思い出話
(我慢の子)
今の私にはできないこと・・・
「母とイアリング」
私と母は、母が死に行く3ヶ月前ぐらいから一言も言葉を交わさなかった。私が精神的に子供だったからであろう。いつもポジティブな母があまりにも苦しそうにしているのが絶えられず、優しく接することが出来なかったし言葉すらかけられなかった。もしも、長女の私だけに父親が冷静な父親で、母親の余命の話をしてくれたならば私はもっと母親との別れをきちんと出来たのに、もっと優しくして上げられたのにと後悔の嵐である。そんな私が母の日に上げた最後のプレゼントは・・・今までは私はそんなにお金がなかったから、手作りのもので済ましていたけれど、今回は、余命のことは知らずともやっぱり何かを感じたのだろう。こんな冷戦状態の母であったが、私の精一杯の気持ちをこめて父方の祖母から毎月5000円貰ってたきりの少ない小遣いの中から奮発して、当時のユザワヤのジュエリー館で、ディスカウントで買ったニナ・リッチのイアリングをプレゼントした。私はどうしてあの時病床に伏す、もう2度と洋服を着ることが出来ない母のためにイアリングをプレゼントしたのが今わかった。うちの母はお化粧を、ファンデーションと口紅と眉をかくだけで殆どしない人だったが、いつも必ずイヤリングを欠かさないで、その母が着けたイアリングの存在感ひとつで凄く華やいだ雰囲気になるのを私は知っていたからだった。母にとってイアリングは最高の魔法なのだ。だから、再び元気になってこのイアリングをつけて歩けるようになってね・・そんな願いがこめられていたのだと思う。
ペンダントでもない、指輪でもない、「イアリング」。これをプレゼントした私の願いや気持ちは母に伝わったのだろうか?
「これでボルテージが上がったわ。」これが最後の母の喜びの言葉だった。
もしも余命を知っていたなら小さいころから貯金魔だった私のことだから母を海外旅行のひとつにでも連れていったり、母だからこそ品よく着られる洋服や、高価なアクセサリーをプレゼントすることも不可能ではなかったのに。
「謙虚になりなさい」
これは母の口癖だった。たとえ、校内模試で二番を取った日でも、あなたは二番ということは一番がいるのよ、とか、鶏頭牛後になってはいけないなど、いつも高校時代テストで上から3番以内をキープしていても決して誉めてくれることはなかった。
そんな私はいつもつつましやかであった。今だったら、「ケーキ買ってきたわよ、好きなの食べなさい」と言われたら、好きなのを選んでしまうだろう。でも昔の私は必ず、「最後に残ったのでいい。先にとって。」が口癖だった。別にそれで好きなケーキを取られても悔しくもなかった。思えば、私は長女だったので、何かに付けて、妹が小さい時、私のおもちゃを欲しがった時、「お姉さんだから貸してあげなさい、我慢しなさい、1っきりだから」などと言われ我慢に絶え、あるときはある人から始めてもらったお気に入りのサルのぬいぐるみのお腹にサインペンで落書きされてもおこれなかった。そうやって「長女だから」と我慢を強いられてきたことが大きかったのかもしれない。
「白いセーター」
母のお腹に弟が出来て、弟が生まれ、ずっと妹と二人きりの姉妹だった生活が12年も続いていることが当たり前だったある日、3人目の子供の出産と共に母親は英語教室を止め、今までおしゃれだった母は身なりを構わなくなった。今でこそ、スーパーでも、それなりの洋服をうっているが、当時はスーパーの服は一目でスーパーで買いましたとうたっているかのようにデザインも悪く、みすぼらしかった。そんな服を母が平気で身につけるのはとても嫌で、妹と、母に、クリスマスプレゼントとして夜中こっそり、二人で割り勘して白いセーターをプレゼントしようということになった。結構上品なデザインのを子供二人でも無理はないけどちょっと高めのを探してきて、クリスマス用にラッピングしてもらって夜中、母が寝静まったころあいを見計らって枕元にこっそりおいた。翌朝、母はびっくりしていた。「え?サンタさんがきた?」と。もちろん、父にも不公平だから父にも何かしらのものは上げたと思う。二人してびっくりしていたように思う。むかしはこんなことがすごくたのしかったんだなあ。
「交換日記」
私は本当に限られた友達しかいなかったし、中学からは全く友達と言うものがいなかったので妹が格好の遊び相手であり、話し相手であった。その妹といつも交換日記をしていた。姉妹で交換日記をするというのは面白いパターンかもしれないが結構ないようは充実していて、妹の連載まんががあったり、私が受験シーズンになると凄い手抜きな日記が現れたり、結構最近でも、そういえば交換日記持ってる?と妹に聞かれるほどの面白いものを持っている。けっこう馬鹿姉妹度があらわれていて面白い。
「俳句」
私は詩とか、俳句を作るのは嫌いではなかった。しかし、妹は大の苦手で、「お姉ちゃん、作って〜」と、こう言うことに限ったことではないけれど私を頼ってきた。私は結構乗り気で作った。季語は鈴虫だったので「鈴虫や寝耳に響く子守唄」などと言うのを作ったら担任の先生が気に入り、更に校長先生が気に入り、「校長室の窓」という、校内誌の一コーナーにのってしまったらしく妹は複雑な気持ちだったらしい。
