
侵略と支配の歴史
アラブ民族がクルド人を制圧したのが7世紀。11世紀にはトルコ人が、13世紀から15世紀にかけてはモンゴル人の侵略を受け、その後もオスマン帝国などに支配された。クルド人の歴史は、他民族による侵略と支配、内戦の歴史でもある。
第1次世界大戦の終結とともにオスマン帝国が崩壊、ウッドロー・ウィルソン米大統領は旧オスマン帝国内のトルコ人以外の民族に対して、民族自決による祖国建設をうながした。これを受けて、クルド人は1919年のパリ和平会議で独立を訴え、クルド人国家建設に向けた機運が高まった。
しかしながら、軍事力を回復したトルコが23年にクルド人国家建設を拒否する条約を結ぶ。これに対し、クルド人は25年と30年にトルコで大規模な反乱を起こし、イランでも決起している。第2次世界大戦直後、一時的に旧ソ連がわずかな間、クルド人国家建設を後押しするが長くは続かなかった。
一方、イラク領内のクルド人勢力は58年のイラク王制崩壊によって、大幅な自治の拡大と開発促進を求めたが、バース党の新政権はそれを拒否。60年代には、祖国建設を目指すクルド人勢力はイラク軍としばしば交戦した。イラク政府は70年になってようやくクルド人勢力の自治権を認めることを決めたが、クルド人勢力はイラク大統領が依然として地域の実権を握ることに反対、またイラク北部の原油生産地として有名なキルクークをクルド人自治区に編入することを要求、逆に自治権を拒否している。
1974年、イラク政府はクルド人の限定的な自治を強要しようとしたため、大規模な武力衝突が発生した。イランにイスラム政権が誕生したのもクルド人にとっては逆風となった。イランの新政権も国内のクルド人勢力を迫害、指導者を殺害するなどした。イラクのクルド人に対する攻撃もイラン・イラク戦争(80〜88年)を通して続けられ、その間に実に20万人のクルド人がイラクによって殺されている。
91年の湾岸戦争では、クルド人勢力はイラクのフセイン政権に銃を向けた。その後、報復を恐れたクルド人たち約50万人がトルコ国境付近に、約100万人がイラン領内に逃亡している。92年、クルド人勢力はイラク北部でようやく自治区を得て最初の選挙も行われた。ところが彼らはクルド民主党(KDP)とクルド愛国同盟(PUK)の2大勢力に分裂、相互を攻撃し始めた。2派が休戦に合意したのは99年になってからのことである。
一方、トルコでは、84年の創立以来トルコ市民に対してテロ攻撃を行ってきたクルド労働者党(PKK)のゲリラとトルコ軍が武力衝突。95年、トルコ政府はイラク北部にあるPKKの本拠地を攻撃、99年にはPKKのテロ指導者、アブドゥラ・オカラン氏を逮捕した。彼には死刑判決が下されたが、これまでに同氏の処刑は依然として執行されていない。
2000年になって、ようやくPKKはテロ攻撃の停止を宣言したが、最近のイラク情勢はトルコ政府を苦悩させている。米国お得意の「敵の敵は味方」的発想で、フセイン政権に弾圧され、敵対してきたイラク北部のクルド人勢力が、今回のイラク戦争で米軍と共同作戦を採り、キルクークなど同国北部の原油の重要拠点に入っている。これまで祖国を持ったことのないクルド人が、米国の圧倒的な軍事力と原油を背景に、分離・独立の機運を勢い付かせることになれば、トルコ政府にしてみればたいへん困ったことになりかねないのだ。