い込まれるようにスーパーやコンビニに立ち寄り毎日買っていたチヨコレイトの呪縛からも解放され,お金を無駄に使わなくなってありがたく思っている。しっかり食べているので間食はしなくなってきて,お菓子を食べたいと思わないのである。それでいてあんなに恐れていた肥えるることもなかった。
「S」は小さい頃、母親が中古で独身時代買ったマホガニーと象牙のピアノの一番低い音を押して、「怖い音」、一番高い音を押して、「きれいな音」としきりと繰り返していたらしい。彼女が止めたバレエもその教室が「S」の期待を裏切ったからであった。
彼女がやりたかったのはチュチュにトゥーシューズ・・・という発表会にお約束なピアノのきれいな旋律に合わせて動くクラシックバレエだったのに、「S」にはきついからと、親のいれた教室は「S」が憧れていたものが何もないモダンバレエの教室だったからである。ちいさな「S」はそのことを親にうまく告げることができなかった。
それから、「S」が毎日泣きながら通っていた大嫌いだった厳しいカトリックの幼稚園もお御堂のステンドグラスや、白いマリア様の像、礼拝に行く時の先生が持っていくロザリオ、制服のエナメルの靴とフェルトの帽子、シスターがひくチャーチオルガンの旋律など美しいものが沢山あったからそれだけが「S」にとって救いだった。
そして、行きかえりにとおる家々のいろとりどりのパンジーや、チューリップがとてもきれいだったこと、白い唐草模様のフェンスの家三角の芝生に白いブランコの庭がある家、三角のとんがり屋根の家など「S」の美的好奇心を満足させるものがいっぱいあったこと。.
「S」の父親は何かにつけてやることなすことが乱暴なので「S」の母親が生前、よく、「野蛮人」と呼んでいた。そんな父が愛するものはビートルズの音楽を日曜の朝大きな音でかけることで「S」はそれは嫌ではなかった、むしろ好きな習慣の一つであったが、今思えば、「S」の父親が本当にビートルズの真髄たる物をわかって聞いていたのかということである。
「S」の父親はいわゆる団塊の世代で、若い時、ビートルズが来日したりして、爆発的にこの世代の者に影響を及ぼし支持を集め憧れの対象だったのである。だから、この世代は殆ど誰しもがビートルズになじんでいたことがあるのだと思う。ましてや、参加もしないくせブームにだけ乗りたくて学生運動安保ふんさい闘争勝利・・を野次馬に行き、酔っ払うとこのフレーズを繰り返していた父のことだから。
「S」が英語の歌詞をわからずにメロディーと言葉の響きだけで聞き入っていたのと同じに、とりわけ英語が出きるわけでもない父親も、ちょっと時代に乗ってみた「通」ぶってきいているだけで、本当は歌詞の意味もろくすっぽわからずに、小さな「S」と同じ次元で聞いていたのかもしれないと近頃になって想う「S」なのである。
それはともかく、「S」の父親が母親にプロポーズの変わりに渡した手紙は「LET IT BE」の歌詞をつずったものであり、母親はこれにかなり心を動かされたらしい。それまでは、「変な人ね」なんていっていた母なのに。「S」の父親も、一応、大学までは出た人間なので、冷静に読めばこの歌詞の意味ぐらいわかっていたのだろう。「(母が)あるがままに」という意味をこめておくったのだと思うが、のちに「野蛮人」のあだ名がついた父にしては随分にくいことをやったではないか。
「S」はというと、昔は、ジョン・レノンはオノ・ヨーコと関係を結んで結果解散をもたらすことに繋がったほどで、「逝かれた」イメージを持っていたが、このあいだ、作業所で、暇な時間、本棚にあった「ジョン・レノン詩集」を見たとき、「Imagin」の歌詞の素晴らしさに心から感動した。これはいつまでも色あせることなく続いて欲しい平和への願いをつずった本当に、「本質的なこと」が書かれたかなり哲学的な素晴らしい歌詞であった。今ではもう古い歌だが、いつまでも古くなることのない先取りの中身であり、全人類がこうであるべき願いである。それまで、甘いマスクと甘い歌声のポールをひいきしていた「S」は「ミッシェル」なんて甘ったるい恋人に向けた夢うつつの歌をひいきしていた自分が少し情けなくなった。
さて、日曜日はビートルズの日でもあるが、母親が1週間のうち1日だけ寝坊が許されるゆったりとした日でもあった。「S」の家では、小さい時から、「兼高薫世界の旅」や、「遠くへ行きたい」「題名のない音楽会」「世界の結婚式」などを見ながらおそめの美味しい菓子パンやクロワッサンにコーヒーなどで優雅に食べるのがお約束であった。昔は家でコーヒー豆をひいていたこともあったし、父のコーヒー茶碗、母のはながらのコーヒーカップ、祖母の・・と、一人一人違った自分専用を持っていた。家の形をした、ちょっとしゃれたコーヒー用の砂糖入れの中には茶色い小石のようなコーヒー用の砂糖が入っていて、そこの方にたまったのをじゃりじゃり食べるのがちいさな「S」の好きなことだった。兼高薫を見ては、世界を旅行することを夢見、し合わせ気分だった。母もゆったり出きるのでいつもより機嫌が良く、楽しいひとときであった。この遅い食事が終わると父の「ビートルズ」が始まるのだった。
「S」は、自分が化粧をするのどうも違和感が長いことあって、そばかすが思春期から多かったので大学生からはティントパウダーぐらいはつけて隠すようになったが、化粧っけは他に一切なかった。
「S」の母親というのも、化粧っけのない人間で、化粧水にファンデーション、眉を整え口紅ぐらいであった。
しかし「S」の母というのは生まれ持って華やかな顔であり、お化粧をしない変わりにいつもアクセサリーを身につけ、とくに、イアリングがその顔を一層華やかで上品に演出した。香水の代わりに引き出しの中に忍ばせた石鹸の香りがいつもしていた。
「S」が小さい時、あまりにも化粧っけがないので、友達の母親と比べて、せめてマニキュアぐらい塗ってほしいといって、無理やりかわせたことがあったぐらいだ。
「S」がのちに26歳になった頃、精神科に入院し、統合失調症の陰性症状がすっかりとれ、前向きで明るい気持ちになった退院後、自分を装うことが楽しくなり、自己流で化粧をするようになった。
短大卒で早くから社会人になり、しかもサービス業の「S」の妹に言わせると、「お姉の化粧は隙だらけ」の、あっぱぱっぱメイクで大いに改善の余地ありで、また改善しろと命令が出されたほどであった。
確かに妹はあれだけ手間をかけて作りこんでる化粧をしているのに、あたかもしてないかのようにナチュラルなしあがりである。
「S」の妹はそんな姉を見かねて、時々「S」に化粧を施したり、技術を伝授したりした。確かに妹の手にかかるといつもよりぐっと垢抜けて見える仕上がりにはなった。
しかし所詮とりわけ特別なようもない「S」は、楽な最小限のメイクしかしようとせず、母親のにマスカラを加えたぐらいで、ときに血色がいい日は体に無害で安い良心的な化粧品メーカーちふれの300円の口紅を祖母の代から信頼して愛用している「S」は、しょっちゅう飲むお茶のカップにべったり口紅の後が付くのを嫌って塗らない日もあるほどである。
そのうち、「美的」だのなんだの、日常離れしたモード系メイクで気になるのを真似したり、どうしたら自分の個性をいかせるかを地道に研究した挙句生み出した黄金分割のツーパターンに落ちついた。他の色のシャドウを塗ってもしっくり来なくて、このメーカーのこの色でなくてはというこだわりと、「S」の尊敬している人はみな自分のスタイルを持っていて、トレードマークのようにしつらいを変えない人が多いので、当分「S」は、新しい自分を発見するまでこの方法を変えないだろう。
「S」はとても弱い人間なので、人に話したら一瞬にしてたちまち音を立てて壊れてしまいそうな一つの生き方にたいする夢を、誰にも言わず、鍵のついた小さな引出しの中にしまいこんでしまう癖がある。
