なぜ古典は大切か。

 

最近、ヨーロッパまで遠路出かける用事があり、途中でイギリスにも立ち寄ってきました。新大陸ではあまり考えない、「古典の価値」について、昔から感じていることを書いてみます。

古典というのは、誰もが引用したり言及するけれど実際には誰も読まないもの、という浅いジョークがあるけど、そもそも旧いものが残っているとはどういうことか。歴史はあってもあまりそれを大切にしない、新しいモノ好きの日本(関西は違う考えがあるかもしれないけど)からヨーロッパに行った人は、旧い街並みや建物が残されていることに気づくと思うけど、名所・旧跡を訪ねるとはどういうことか、古典を読むとはどういうことか。「旧くてステキだわ」ということだけにその思いを留めずに、古典の大切さを噛み締めてほしい。

旧い物を残す、次の日までとっておく、というのは、実は能動的な行動です。黙って放置してあるだけのものは、やがて腐敗したり紛失したり、焼けたり移動中に壊してしまったりする。引越しの経験がある人は分かるでしょう。次ぎの住居に移動するときに、持ち歩きたい物とそこで捨ててしまうものを、人は選別する。日頃出会う風景でも、写真にとって残したい風景もあればそうでないものもある。読んだ本も、古本屋に売ったり捨てたりするものもあれば、大事に読み返すものも、少ないけど、存在する。「これは残したい」と思ったものだけが、ふるいにかけられて、生き残っていく。

保存を可能にする技術、というのは、実はそれほど古くから発達していたわけではない。複製を作る、長持ちする媒体に保存する、腐食を防ぎ、地理的に広めやすい媒体を介してあちこちの人に広める。こういうことが可能になったのは、実はつい最近のことだ。それ以前の記録というのは、実は、大変な労力のもとに作られている。コピー機のない時代、電話のない時代、紙のない時代。長距離の移動に時間を要した時代。または、技術があってもそれがprohibitiveなまでに高価だった時代。そういうときに、「これを残してあの人に伝えよう、自分の子供に伝えよう」と思いつく事は、実は、かなりの思い込みを要する。

昔のヨーロッパの文化活動のハブを訪れたら、旧い図書館に行ってみることを薦める。オックスフォード、ケンブリッジ、さらにはローマ、プラハ、ウィーン。手ごろなところでは大英図書館。そこで、「文庫本」ができる前の時代の勉強とはどういうことだったか、見てみると面白い。中世の「本」は、高さ1mくらいあるのも珍しくなく、大概、閲覧台に鎖で括り付けてある。字面は、もちろん手書き。あれだけの巨大な本を、1頁ずつ手書きで書き写し、高価な紙に転写する。もちろんそんな本なんて貸し出しできないから、閲覧に来てありがたくその巨大な本を拝む。図書館で論文を探して、軽くダウンロードしたりコピーをとって(それだけで読んだ気分になってしまうから不思議だが…)、という今日とは、桁違いの労力と無駄を覚悟で、昔の人は知識を伝達してきた。それは、そこまで骨を折ってまでも保存したい、伝えたいと思う価値を、その知識の中に人々が見出したからに他ならない。

そうして伝達されてきた知識の中には、今日まで生き残り伝えられたものもある。それが「古典」だ。例えば、Blackwellsに並んでいるアリストテレスのペーパーバックは、その本棚に並ぶまでに、アテネの石板にまず書きとめられ、アラビア語に翻訳されてバグダッドの書庫に羊皮紙で保存され、地中海を渡り、フィレンツェの宮殿の書斎の幅1mの本に写され、手書きで複写されヨーロッパ各地の修道院に渡り、グーテンベルグの発明した製本機で一字ずつ文字を組んで印刷され、…というプロセスを経て、ある学生が立ち読みしているその手に渡っている。今に伝えられる古典は、実は、そんな気の遠くなるような、時空を超えた旅を経て、現代にひっそり息づいている。

