Column

●習慣に慣れる恐怖(2002.12.28)

 この間、会社の近くで食事をしていたときのことである。俺はカウンターで定食を食べていたのだけれど、カウンターに俺を含めみんな横並びで似たような定食を食べているのを横目で見たとき、俺はとんでもないことを想像してしまった。カウンターに横並びで食べている様子が、まるで養鶏場でニワトリがパクパク餌を食べている姿と同じであることに気付いたのだ。
 これはめちゃめちゃショックだった。俺らはひょっとして、ブロイラーと同じだったのかと…。しかも、会社の昼休みになると、こうやって毎回カウンターでパクパク食事しているのが、なんだか誰かに飼われている状態のように思えてきたのだ。そう、行き着く先は、あれしかないのだと。
 この発見と想像は結構ショッキングだったので、知人に同じ話をすると、彼はその話を聴いて以来、昼飯を外で食うとブロイラー感覚から抜けられなくなってしまったそうだ。俺の発見は、他人にとっては自覚したくない自身の姿なのだろう。

 考えてみると、世の会社員というのは、シフト制をとっているところがあるにせよ、毎日同じような時刻の電車に乗り、会社にきてルーティンワークをこなし、また同じような時刻の電車に乗って帰っていく。この習慣というのは、なんだか組織に束縛された人間の習性のようなものなのかもしれない。その一旦として垣間見ることができたのが、先の想像であったわけだ。
 この習慣は、勤め人の哀れさを表すものといえるだろう。おそらく、好んでこの習慣を受け入れている人はそうはいないはず。できることなら、家でのんびりしたい、自分の好きなことをやっていたい、そう思うのが通常だと思うのだ。けれど、働かねば収入はないし、習慣から外れることは組織の離脱に等しい。わかってはいるけど、習慣から外れることも普通したがらないものだ。

 実は俺は、試しに習慣から外れてみたことがある。あるとき、どうしても会社に行く気がしない日があって、最寄駅までは来てみたけれど、結局会社に病欠の連絡をして休むことにした。もちろん、病気どころか、飛び跳ねれるくらい元気だった。けれど、その日はどうしても会社で働こうという意欲が湧かなかったのだ。
 そこで俺は、そのまま電車に乗り、会社とは全然違う場所に向かった。そこは、場所は知っていても、一度も行ったことがない場所だった。俺は一度も降りたことがない駅を降り、一度も通ったことがない道を歩いた。道沿いには、一度も見たことがない店が軒を連ねていた。おそらく、降りた駅の最寄の人間ならば大したことがないように思える店でも、俺にはすごく新鮮に感じられた。「おおっ、こんなところにこんな店構えのラーメン屋があってんなぁー」という調子で。
 そして、目的地に着いた。そこは、芝生が広がる小奇麗な公園で、奥のほうには大きな川が流れている。一応河川敷なんだけど、平日だけに、人はほとんどいなくて、ちょうどよい日差しの中に、川面が少し輝いて見えていた。俺は芝生に根っころがり、読書を始めた。なんだか、時間がいつもとは違い、すごくゆったりと流れるように感じた。いつのまにか、俺はうたた寝を始めていた…

 習慣からほんの少し外れて、それも、ただ降りたことがないからという理由だけで降りた駅の周りの体験は、俺にその間だけ開放感を与えた。そう、習慣に従属しなければならないという義務から。つまり、世の中の人というのは、俺も含め、それだけ習慣に縛られているものなのだ。もし、自分の意志と関係なく外れることがあるとすれば、その時はかえって不幸に陥るに違いない。習慣がなくなるという喪失感によって、その人の活力や気力をも奪い取ってしまうのだ。
 同じ習慣を外れるならば、自分の意志で、自分のやりたいことのために外れたほうがよい。日頃の習慣というのは、むしろそれに慣れることに恐怖感を持つべきだろう。