「S」にとって、生き方のあらすじと言う指標を立てておかないと、いざというとき、あたふたとしてしまう可能性が高いので、慎重で臆病な「S」にとっては一種の保険のようなので必要である。例えそれが年とともに塗りかえられたとしても。
ただ、最近になって思ったのだが、そんな指標があるために却ってそれが崩されるような出来事が起こるたびに酷くパニックを起こし易くなっているのかもしれない。
人に言うと、「それは絵空事」だと馬鹿にされそうなことや、密かな野望はみな引き出し行きだ。
別にうぬぼれているわけでもなんでもないのだが偶然、「S」とフランス、とくにメランコリックなデカダンスの雰囲気の漂う巴里・・・。は、きってもきれないほど「S」の「感性に全てがしっくりとあたかも生まれる前から知っていたかのように感じるのである。
「S」の大好きな、アールデコ、アールヌーヴォー、憂鬱でメランコリーな灰色の巴里、いろとりどりの野菜の並ぶマルシェ、古い建築の立て付けの悪いアパルトマンでの一人暮しや、フランス語の美しさ、美意識やそこから来るポリシーやプライド、最近ますます自己主張が強くなり、日本の島国根性の中では息苦しい「S」にはありがたい、個人主義の程よい距離感、一つのことについてカフェで何時間でも薀蓄を語れること、全てが「S」にとって大切なことである。
とくに美しさ・・例えば、同じスペルでも英語だとマイケルが、フランス読みではミッシェルであったり、キャサリンが、カトリーヌであったり・・そんな名前の読みの響きの一つにさえこだわる「S」にとっては全てが愛すべきことで、「S」が望んでいる、「S」が「S」らしくいきらる環境がこのフランスであるのだと思っている。
でも、こんな小さな夢は人に言うと、たちまち嘲笑されて、ガラス細工のようにもろく崩れてしまいそうで引出しの奥にそっとしまっておくのである。
そして、討論好きの「S」は、常にインテリジェント・アニマルでありりたい欲求が強く、ときにはホモ・ルーデンスであったりするわけだが、今までおってきたこんな小さなことすら「S」の小さなプライドで、それを嘲笑された時、深く傷つき、「ワタシハアナタニジンセイヲカンリサレテイルワケデハナイノヨ」と心の中で小さくつぶやくのであった。
家で過ごした思春期とオリーヴ・ロココ調と赤毛のアンと空想と…
「S」は、小学校時代にもあったが、中学で虐めにあい再び一年間に渡る家での生活が続いた。「S」の母親は、体の不調以外は絶対に学校を休ませてくれるような人ではなかったので、母に精神的な辛さを訴えたとしても絶対にわかってもらえないだろうし、プライドもあっていえなくて、体の調子が悪いと言い張って休むことになった。最初は寝たきり状態、後に医者に通わされたが…。
「S」にとって、この寝たきり状態は特別な期間だった。それは「S」の空想がとても豊かに膨らむ「S」のきらきらの元を形成させた時間だった。
なぜ、家にいながら目を養えたかというと、そのころ、バブルの絶頂期で、カタログ通販の先駆け、「ディノス」の、家具のページを毎日あきもせずめくることが、バブル特有の時代の豪邸のチラシを隅から隅まで眺めることが、そして将来はあんな家に住みたいとか、プールつきの家とかの住む人の暮らし振りを想像してみたり、カタログの方は、家具のページは格調高い本物志向で、優雅なる脚線美を描く猫脚に、象嵌細工、ゴブラン織り、毛足の長いシャギーのマットなどのロココ調を中心とした重厚感のある家具のページを眺めるのがとても大好きで、将来はこれとこれをそろえたいだの、家の間取り図を書いてみたり、当時の愛読書が赤毛のアンシリーズだったことなどもあり余計に生活を豊かにするような小さなヒントだとかなかなか得がたい想像力を養い目を肥やすのにもってこいの期間だった。
また休んでいた期間は紀子さまブームの絶世期であったり、余計、お嬢様嗜好の強い「S」に夢をもたらし、寝たきり期間に母親が図書館から借りてきてくれたクニエダヤスエのおしゃれな暮らしのエッセイや、飯田みゆきのテーブルセッティングや、アートフラワーの本、ブランド名ばっかり列挙されてるところがいただけなかったが、生活のアイディアがいろいろ書いてあって楽しかった西村玲子の本など…それらが彼女の想像力やアイディアを養った。
「S」は小さい頃から漫画など禁止で育ったが、小学校の6年生の不登校のときは退屈しのぎに「レモン」という、学研からでていた少女雑誌を読むことを許され、今の若者からはまったく考えられないような世界の「リッチガール」とか、お嬢様風のエレガントなさわやかなファッションが魅力で切り抜いたり、インテリアのアイディアも載っていたのでそれを参考にしたり、(befor、afterのもようがえの効果の意外さにおどろいたりする格好な期間だったが…)
おませな「S」は小学校の不登校の時、三つ編みを寝る前に編んでソバージュにしたり、色つきリップを塗ってみたりして鏡の中に陶酔していたりもしていたのだが…中学時代の不登校の寝たきり期間やその後、レモンの内容が変わり始め読む雑誌が見つからなくなった時、母にすすめられたのが「オリーブ」だった。今までのレモンにあったような華やかさなどはどこにもなく、素朴で、アート性が高く、ナチュラルでクリエイティブなところはいいと思ったし、広告も、デザイン学校、服飾学校の広告が多く、クリエーターを育てる、将来の夢がはっきりしている人たちの読む雑誌という気はしたが、最初はなかなかなじめなかった。それでもいつしか、オリーブ独特のよさがわかって、それから十年後ぐらいに好きになったミュージシャンがのっていたページを見逃していたり、十年後いいなと思った物がすごくオリーブチックだったり、じわじわと知らないうちにオリーブ・ナイズドされていたのだった。
当時は、どうして、こんなめちゃくちゃな格好ばかりしてるんだろうとか、型にはまった、ブラウスの上にセーターを着て・・などの順番もめちゃくちゃで、どうしてスカートの下にズボンをはくの?という、当時やったらそれで外へは出られないというぐらいの、わざと意地悪な提案が後になって、時代の最先端を行っていたな・・など思ったり、「わくわく」をいっぱいオリーブからもらったのであった。
「S」が今住んでいる部屋は、昔、家族の人数が少なく、貸家として国立大学の男子学生に貸していたお風呂のない6畳一間のアパートだった一室を、借り手がいなくなったので大学受験の前から、アトリエと兼ねてすまわしてもらっている部屋である。
最初はこの、安いコストでたてた固くて画鋲も刺さらない変な模様のパネルのような壁のキッチンのある部屋、派手派手なビニールクロスの床、壁に使われていたざらざららの変色した青海苔と金粉を混ぜ合わせたような壁が大嫌いで、日当たりも悪く、景色はすりガラスなので何も見えず、ごつい四角い箱といった感じで、馴染むのに相当時間を要したが・・・今となっては、夏や冬はたまらないぐらいの温度でいられないぐらいだが、なんとか我慢して、妹と相部屋にしていたときはこんな壁じゃ恥ずかしくて友達も呼べないと嘆いていたので大学時代、ホームセンターへ出向いて妹のお誕生日の日、自分で壁紙を張ったりして、しばらくは何もない部屋であったが、妹も出ていき、「S」の病状が退院してよくなったのをきっかけに、闘病時代の苦しかった蓑虫万年床状態・・・しかも何度も大量服薬して運び出された嫌な部屋のイメージを払拭したくてぼちぼち模様替えをはじめた。最初は、積極的な模様替えというより、いやなイメージを払拭するためと言った感じだが、病状が安定すると、雑貨屋で素敵な小物を見つけると真似して自分でつくってとりこんだり、かえる値段なら購入したりして部屋を、あまりまとまりがないのだが不思議なハーモニーを奏でていて、今では春や秋なんかは「S」にとっては最高な部屋となった。
