Column

●芥川賞と直木賞(2004.1.19)

 この間、芥川賞と直木賞の発表があったが、直木賞はともかく、芥川賞のほうはずいぶん物議を醸した。芥川賞の受賞者である綿矢りさ氏と金原ひとみ氏は、ともに19歳で、最年少である。それだけでも、世間は一様に驚きを見せた。

 ただ、俺自身は、この年齢での受賞というのは、さほど驚かない。女性の作家であるというのも、別段特に関心を持つというわけでもない。以前にも、鷺沢萌氏など、優れた若手の女性作家はいくらでもいたから、新人が取る賞としては、特に違和感は感じない。

 問題なのは、彼女らの作品が、果たして純文学といえるのか、というところである。芥川賞の対象とするところは、賞を選定している文芸春秋によると、各新聞・雑誌(同人雑誌を含む)に発表された純文学短編作品中最も優秀なるものに呈する賞(応募方式ではない)とされ、主に無名もしくは新進作家を対象とする、とある。
 ここでいう「純文学」という定義が、最近は非常に難しくなっている。本来の純文学の意味は、純粋な芸術性を追求して創作される文学のことを指す。つまり、作品に芸術性がなければならないのである。

 では、文学の芸術性とは何か。実は、これが極めて曖昧で、決まった杓子定規があるわけではないのだから、非常に難しい。芥川賞の作品というのは、どこか小説自体が親しみやすさから大きく離れ、人間の奥底とか社会の表と裏の交差なんかを描いている、といったイメージがある。端的な言葉で表すとすれば、それは「孤独」「故郷」「内実」「時のかけら」などがふさわしい。テーマが重く、暗いのである。アイデンティティに目覚めたとか、親に対するトラウマから逃れられないとか、田園風景を眺めて故郷に思いを募らせるとか、ストーリーは深く、そしてさらに深く、なのである。

 しかし、今回の芥川賞の2作品からは、必ずしもこれらのテーマを感じない。「蹴りたい背中」にしても、従来の暗さはあまり感じない。文体もボキャブラリーも、少しも難解ではない。そこにあるのは、圧倒的な感受性と内面の世界である。一見稚拙に見える表現や語彙、セリフは、すべてが絶妙に絡み合って、それらの世界を体現させるのだ。
 「蛇にピアス」も、人物関係や内面などを深く描写している割には、暗い側面をはっきりと覚えることは出来なかった。それは、主人公の壊れそうな心を覆うピアスが、そう見せているからかもしれない。
 彼女らの書く世界は、純文学に慣れた大人な人にとっては別世界であるし、批判はあって当然だろう。けれども、その批判が、表現の稚拙さやセリフ、舞台などにあるとすれば、それは的外れである。彼女らが伝えようとするところは、もっと違う意味なのである。正直、彼女らの真の評価は、20年くらい経ってみないとわからないだろう。

 一方、直木賞は、大衆文学を代表する賞として、芥川賞と並んで行われている。直木賞は、ある程度「ああ、この人かぁ」とわかるような、つまり、ある程度誰が受賞するが予測がつくというパターンが多い。順当なのだ。芥川賞と違って、選考対象に中堅作家が含まれるというのも理由だろう。今回受賞した江國香織氏や京極夏彦氏も、大方受賞が予測されていたので、受賞に驚いた人などほとんどいなかったのではないだろうか。
 第一、大衆文学のほうが、妙に暗い純文学よりもずっとわかりやすいし、暗さがあったとしても、読み終えたときに何とも言えない爽快感がある。

 それゆえに、芥川賞と直木賞とでは、直木賞を受賞した人のほうが、圧倒的に売れる作品を世に送り出しており、作家として大成する人が多い。芥川賞をとっても一時的には売れるのだが、その後が泣かず飛ばずになる人が多い。これはやはり、芥川賞をとることで芸術性があると評価されつつ、一方で固いものを書く人なのだろうという呪縛から逃れにくくなり、かつ作家の性格的に売れセンの作品をあまり書かないことが考えられる。
 最近5年間の芥川賞受賞者の中で、普段あまり小説を読まない俺自身から見ても、ぱっと名前がわかった人は、平野啓一郎氏と町田康氏くらいだった。
 それに対し、直木賞は、宮部みゆき、桐野夏生、なかにし礼、船戸与一、重松清、藤田宜永、唯川恵、そして村山由佳の各氏を知っていた。ベストセラー作家も何人かいるし、考えてみると錚々たる顔ぶれである。

 このように見ると、芥川賞は新人賞で、直木賞は一作家につき1度だけ受賞が限定の最優秀作家賞のような感じがする。もちろん、村上龍氏や柳美里氏などのように、作家として大成した人もいるのだが、大衆文学のほうが圧倒的に隆盛を保っている今日、今までのような純文学を期待すること自体がおかしいと言えるのかもしれない。