「共同」
よく、旅行に行くときまって父方の祖父母にお土産を買ってきた。いつも、妹と共同でというようになっていたが、毎回、なんだかんだで私もちで、少しでも出してもらった回数のほうが少ないぐらい。それでもがめついようで請求しずらく、つもり積もった額は相当なもので、おひとよしな弱気な私がいたんだな・・・。
「お茶会」
赤毛のアンなどが大好きだったわたしは優雅なことをやるのが大好きだった。だから、高校のころよく、妹を招待して、二人でお茶会をやっていた。まず、招待状を送って、何時へ何処へきてくださいとかいて、それまでにお菓子を作ってテーブルを優雅に演出しておく。今ではそんなこともあったなあと懐かしく思い出すが、元気で心が豊かだったんだなあ・・・。
「ある日のクリスマス」
それは母がなくなった年のクリスマスであった。本当は母にしてあげたかったことのひとつでもあった。妹をびっくりさせ喜ばそうとおもい、私は自分の貯金の中からアメリカの映画に出てくるぐらいの巨大なツリーを含めて合計一万円ぐらいつかって、少しずつオーナメントをかいたし、クリスマスグッズを揃えていた。それも、ツリーだけに気を配るのではなく、ガーランド、テーブルクロス、蝋燭たて、蝋燭、1輪ざし、1輪の赤いバラそしてコンビニで買った二人分のケーキ、簡単につまめる一見豪華風のオードブルやサンドウィッチなどの軽食を用意して。まず部屋を真っ白なシーツで壁が見えないようにロープで釣り、被い、180センチもあるクリスマスツリーを飾り、ライトや、ボール、林檎、ベル、天使、雪の結晶などそしてガーランドもさまざまなにぎやかなオーナメントを飾ってツリーの適当な位置に、箱に入ったオーナメントに見せかけた、指輪のはいったプレゼントボックスを飾ったりした。テーブルクロスにつかったぬのはありあわせだが、高級感が漂い自分でも驚くほど素晴らしい空間になった。そこに招待された妹がドレスアップしてノックしてくる。「わー!」妹はびっくりして言葉を失っていた。本当は母のいるうちにしてあげたかったことのひとつだったんだ。
「白い壁紙」
私と妹が相部屋だった時、和室の砂壁が古くてみっともないから友達が呼べないと妹が日頃から不平不満を言っていたので、私一人なら我慢できたが、思い立って、妹の誕生日の前日、妹が出かけているあいだに、ホームセンターへ自転車で行き、壁紙とノリをかってきて、三角定規やカッター、版画用のローラーなどありあわせの道具で一生懸命張った。もう2度とやりたくないと思うほど大変な作業だった。殆ど終わったあと妹が帰ってきた。やはり驚いていた。よろこんでいた。よかった。
「ピースボート」
遊ぶために働いているような妹、ピースボートのたびに出ました。ぎりぎりまで迷ってたようだけれど、私に相談され、私は年を取ってからの贅沢旅行と違って、若いうちに見聞を広めることはとてもいいことだと、価値観が変わって帰ってくることに期待して、雑貨屋で働きたいなどと言っている現代っ子の妹に、もっと、NPO的なことに目を向けてほしいこともあって賛成しました。貯金は全て使い果たしたようです。
きっといちもんなしになって帰ってくるだろうけれど妹のことだからすぐにとりあえずの働き口は見つかると思う。そう思ったから私は賛成したのです。出なかったらこの不況、危ない橋を渡るようなことはすすめません。多くの人はピ―スボートのことが新聞の広告に出ていたってフーんと見送るだけだけど、妹はこれを自分が行くものだと、実現してしまうんだから凄いです。妹には人生を謳歌して欲しい。兄弟の中で一番問題なく育った社会性のあるタフな妹。だから帰ってきても家のことなんていいから、それに台所に二人は要らないし、妹は家庭の世話が焼けるようなタイプでもないのでどうぞお金がたまったらまた一人暮しでも好きなように生きていってください。これは姉から妹へ精一杯の気持ちです。私は何もして上げられないからお餞別にトーアで買ったやすい布で船のパーティー用のドレスを作ってあげましたが、凄く気に入ってくれた。さて、どんなに妹は変身して一回り大きくなって帰ってくるでしょうか?
「尽くしました」
今考えればよくあそこまで出来たなあと思うことがよくある。妹に対しての我慢だ。なんだかんだ話しで気をそらし約束の時間を過ぎてのマッサージ、夜食作り、一緒に徹夜1週間定期試験の教え役、私の睡眠中に大音声に聞く音楽、携帯の話し声、部屋にいつけないような流行の歌謡曲ばかりがんがんにかけたり、半分は(妹の領域)ちらかし放題の部屋。本当に、よく我慢できたなあ・・・。
「一緒だったからなけなかった」
妹と相部屋だったから、母親の死後十分になくことが出来なかった。もやもやが残った。妹の前では気丈にふるまわなければと。そして、義理でくる人達の前でももちろん涙をこぼすわけにもいかず。納得しきれないうちにあっという間に灰にされてしまった密葬だったらな。