昔は絶対将来は30畳はある光り溢れるワンルームにすんで広いバルコニーは緑でいっぱいにして・・・と空間の贅沢さとかを楽しみたくて、そんな希望を持っていたが、今は身の丈にあった暮らしの中で考えるようになったのか、6畳一間で十分である。とくに、こうやって自分のアイディアで自分が一番和めるようにコーディネイトした部屋でカヒミの音楽を流して自分のためだけにコーヒーメーカーを持ちこんで赤いソファアベッドでブランケットをかけながらコーヒーをたしなんだり、読書したりするのは至福のひとときである。部屋の中に、緑(植物)を沢山とりこんだのも、居心地が凄く良くなった要因の一つかもしれない。
今、この部屋から去らないとならないといわれたとき、どんなにお金を持っていたとしてもこの部屋と私は切ってもきれないほど「S」とこの部屋は妙な関係になっている。もっといい物件はいくらでもあるだろうに、自分の手でこれはここ、これはここ、と配置したディスプレーのハーモニーを壊したくないのである。すりガラスから差し込んでくる太陽の光りや、自分の絵で満ち溢れたところ、何処かから拾ってきた椅子、ドアをあけっぱなしにすると見える屋根よりも背丈の高い柿やヒノキの緑、青空・・・すべてが失いたくない条件なのである。今はパンジーがキッチンの所においてある。
それから、脳天をずん、ずんと刺激するような水道の蛇口から滴るいくら蛇口を固く閉めてもぽたぽた落ちる水の音・・ステンレスの固いシンクの上に・・・が最近どうにかならないものかと思ってはいるがなかなか治す気力がない現在である。
今この「S」の小さなお城は、日曜以外は忙しくして殆どいる時間がないが、少なくとも、ソファーにいられる時間は・・。
今もリサイクルショップで500円で買った今ではもうきっと入手困難なコティーのお粉の入れ物や、いろんな物たちが「S」にとってお気に入りの空間を演出してくれているのである。
「S」は、最近、頭の中が何かに蝕まれていて、「S」の発する一言や価値観、アイデンティティーがわからなく行方不明になってしまい、むやみに言葉を放ったらとんでもないことを言ってしまいそうな恐怖と、人の言葉の裏を探って悪意を感じ取ってしまったり、全てにおいて、やること、なすことに自信を失っている。
引き篭もりがちになっている「S」は、友達は、やっぱり、一人だけでいいと思っている。今は温かくなってきたから、自分の部屋でコーヒーを(家で要らなくなったコーヒーメーカーを貰った)何杯も飲みながら、図書館で借りたエッセイや、短歌、詩を読んだり、それも黒猫のオブジェが定位置に置かれた真っ赤なソファーの上で、カヒミの、MONTAGEを、何回もリピートで流しながら、唯一安心できる時間なのだ。
祖母が急速にボケ始め、あまりにもいらつくことばかりするから目をつぶることのうまく出来ない「S」は祖母が落ちつくと自分の部屋へ篭もり、部屋を締めきって、鍵をかけ、見ているとどうしてもいらいらするから本当はおとなしくテレビでも見ながら寝ててくれれば楽なのだが、どうでもいい洗濯物1枚のために洗濯機をまわそうとしたりするもんだから、(もう、朝、嫌っていうほど洗濯したあとだったからいらいら虫が起こるのだ。)お金の管理、いろいろなストレスが色んな物を任された半病人の疲れやすい「S」は、かなり精神的に参っているのである。
「S」はくたくたで、悩みを一人で背負って誰にも言えず、今日は雨だし、昨日まで完全に祖母はボケていたと思ったら、今日は意外と普通ぽくって、どっちが本当なのか、それによって接し方も変わってくるし、余計わけがわからなく混乱して、とにかく疲れ果てているのである。
ここで言う「お嬢様」とは、お金持ちであるとか、育ちが良いとか良い意味のお嬢様ではない。むしろ、何も出来ない悪い意味である。24歳になるまで終電に乗ったことが一度もないとか、お酒を口にしたことがないとか、 そう言うことはあるが、箱入り娘というか、自分から箱へ入っていた娘である。
要するに、「生活力がない」「ストレスに極度に弱く、都合が悪いとヒステリーになってしまう」など、免疫力のなさを示すお嬢様である。お嬢様はなんでも周りの人間がやってくれるので、自分の身の回りのことも人任せ、お箸より重い物なんて持つことが出来ないとか、ゴキブリや虫が出ても自分のちからでは殺せないとか、要するに「無能」な状態として、ここでは用いる言葉である。
最近の「S」は、昔に比べると大分強くなったが、一つ乗り越えると、またすぐに新しい災難が振りかかってくる。そのたびに彼女の心は激しく揺らぐのであった。一番最近のことでは、急激に起きた祖母のぼけ。・・・これを一人で背負い込もうとして疲れ果てた。そう、「S」は、環境の変化に物凄く弱いのであった。だから家具の配置など、最近ではいじったことがない。何日も馴染めないのである。だからこんな部屋でも外へ飛び出せないでいるのである。
困ったことが起きると、「S」は、すぐにパニックになって取り乱す。現実よりも大げさに参ってしまってヒステリー(時には身体症状が起きたり、騒ぎ出したり、精神状態が悪化したり)が必ず起こる。まあ、これは病気のせいもあるので一概に、「S」の本当の性質かはわからないが、大体、「S」の、母方の祖母から始まって、「S」の母親、「S」と、親子三代にわたって、この、「お嬢様体質」が遺伝しているのである。「S」の母親は、玄関先に蛙が鎮座ましますと、「きゃー!!」という悲鳴が聞こえてくるは、「S」が、ちょっと厄介な目先の相談を持ちかけても金切り声を上げて拒否するばかりで取り合ってくれなかったり、きいきい声を出すのである。
「S」は、母親が先立ってしまったのが早かったので、人に甘えてるわけには行かないから、ある意味、強くなったが、基本はやはり弱いのである。だから、普通の人には大したことのないことでも、数十倍のダメージやストレスを受けるのである。
だからこんな「S」にとって、人生を歩んでいくことは普通の人よりもかなり困難なのである。
「S」は家族のために家の切り盛りもするし、何キロだろうが重い買い物袋をぶら下げて家族のために帰って来たり、最近では、ゴキジェットプロと、息の音を止めた後のゴキブリをゴキパオという、白い泡で被い尽くし繭玉状にして見えなくなるというのを更に上からかけて何重にもした新聞紙で、出来るだけ感触が伝わってこないように処理したり・・・。ようやく出来るようになったが、小学生の頃は万が一飛び込んでくる、ゴキブリや、ヤモリを想定して、雨戸の開け閉めさえできなかった。仕方ないから開き直って、雨戸はいつも開けっ放しにしておくことに決め、今でもその習慣は続いている。正し、キッチンやリビング、弟達が暮らす2階の部屋など、虫の心配がないシャッターの開け閉めぐらいは出来る。
「S」の母方の祖母も、エセお嬢様であり、実際、幼い頃、病気がちな弱い母親のもとで暮らすのは困難だったので、血の繋がった叔母に当たる人に引き取られ、フランス人形を抱いて、昭和の初期、叔母のお屋敷に連れられてきたのである。祖母と、叔母と、その母親の3人暮らしではあったが、叔母がかなり仕事で成功を収め、一生働かなくても遊んで暮らしていけるだけのお金を手にしていたので、優雅なことにたった3人で姉やさんと祖母は呼んでいた女中さんがついて、当時はすでに子供は簡単服の時代だったが、その家のおばあさまの趣味で、学校から帰ると、着物に着替えさせられて、ある日外で遊んでいたら、同級生の男のこにからかわれたとか、よく、母親が恋しくならないようにと、三越の上得意だった叔母はデパートや資生堂パーラーで当時は高級だった、アイスクリームを食べに銀座へ頻繁につれていかれたりしていたらしいが。
「S」の母というと、「S」の祖母の婿だった「S」にかなり影響を与えた、ニ科会に史上最年少で入選した日曜画家の祖父に当たるものと、気の強い「S」の祖母の育ての叔母の仲が悪くて「S」の母親が2歳ぐらいの時口論になって夜こっそり祖父が出ていってしまったので、(気の弱い祖母は、5年待つといわれたそうだが結局祖父の元へ行かなかった)祖母は働く羽目(戦後お金の価値がなくなってしまって土地も売り払って越してきたので一気に貧乏になってしまった)になり、最初は高等女学校まで出ていたので、高校の司書をやっていたが、次第に地元の小さな会社の経理で働いていくうちにそう言う意味ではたくましくなって、でも、何か困ったことが起きるとやはりヒステリーでぎっくり腰になってしまったりしていたらしい。男親代わりで家計を支えてきたが、一人娘に当たる「S」の母は母子家庭という貧乏な中でも、祖母の育ての叔母が、色んなお料理、(洋食も、シュー・クリームもオーヴンがあったら作れたらしい)を作ったり、教養もあったことから、そして実の叔父に当たる者が(祖母の兄)江田島出で、東大は詰めこみで嫌だからとわざわざリベラルな京大に入って卒業した万能な人物で、「S」の母親は、その叔父を父親代わりにして凄く尊敬していたので、幼いから東大へ入るのが夢だったらしく、根っからの勉強好きで、「おもちゃと本だったらどっちがいい?」と聞かれたら、半分は経済的な理由の気使いから、「本」と必ず応えていた母は相当な本の虫で、岩波の100冊は当たり前で沢山、「S」は、子供心にうちで図書館が開けるんではないかと思ったほど本棚に沢山の本があって、母親はひまさえあれば本ばかり読んでいて、家事手伝いも一切やらずに育ち、生き字引のような人ではあったが、勉強以外のことは何にも出来ないからと、父親と結婚が決まって父方の祖母に、お料理を習いに通うまで包丁も持ったことがなく、もやしの根っ子を取っていたらそんなことは気にしない父方の祖母が悠長なと大笑いしたというエピソードの持ち主で、ある意味、「お嬢さま」育ちであった。
そして、「S」の祖母をはじめとし、母親、「S」の三代に渡って首の後ろの同じ位置に呪われたような大きないぼ状のホクロが烙印のようにあってなんだか宿命を感じ、現に祖母も母親も癌体質で、「S」も当然癌になってもおかしくない体質を受け継いでいる。
「S」の代でブロックしたが「S」の祖母も、母親も、親子ニ代で自転車にも乗れず、3人ともかなずちで、とても佐々木高綱の子孫とは思えないほどの運動音痴で、体もひ弱で、ある意味、とても良く似た三代である。そして、ちょっと気取ったことが大好きな・・・。
無能な”お嬢様”「S」とハエタタキの因果関係・・・。
「S」になんてハエタタキなんて死んでも振りまわせないのである。「S」は、自分のほうに寄って来る「蚊」すら殺せないのだから。もっぱら、蚊のほうも、不健康な血の匂いのする「S」になんて見向きもしないのだが。ハエタタキはハエを叩いた後、後始末をしなければならない。潰れたハエの後始末なんて卒倒しそうで、絶対にやりたくないことである。
「S」にとっての、「ハエ」は、自分を悩ませる、わずらわしい物のことである。例えば・・・最近、一気にボケかけた祖母のやることなすこと、尻拭い・・・。尻拭いは結局は後でするが、その瞬間はいらいらするから見ていたくないのである。いくら徘徊しようがなんだろうが、いざとなったら、警察で補導されるだろう・・・だから、父親に、「S」のつかの間の休日、「これから会社へ行かなければならないから、外へ出て行かないように見張っててくれ。帰りは遅い。」なんていわれた日は、全て面倒なことを押しつけされ、細いくもの糸のようなSの神経には荷が重過ぎて、やけになって開き直ることしか、「S」の壊れそうな精神を安定する術がないのである。
今まで、一々目を光らせていたが、もう疲れ果てたのだ。育児ノイローゼの母親のように、もう、祖母の顔を見るだけで拒絶反応を起こすようになってしまった「S」は、自分を守るため、蚊帳のような自分の部屋へひたすら篭もって、鍵まで閉めて、要らなくなったからと家から貰ったありがたいコーヒーメーカーでスーパーで安売りしていたコーヒーをドリップさせてひたすら飲み続け、落ちつかないから絵を描いてみたり、しかもうしろむきの女が紫色の影に包まれている不吉な絵を書いたり、図書館で借りてきた本を読みふけりながらひたすらカヒミの”montage”を馬鹿みたいにリピートさせながら引き篭もってすごすことが一番安心なのである。
いつもなら作業所があるはずの日なのにあいにくお休みだから、デイケアへかけたり、ほけんしさんにかけたり、挙句の果てにはもう、疲れ果てて電話しながら泣き出したり大変な始末である。そんな日は祖母が憎いから、全ての責任を放棄して、自分のお城へ篭もるのである。
「S」が、泣きながら紙に書きなぐった文字は、「もう疲れたから、何処へいってもいいよ、知らない。補導されればいいから、私は見たくないから部屋へ篭もるよ」だった。もっぱら、時間があるときの「S」は、最近、鍵で締めきった部屋で過ごすのが一番心地よいことに気がついた。前は、体を動かさなければ、と、休みの日、積極的に渋谷まで出かけていってお気に入りの喫茶店で世界一美味しいと思っていたスコーンとバリニーズ・コーヒーを飲むのが至福のひとときだった。休んだ後はそのままスペイン坂を登ってパルコへウインドーショッピング。でも、今はそんなことが出来ていたエネルギーのあった自分が信じられないぐらいで、今はよくて図書館、時には1日中部屋で、真っ赤なソファーマットレスをソファーにして、黒猫のオブジェを置いて、綺麗にかたつけた部屋でひたすら本を読みふける。喫茶店なんて、待ち合わせの時間には早くて時間をつぶすときや、友達と会うときぐらいの物で、後はよっぽど家へかえりたくない時、お金があるときにいくぐらいで、最近は自分の部屋のお下がりのコーヒーメーカーで入れたスーパーの安売りコーヒーを渋いカップで何杯も中毒患者のように飲むほうが落ちつく「S」なのである。作業所のあるときは、お気に入りの香りの紅茶を持ちこんで、ひたすら飲む時間が家にかえる前に覚悟を固める前のリラックスタイムである。「S」のすきな紅茶は、トワイニングの、「レディー・アールグレイ」と、レシピエの、「ラベンダーティー」なのである。これだけは「S」の中で譲れない贅沢品である。それとこんなへぼエッセイを書き、気持を昇華すること・・・だから、けさ馬鹿なことに、キーボードにコーヒーをこぼしてしまい、パソコンが壊れ、慌てふためき、キーボードをかえればなんとかなると確信していた「S」は、執念でその日のうちに、なんと、997円ぽっきりで新しいキーボードを買い、こうしてへぼエッセイを打っているのである。
最近祖母の介護でつかれきった「S」は、ある物に陶酔している。それはねじれた彼女の神経をほぐすためなのだろうが・・・。
彼女が陶酔しているもの・・・それはコーヒーメーカーで何杯も入れた甘いコーヒーの香りと、コーヒー中毒、100円のアロマのお香をたいて、南国のの甘いココナッツの香りに陶酔すること、カヒミの同じ音楽を何遍もリピートとさせて馬鹿のように聞き入ること、キャンドルホルダーに灯したキャンドルの炎の揺らめきをみているうちにうっとりしてつい寝てしまうと言う危ない状況・・・。部屋に鍵をかけて。お香はココナッツが甘くていい、コーヒーは何も食べたくなくなるまで。食堂に下りていったときは茶せんであわ立てた抹茶を・・・作業所には香りのいいトワイニングのいアールグレイを持ちこんで・・・。これらが「S」にとって最高の贅沢なのである。それから週末、図書館にいって雑誌をめくった後、ケーキを食べること。100円ショップで色々買いこんできてささやかな模様替えをすること・・・。ストレッチ・・・。昔とって置いた雑誌の切りぬきのリラックスの方法を見たら、自然に全てやっていた。彼女は相当つかれているのだ。
十年前は、まだ、専業主婦もさほど珍しくはなかった。パートに出る主婦も増え始めたが、少なくとも、子供が中学を終えるまでぐらいは専業主婦の母親が多かった。そうだ、まだバブルのあのころは、母親が仕事に出ているって、経済的によっぽどきついか、バリバリのキャリアウーマンのどっちかだった。今の私が、もしさぎょうしょとか、仕事に、日中でなくて、家のことにだけ専念できる状態だったらまだしも、今の私には、味覚も劣ったことだし、つかれて帰ってきた後、いちから十までお料理を作る余力がなく、例えば、ハンバーグなんて、手も荒れてるし、ひき肉をこねるなんて面倒くさく、安心な、生協の個人宅配の、お豆腐やひじきの入ったちゃんとした、冷凍のお買い得ハンバーグ三つ組み・・なんかで済ましてしまう。いつもは、レンジで解凍して、このみでケチャップかおしょうゆでもかけてもらって出すけれど、今日は、少し、気持にゆとりがあ゙って、レンジで火を通した後一手間をかけて、オリーヴ・オイルをしいたフライパンで焦げ目を付けて、よく、母がハンバーグを作るときに必ず作っていたソースを、その焼いた油に、ケチャップと、ウスターソースと赤ワインをいれて、アルコール分をざっと飛ばして煮詰めて・・・と久々にやってみた。サラダも、つまみ菜とちぎったレタスと、シュレッドチーズをイタリアンドレッシングであえたのに、ミニトマトをへたをとって半分に切ったのを、バランスよく散らしてみたり・・・。たまにお料理すればよい身分のときは美味しいものが作れるけど、毎日となると、しかも、5時ぐらいまで拘束されていると、中々余裕がないのだ。乾燥の酷い今の時期、アトピーでひびだらけで痛いから、でも手袋するのは感覚も鈍くなるし、気持ち悪いのであまりしたくないので極力、水を触りたくない。
母の作ってくれた洋食はとてもおいしかった。レストランで食べるよりも美味しかった。和食に関しては、父方の祖母の右に出るものはないと思っていたが。(きり方とかにも性格が出ておもしろい)母は、痩せてるくせに、チーズとか、バターとか、の、動物性脂肪や、ホールトマト、香辛料をふんだんに使ったり、イタリアンが大好きで、18番だった。クリームシチューを作るときも、ホワイトソース缶なんて絶対に使わずに母を育ててくれた、母方の祖母のおば直伝のペシャメル・ソースを、弱火でゆっくりと、バターと、小麦粉と炒め、慎重に少しずつ牛乳をいれていき、シチューにするときは、そのソースと、ふんだんに粉チーズを入れることを欠かさなかった。また、食材も、結構こっていて、オリーブ・オイル一つにおいても、スーパーで置いているブランドの中で母が1番美味しいと思ったものにお金を投資することを惜しまなかった。母は、身にまとう物に関しては節約していたが、食材に関しては、節約と無縁だったように私は思えた。ペシャメル・ソースの残った次の日は、ご飯に、ソースをかけて、オーブンで焼いて、ドリアを作ってくれた。ピアノの冬の寒い帰り、家の前を通ると、いつも、美味しそうな豊かなお料理の香りがうちの台所のそばからただ寄ってくるのが自慢でもあった。母の十八番はロールキャベツ、ピーマンの肉詰め、ミートボールのシチュー、ミートボールスパゲッティー、タコス、マリねネ、ピクルス、鳥引肉団子の鍋物、餃子、野菜のスープ煮等、手の込んだひき肉料理が多かったが。(そこだけ経済的)クリスマスには必ずチキンと、ミートローフ。ケーキも前の晩から手作り。
けれど、美食(交互に、塩分控えめの健康的和食も作っていたが)をしていた母は、癌で亡くなってしまったことから、動物性脂肪の取り過ぎがあだになったのではないかという邪推と確信で、私は、あまり、あぶらっこい「おいしい美食」を作らなくなった。それまでは、忙しいときは、母のしたように、フライドポテトとミートソースのナツメッグ入りグラタンなど、作っていたが・・・。今、私はシンプルな和食がベースである。母が、手際があまりよくない、と言うのも合ったが、5時ごろ台所に立ち始めて七時半に食事・・・と言うのは、今の私には考えられない。美味しい物を作るには手間を惜しまないことであるが、薬の副作用か、味覚が鈍ったり、健康のほうを重視する私は、お肉や魚だけは、生協の出来あいの冷凍にたより、煮物などは作っていて、台所に立つのはせいぜい30分である。母のお料理が恋しくもあるが、健康のことを考えると月に数回と言うのが、日本人の私達にとっては適度なのではないかと。けれど、心にゆとりがあるときは、「ひとてま」をかけたいとは切に思っている。
子供時代、日本は一億総中流階級と言われていた、バブルの全盛期を過ごした私だからこそ、十分、それなりの贅沢を味わってきたわたしだからかもしれない。今は、贅沢をしたいなんて、微塵も思わない。身の丈にあった暮らしが丁度いいと思っている。
母は、父子家庭だったから余計、貧乏(といっても、食生活とか、学問には支障がなかったが)自分が、不自由な思いをしている分、余計な買い物をして、食材を腐らせたり、祖母も、戦時中に若いころを過ごしてきた人間だから、二つ以上買い置きが家にないとパニックを起こすぐらいにこれでもか、これでもかと大量に物を買いこんでいた。私はそんなのが鬱陶しくて、子供時代、十二分に、人並みの贅沢?をしたからシンプルな暮らしを好むのである。
私は、幼少時は、一年の差は大きく、はや生まれだったので、4月生まれの人なんかと同じ学年になると、かなり差が開き、幼かった。それに加え、私はある面では、精神的に老けていたが、ある面では相当子供こどもしていた。人が゙十年前にきがついていたようなことが、今ごろになってよくわかったり、そんな事が多い。だから今ごろになって、昔わからなかったものの良さがわかったりすることが多いし、昔は頭を抱えて読解不能だった小説を改めて読んで、その良さがわかって感動したり・・・。しかし、例外的に、高校生のころ、2冊の本だけは、私の心の中で、かなり大きなインパクトを残した。
それは、「いちご同盟」と、題名をわすれてしまったが、「君たちはどういきるか?」だったか・・?コペルくんと言う主人公が出てくる話、そして、もうひとつあった・・「光抱く友よ」どれも母の選んだ物であったが、すっとはいってきた。
私は物事を飲みこむのが遅いのか、今になって価値観がやっと人並みに成長してきたような気がする。ホルモンバランスまでひとより大分送れていて、2年前までは中学生と間違われる程の童顔だったし、婦人科系の、ホルモンの悩みもなかった。
そして今、やっと、母が好きだったものの良さがわかったりする。
私はある時から自分で自分を育ててきたような気がする。母が健在だったころは、私はいつまでも母の良いこでなくてはならない観念が強く、自我を殺していた部分があったが、母が他界して、大学で倫理学や哲学をとり、全ての物の存在価値を一度疑って自分なりに解釈しなおしたり・・・。
そしてこうあるべき自分に近付こうと自分自信を自分で育ててきたような気がする。母の価値観でなく、自分の価値観で見た公平を目指し、より良く、より尊く・・と。そう、断言できる。今の私は私自身がこうなろうこうなろうと努力してある私であると思う。
これは私その物がバブリーだったと言う記述ではなく、私を取り巻く人々がバブリーで、時に私がそのバブリーな中に放り出される、あるいは、巻き込まれると言う事態を描いた物である。
まず、私本人がバブリーだったことは、せめて、山小屋が持てないからリゾートクラブの会員権を親が買って、夏は毎年そのリゾートクラブのリゾートホテルに必ずいっていたことや、日曜日の朝は母が寝坊をするために今思えば随分高価な菓子パンをふんだんにテーブルにならべてコーヒーを飲みながら兼高薫世界の旅を見ていたこと、最低限の習い事は希望をすればさせてもらえたことぐらいであろうか。
私が放り出されたこと、巻き込まれたこと・・の記憶は小学校低学年のころ、良く、学校の課題で、「班の集まり」という、集団の研究課題を与えられ、行きたくもない家に行き、きて欲しくもないクラスメートが家にきたりした事の中で起こった記憶、に起因しているところが多いであろうか・・・中でも印象的だったのは、不動産屋の息子で良く私を虐めた子が、班の課題でうちにきて、学校では一言も喋らない私が、なぜか家でつい喋ってしまったのをきっかけに余り虐めなくなり、その場では一時的に打ち解け、班の集まりと言うと、必ず「おもたせ」の、人数分のおやつをビニール袋に小分けしてもたされてやってきたことだろうか?彼は決してできのいい子ではなかったのに、だからなのか、家庭教師をつけられていて、時間がくるとお母さんがベンツで迎えにきた。ベンツなんて、今ではざらな乗り物だが、当時はまだ「お金持ちや医者の乗り物」と言うイメージの強い乗り物だった。そして、私も、なにかのついでにそのほうが早いから・・と、親切ご丁寧にそのお母さんが私を何処かへベンツで送り届けてくれた記憶がかすかにある。それから、やはり同じ班の一人で早熟な優等生だったのだが、その子の家へ行った時、内装が凄くて、小さいころから建築に凄く興味が合った私はしばらくそのこの家のことが頭から離れなかった。
印象的だったのは、吹き抜けと踊り場や中2階のある大きな階段、真っ赤な絨毯の敷いてある、のちに知った、「ウインザー調」とでも言うのではないかの木の手すりが印象的な螺旋を描くような綺麗な階段があったこと。そして、きのう食べた物の発表のとき、ごく当たり前に「ラザニア」なんて言っていて、私は家にかえると、母に、「ラザニア作って」なんてせがんだ事・・と言うか言葉の響きからどんな食べ物なんだろうと頭から離れなかった事、そして、同い年なのに、私よりずっと、ピアノのすすみ具合が早かった事・・・。
もう一人、不動産屋の息子。彼は当時ブーイングの対象になったが、まだ、ハワイなんてそんなに気軽に行かれる時代ではなかったその時代に、用事ではなく、ハワイごときで、1日休みを取った、そしてこんがり焼けてかえって来た事。彼は私にちょくちょく意地の悪い事をするので私は根っから嫌っていたが・・・。ちなみに社会科見学で、列を組んで目的地に歩いていく時、その子の家の前を通ったら仰々しいアールヌーヴォーバリの大きな門があって圧倒された事・・・。他にも、おばあさんが医者だと言うほこり臭い独特の変な香りのする家にいったり、お父さんが建築家だとか言う変わった家に行ったり、ときに、ごく普通のアパートで、おやつに食パンに何かを挟んだものがおやつに出てきてさすが男のこの家だとびっくりした事・・・いつも良い石鹸?の香りのする女の子の石鹸の香りが知りたかったり・・・。それから、いつも学校から遠足へ行く時のバスが必ず通るルートにこれでもかと続く、長ーい塀のある、大地主の子の家の前を通ったり・・・。中学にあがると、学校へ行く道程に、真っ白なロールスロイスやキャディラックがやたらととまっていたこと、斜め向かいの元プロ野球選手の家に夫婦二人暮しなのに、二台の車があってかたっぽがフォルクスワーゲン、もうかたっぽがジャガー、なんて当時は珍しい2台車を所有する家があったり、リンカーンや、センチュリーなんて当たり前で、養老の滝の社長の家が、西洋のお城のレプリカであったり・・私は幼稚園のころ、遠くから見えるそれが、本物のお城だと思っていた。最近はBMW所有率は結構高いようだが、流石にリムジンや、ロールスロイスは見なくなった。でも、カブリオレタイプの車は増えてきたかな・・とにかく、壮絶な子供時代を過ごしてきた物だ。今思えば恐ろしいぐらいに。
夕がきて、もう時期晩御飯を作らねばならない。しかし洗濯物と布団を取りこんだあと、自分の部屋のお決まりの物がお決まりの位置にひたすら、自分の中ではつながっているのだが、不規則の羅列のように、気がつけば、何もなかった部屋に、何時の間にか騒然と、並べられてある。
曇りガラスの窓からは薄い光が弱くさしこみ、暗闇と、光のあいのこの光度で、電気をつけず、真っ暗になるギリギリまで、それらの物象のシルエットや、かもし出すハーモニーの共演を眺め入っているのである。その陶酔はとても心地よく、自我自賛で、「いかに巧妙な具合で並べた物の羅列のかもし出すハーモニーの美しさ・・・そして、哀愁・・・。この中にずっと浸っていたいような心地よさ、どうか、夜など来ないように」と、心の中で淡く思い、部屋の中に取り入れた観葉植物の、自由奔放に伸びていく茎の作り出すアートの共演・・・それらは私を至福のひとときにいざなってくれる陶酔である。
私は思い巡らす。ここやく2,3年の間に良くこれらの物を古今東西からこのちいさな一堂に集めた物だと・・・。しかし、それは永遠ではなく、地震でもきてしまえばあっけなく崩れ去ってしまうのだと思うと、耐えがたくもあり、しかし、また新しい共演を生み出すことになるのかと・・・・。
介護疲れが今ごろきてだるだる病の私。作業所からかえればお米をといでタイマーをセットして、ご飯を作る時間まで目覚ましをセットして仮眠を取る。そうしないと体が持たない。お昼休みは机に突っ伏してねむりこけている。介護をしていた時は気が張っていたから出てこなかったけど、今になってたまって出てきたダルさや疲れ。外来への診察の日も、午後は欠席させてもらって夕食までひたすら眠る。体は疲れてる、だるい。でもちょこちょこ目が開くんだ。そのたんびに継ぎ足すように眠る。本当はもっとねていたいのに、段々寝ていると気分が悪くなってきて余計だるくなってくるからソファーベッドをリクライニングさせて、少し音を入れようと、耳障りにならない好きな音楽をリピートして流す。そのたんびに思う。MDにセットした音楽は私の希望に忠実に何回でも繰り返し奏でてくれる。こうなってくると、好きだったはずの音楽も、無味乾燥の奴隷のようなきがしてくる。ライブにいったような臨場感なんて丸でないのは当たり前だけど、心地よくなるというよりもノルマみたいな。繰り返してないといてもたってもいられないから流す。忠実にリピートしてくれる。1秒も狂わずに。MDって、そうなってしまうと恐ろしい機械だ。
病気が重くて、毎日が苦しくて、小さいときはあんなに仲良かったのに、今はこんなに差が開いていて、そんなはずかしい私を知られたくなくて、変なプライドが一時、本物の友達を遠ざけていた事がある。彼女は私が手紙の返事を出さなくても、毎年年賀状をくれるのに、私は会えて返事を書かなかった年もあったほど。きっと引け目を感じていて、こっちから縁を切りたいとあいそつかししていたのだと思う。その時、私がこれが今必要な本当の友達だと思っていた人は、医療機関で知り合った、同じような境遇の人達ばかりであった。でもそのような人とは結局一人として長続きはしなかった。一時は傷のなめ合いになったり、辛さがお互いわかるとかいっていたけれど、結局向こうが人格障害で最後には裏切られ振りまわされ、ボロボロに傷ついたり、破綻ばかりした。ある日、素直に、昔からの友達に白状してみようと思った。ずっと負け犬みたいに感じるのが嫌だった。けれど、今の最悪な状況の自分、本当の事がいえなかった過去の私のこと、全て白状した。彼女は受け入れてくれた。ここで去るような友達は本物ではない。彼女こそ本物の友達だったのだ。今もまた別々のスタンスにいるが、今の私は辛い過去があっての私だと思っているから、引け目など感じず、前にも増して心が通い合った。そしてアイデンティティーがはっきりしてきた今は昔、頼りない私を妹分のように見ていた友達を遠ざけたくて連絡を怠ってみたりもしていた。でも、今は彼女も私をわかっている。対等な立場で。
昔は花を豪勢にいけるのが好きだったように思うが、最近は小さく可愛くセンス良く作られたブーケが好きだったり、1輪ざしにこじんまりと野草など可憐な花をこじんまりいけるのがいいなと思ったりする。1輪ざしには可憐な花が良く似合う。1輪ざしには、わび、さびの世界を感じる。「花は野にあるように」・・・これは日本の華道に通じる物なのかもしれない。
本当はありがたく思うべきなのかもしれない。
でも私の心は傷ついた。それは、最近一年年下の従兄弟から貰ったお下がりだった。
彼女は小さいころから英才教育を受け、薬学部に推薦で入り、現役で国家試験に合格し、みごと大手薬問屋に就職して、パラサイトシングルで働き出した。彼女は決しておしゃれなほうではなかった。(ある意味で言えばおしゃれだったのだが・・・。)彼女は私のみすぼらしい時代しか知らなかったのだと思う。今も私が病気で働けない事は親戚中知っているので、同情して服がかえないと思ってくれたのかもしれない。
子供のころならいい。年上や友達から貰うのだったら救われたのかもしれない。くれた服はお決まりのヤングブランドで、若い子なら誰でも知っているような代物ばかり。私が、貧しくて、服もかえないとでも思っているのだろう。けれど、今はとても安くいい物を手に入れる術を見に付け、変身して過去から脱却したつもりの私にとってはプライドに傷が付いた。本当はもう、とっくに、従兄弟と自分を比べるのを止めていたのに。
私は、たまに、ストレス解消のために、自分へのご褒美のために、落ちつけるちょっと寂れた喫茶店でフルーツ・パフェを食べることがある。
最初の、兎林檎やバナナ、ももの缶詰めに生クリームがなみなみと乗っている瞬間、それを食べ終えて、アイスクリームに差し掛かる瞬間・・・そこまではいいのだが、アイスクリームの後半を食べ終えた時、したに、上げ底の熟れ過ぎたバナナの破片が出てきた瞬間、いつも、とてもがっかりする。
フルーツパフェを食べる瞬間はよいのだが、最後には何と無く寂しい気持で食べ終えて、一息ついて喫茶店を出るのである。
私の住んでいる町の商店街の一角に、小さな自然食品や、環境に優しいせっけんを、こじんまりと扱っているお店がある。店の概観はそんなに悪くはないのだが、中は商品ががらがらで、よくこれで成り立っているかと感心するぐらいの少ない品揃えのお店だ。私が以前、そこで、とおくまで調達しに行くのが面倒なので、このメーカーのこのせっけんシャンプーを置いてくれないか?と頼んだが、店主は全くやる気がないんだか、内はお年寄りばかり買っていくお店なんですよ。内のお店じゃ新に扱えないですね、と、勉強する気ゼロなのだ。そこの店主は、そう中年にも差し掛かってない感じだが当然、化粧っけもなく、客がいないとき、本を読みふけっている。自然食品や、健康になる食品を扱っているはずの店主が、元気そうならばともかく、日には焼けてる物の、あまりにも不健康そうなオーラが漂いすぎているので、かえっていないほうがもうかりそうな気配である。それを改善しないポリシーってなんだかわからないが、マクロビオティックの本などをかいつまんで置いてあるが、かえって、折角見なおされてきた、自然はブームがやっぱり変なイメージで近寄りがたくなるような雰囲気なのである。健康志向の私が、あつかましいが、店番をしていたほうがまだましなぐらいである。だから、このお店の存在感はとても不思議である。
家の結構近くに、幼稚園に入ったか、入らないぐらいのこどもが清楚なワンピースを身につけて、そこに名札をつけ、夕方になるとさようならと、その子達の母親が出てきて、ときに、近所の公園の入り口に、6〜7人ぐらいのグループでわっかを作り立ち話を何やら熱心にしているのである。
その母親達は、まるで決め事か、制服みたいに、皆一様な格好をしていて、スカートは必ず膝ちょいした丈の、セミフレアー、上はお上品な半袖ニットとデザイン(柄)が違うだけで、飽きれるほど同じようななりなのだ。いかにもお受験組のママと言う感じで、皆結構30代後半ぐらいで、昔はスチュワーデス出身みたいな、顔も結構整って、スタイルもいいママたちなのである。私はこのママたちを心の中でママ族と呼んでいる。どうせ優雅ぶるなら、公園の入り口を占拠して立ち話してないでメンバーの家でお茶でもするのが妥当だろうと思うからである。そこの少しいよう感じを受け取れるのは私だけだろうか?内の母は、本当に飾り気がなくて、もっと子供心にお洒落してほしいと思ったこともあるが、アイデンティティーがないと、ブランド嫌いで、内面が豊かで、気品があった。英語のサークルで異文化交流を手料理やおかしをもちよってしたり・・・。だから見掛け倒しのそんな光景に変な感じを抱くのかもしれない。
心が孤独で何を持っても太刀打ちできないぐらい落ちこんで一時は音楽すら受けつけなかった。演歌のような椎名林檎の東京の女なんかをリフレインさせたり、枯葉を聞いてみたり・・・余計悲しくなってくる。ふと、パソコンの机の上に並べてあるCHANELのCOCOの香水の香りをかいだ。
いつまでも浸っていたい。本当は気丈な香りなのに、つぶされそうな退廃的な心にもかなり響く香りだ。脳がとけるまで浸っていたい・・・。
私が大学生の頃、大学の図書館で読みふけっていた本の一つに、中原淳一の物がある。とても印象深いのは・・今の心とマッチするからだろうか・・・。巴里のアパルトマンの屋根裏部屋で、お針子で細々と生計をたてている若い娘がいったことばだった。私はふと、この窓から飛び降りて消えてなくなってしまいたいんです。きっと誰も悲しむ人もいないし、忘れられていくことでしょう・・・。きれいなこざっぱりした女の子だった。儚さが痛いほど心にしみて、その考えは美しいとさえ思った。
何故君と関わりたいなんて思ったかだなんて前は答えがあったような気がするけれど今はわからない。
でも、君はもう、私の生活の一部で、欠かせない存在なんだ。
なぜ髪を切りたくなったかだなんて昔は自分を変えたかったからとか、きれいになりたかったとか、ポジティブな答えだったかもしれない。
でも、昨日髪を切ったのは、今の自分が嫌になったから。ただ何と無く、衝動的にはさみで削ぎ落としたような気がする。
だから新しい自分の髪型が、多少不ぞろいで、おかしくても、そんなに気にならないのかもしれない。
昔は全ての事に対して答えを持っていたような気がする。
でも、今は歌を忘れたカナリアのように、答えなんて持ち合わせてはいなくて、ただ何と無く漂っている。
何事にも自信が持てて、ポジティブだった、私の中のベル・エポックは何が私を励ましてくれたのだろう。
若かったから怖い物がなかったのかもしれない。
今は全てに理由を失って形だけがそのまま漂っているような気がする。
私は、自分とはぐれてしまったんだ。
食欲の秋である。女の食欲は増したり、減ったり、変動が激しかったりする。
私も、心とは裏腹に、むしょうに甘い物が食べたくなってどか食いをしたりして、後悔をしたりすることがしばしば、ある。
しかし、最近は、精神的に比較的におちついているからか、異常なほどは欲しがらない。
しかし、帰り道に通るスーパーで、一つ84円で売っている、黒糖饅頭にはまってしまっていて、最近ではそればっかりを毎日買って帰るつわものである。しかも、袋不用カードを提示して、ポイントまでためていると言う。黒糖饅頭は以外と、コーヒーにも合うのである。
これは、自分の中では、この程度の間食で、お腹が、心が、満たされるのならとても安上がりで健康的で、とてもいい傾向なのだが、はたから見ればつわものの、ただの饅頭女である。私は薬で神経が鈍感になったのか、昔なりたくないと思っていたおばさんになってしまったのか・・それでもいい、饅頭女万歳である。
最近、とくに母と娘の間では、友達のような関係がはやっている。昔は、大人になったら、母と一緒に買い物したり、何処か食べにいったり、旅行したり、洋服などの貸し借りをしたり、友達のように親しげになんでも話し合える母娘の関係を憧れていた。
しかし、今は母親は、いつまでたってもうだつが上がらない死ぬまで親と子供の関係であるべきだと思っている。
それは決して、親離れ、子離れが出来てないのではなく、むしろ、友達親子の方が子離れができてないといえよう。
母親は永遠に母親なのだ。母親はずっと超えられない、生涯頭が上がらない厳しい、グレート・マザーであるべきだと思う。
子に無償の愛を注ぎ、子は母を一生敬う。それが本来の姿なんではないかと。
今日始まったことではないが、最近の傾向として犬に洋服を着せるのがはやっている。今日もそんな洋服を着せられた犬に出会った。
犬に洋服を着せるのは邪道だと思っていたが、最近はそんなに奇妙な感じのしないものもあり、今日の犬も、洋服を着せられて散歩していた。
私はそれを見てその犬を、「人間的な犬」と思った。どこに人間を感じたかと言うと、これは昔内で犬をかっていた時でも当たり前にやっていた行為であるが、犬だからといって糞をそのままにしておくなんていうのはマナー違反で、しっかり舗装された道では雨だろうがなんだろうが飼い主が犬の糞を回収するのだ。
私はその洋服を着せられた犬が糞をして、さっと飼い主に処理された時、「人間的な犬」だとおもった。洋服を着せられているということは野生な感じがなく、人間と同じように扱われなきゃならない・・そんな妄想がよぎった。犬にも、そう、マナーがあるのだ。洋服を着せられた犬は余計に糞を野放しにしてはいけないのだ。
詩のような物もろもろ
今私は辛いんだ
大事だったはずの友達が弱っていて本当の付き合いが出来ないんだ
クロールのように苦しい息継ぎをしながら泳いでいるみたいだ
二人はそんな関係ではなかったのに、今は、元気な私しか受け入れてもらえない、
元気な私しか必要とされていないみたいで、私の悩みは話せないんだ
友達を元気つけるにはピエロの私にならなければならないんだ
自分を殺して我慢して
でも二人はそんな関係ではないから今は離れていた方がいいんだ
なんでもお互いいいあえるようになるまで
タラン、タラン、トロン
少し高いところから下りてくる
お皿のようなまん丸の目を少し細め
ご主人の顔をしばしうかがい
つんとすましてまたいってしまう
タラン、タラン、トロン
私は気紛れ猫が好き
ある男と女が出会い愛し合い、二人でいつも一緒にいたいからと結びつき
結婚し、温かい家庭を築きたいからと子供を産み、優しく伸び伸びと育て
愛情に満ちた幸せな家庭と、優しく育った子供
その子供が独立し、また家庭を築き
木の枝が大きな手を広げるようにどんどん成長していく
ある日の私はあまりにも弱くて
音楽にしがみついていた
ある日の私はすがりつくようにココナッツの香りを
焚きしめる事を絶やさなかった
ある日の私はコーヒーの香りにおぼれてた
ある日の私は我の鋳型を取るように
ソファーにへばりついていた
言葉ほど鋭利な刃物はない
私はその場しのぎの優しい嘘に傷つけられてきた
それは私がガラス細工のようにもろいから
私を傷つけないための嘘だった
でも嘘ほどわたしを傷つける物はなかった
今まで私を裏切った人は
みな嘘をついて逃げていった
傷だけが残った
優しい嘘なんていらない
優しい嘘ほど私を傷つける物はないんだ
正直なだけが取り柄なあなただから
いくら私が壊れやすくても
あなたにだけは嘘をついてほしくない
もしもあなたに嘘をつかれたなら
それが嘘だとわかったとき
世界中の誰ひとリ人間と言う物を
信じる事が出来なくなってしまうから
*
時はまだ昭和のバブルの全盛期
何処の家にも冷蔵庫の中使いきれない食材余ってた
ホームレスもまだいなかった
みな子供らも大人達も夏休みには旅行へ行った
小学生の時クラスに
盗みぐせのある娘が一人居った
私の教材の花も盗まれた
いつも色のあせたお下がりの服を着て
家も四人で6畳一間ぐらいのぼろいアパートだった
子供ながらにもさすがにその母親に
どうぞ上がっていってと言われても躊躇してあがれなかった
ある日交通安全のポスターを描いた時
その娘が描いた車の形が変だとクラスのみなが笑った
その娘の家には車はなかった
母さんいつも内職してた
同級生のお母さんにしては随分老けてた
良く自転車に内職の荷物積んで走ってた
その娘はクラスの皆から嫌われて私はよく遊んでた
私の知らない隙に妹のおもちゃを盗んだ事もあった
母はその娘が傷つかないような形で注意した
その娘の母親感謝してた
その娘の嫌う全身アトピーの子と一緒に三人でどうにか遊んでた
母親は私がマザーテレサのような弱い物全て等しく
偏見をもたないようにと育てられた
大人になってやっと口が利けるようになって
友達を作ったが人を選ばなかった
選んではいけないと思ってた
全ての人を信じたくて見抜く目がなかった
さんざん色んな人に騙されて裏切られ
私はボロボロに傷つき人を選ぶようになった
人が怖くなった社会が怖くなった
ある日僕は帰り道
道端に咲いていた黄色い花をかじろうと思ったんだ
その日の僕は心の中に
何か後ろめたい物を抱えていたのかもしれない
だから僕は無性に花をかじろうと思ったんだ
(カミサマコレイジョウモウツライバツヲアタエナイデクダサイ)
僕はその黄色い花の黄色い毒で
切腹をするように死にたかったのかもしれない
でも僕は一生懸命生きていたんだ
文字通りぽっと消えてしまいたいんだ
誰にも迷惑をかけずに
なんの痕跡も残さずに
どうして心がこんなに急に寂しくなったのだろう
文字どうりおとなしく消えてしまいたいんだ
みんなは私のことなんてすぐに忘れてしまうだろう
私は決して薔薇にはなれないかすみそう
薔薇のほとりに蝶が舞っても蝶は決してかすみそうには目もくれない
いつも引きたて役のかすみそう
もしも私が薔薇になろうとしてもかすみそうでいないと薔薇が虐める
声が聞こえる
「ここはあなたの来るところじゃないわ 早くお帰りなさい」
薔薇はかすみそうに生意気ねと言ってでもカスミソウがいないと薔薇は輝けない
薔薇と仲良くするためにはかすみそうでいなくてはならないんだ
私の日頃の行いがいけないのでしょうか
四十九日が過ぎた時なくなった祖母は
絶対私に付いているといわんばかりのパワーを発揮してくれました
災難続きの私がやっと平安を感じられたのもつかの間
また私は小さな災難を一杯背負っています
それは私の日頃の行いが悪いから
私のことを罰したのでしょうか
神と言う存在を宇宙の創造以外は信じられないとしても
あの世にいったご先祖の気配は感じるのです
私を鋭い監視カメラで見てる
私は気丈なときは気丈なのに
何かがあって弱気になると
何かにすがりつきたくなる
それは弱い人間という物の性なのかもしれない
例えば、無神論者の私が
悔い改めたくて懺悔をしたり、
かと思うと行きの道の神社の鳥居を何と無くくぐってみたり
じゃらん、じゃらんと鈴を鳴らして礼拝したり
水晶を見つめて見たり
何かジンクスのようなおまじないをしたくなるのです
この身を清めたくなるのです
これ以上災難を与えないで下さい
それが今の願いです
結局、自分で自分の首締めた
こんなことは一体生まれてから何回目だろう
気疲れして頭がスパークして
歯止めが利かなくなって
コントロールできなくなって
突っ走って
暴走して
また墓穴を掘ってしまったんだ
昼間、地上を照らすのが太陽で、夜になって足元を照らすのが月だと、小さい頃から思ってきた
そして、太陽の光なしに月は自力で輝くことが出来ない
それは科学的には正しいことなのだが
昼間おぼろげに白い月が見えることが小さい頃から不思議だった
太陽が、休んでから出てくるのが月なはずだが
一生懸命、淡いろのオパールのようにおぼろげな白い月が
弱弱しく昼間から浮かんでいることが、よくある
それはまるで太陽の力を借りないで自分で一生懸命輝こうとしているように
昼間の月を見ると私はなんとも不思議な感じに駆られるのである
その儚さが夜の凛々しい月よりいとおしく見えたりすることさえある
夕暮れの帰り道、学校がえりのようなダウン症の女の子が
大声を張り上げて叫ぶように荒削りな歌を歌っていた
それは学校で習った歌なのか、それとも違うのか
聞いたことのない歌だったが
夕暮れの景色の中に不思議な存在感で溶け込んでいた
少女は毎日
その歌を荒削りな声で歌っていた
君と出会わなかったら私は孤独に陥らなかったかも知れない
君と出会わなければ君からの便りを待たないでいられたのに
待たされてじらされる時間はとても孤独で
君がいるから君を失う事が怖くなる
君と知り合わなければそんな恐怖を感じずに孤独でいられたのかもしれない
私はただ胸に手を当てて
両手を胸の前で交差させたまま突っ立っていた
私はその格好のまま微動だにしなかったのに
まるで全ての行動を成し遂げたかのように思いこんでいた
ただ胸に手を当てて突っ立っていた
それだのに全てのやるべきことを片付けたと錯覚していた
著作権:ココロのひろば管理人