その過程で、どれだけの名作が失われたことか!古代ギリシャにはきっと、今知られている以外にも、無数の劇作家、哲学者がいたに違いない。けれども、記録として保存され、長旅にも負けず海に沈んだり焼かれたり腐ったりすることなく、物理的に生き残っていない限り、その存在を今日確認することはできない。

それだけの長旅を生き長らえるというのは、ちょっと想像してみるだけでも、容易ではない。媒体の物理的制約、経済的制約。それを運搬する手間。安全に保存する場所の確保。生き残っているからには、単純な「運」のほかに、それだけ「これは面白いから残したい」と思わせる何かがその書物にあったからだ。だから、アリストテレスの書物が今オックスフォードの街角に置いてあるということは、そこに至るまでに、古代ギリシャの学生もバグダッドのイスラム僧も、地中海の船乗りもメディチ家に仕えた学者も、アヴィニョンの聖職者もドイツの印刷工も、道中のすべての過程において一度たりとも鎖が途切れることなく、一人残らず、「この本は面白いから、もっと多くの人に、自分の子供に、見せてやりたいから、多少骨を折っても、保存し、広めよう」とかなり強く感じたからに他ならない。その途中で、一人でも、「これはどこが面白いか分からない。面倒だから、いちいち手で書き写してなんかいられない」と思われてしまった作品というのは、ものの数年で、歴史上から消滅している。

そこまで時代を超え地理を越え、すべての人の心を強く打つ何かが、「古典」と呼ばれる作品の全てに眠っている。それに触れ、自分がまたその感動を共有することは、実は、その大河のような「感動!」の歴史と一体化することに他ならない。そしてその大河と一体化するとき、その読者は、時間を超え地理を越え、およそ人間である以上すべての人が感じ入るドラマに心を打たれ、思想に共鳴し、意図せずして、全ての人のコアに響く普遍的な真実なり善なり美が存在するということを証明する。古典作品の中には、そんな宝石が眠っている。そして、それを手に取る人の中にも、その宝石が眠っている。その宝石を通じて、読者は、遠く離れた国、遠く離れた時代の人間と結ばれる。それは、誰もが大事にしたい宝石、あるいは人間性、人間である以上信じることのできる理念、大切にしたい美というものが、宗教戦争や生活風習の差異や千年の「世代間のギャップ」を超えて、実は存在するのだという希望を僕達に与えてくれる。(…ちょっと言い過ぎかな。)

1年前のヒットソング、ベストセラーですら陳腐化してしまう今日、こういう宝石は、逆に尊ばれなくなった。とにかく新しいものを、とにかく「進歩」を目指すようになった(実はこれ自体最近100年間くらいのトレンドに過ぎないんだけど)今、僕達がどうやってここに来たか振り返る事、おばあちゃんの生活の知恵の中に息づいていることを評価することには、誰も「時間がない」。だから、歴史教育の意義も、古典の意義も、家族と過ごす時間の意義も、先生との会話の意義も、あまり省みられない。それで、本当に進歩しているのか、本当に豊かになっているのか。本当に価値あるものとは何か、分かったのか。「文化」の伝播がこれだけ簡単になり、こうしてウェブサイトに全世界から覗ける落書きをすることも可能になった今、果たしてどれだけ価値のある文章に出会うことができるようになったのか。

古典に出会うことは、その文化で受け継がれてきたことに共鳴すること、より広くは人間としてもって生れ育まれた根源的な感性を立ち上がらせることに他ならない。そして、その出逢いは、僕らを謙虚にさせる。同じ悩みを生き、同じ偉大さを求め真実を求め、善を求め、美に酔い称える。そういうことをしてきた先人を知る事は、自分の小ささを知り、自分の書いたものが5年後、ましてや5百年後に読み返す価値があるのだろうかと0.5秒くらい考え、恐れ縮むことにつながる。翻って、市場経済という仕組みの中での「流行品を購入する消費者A」に還元されない自分の価値、人間の歴史という大河の中での自分の存在意義は何なのか、自分はその大河の中で埋没しない何かを残せるのか、考えて絶望し、また勇気づけられる。その自覚はまた、自分はどういう「人間」として生きたいのか、というインテグリティ、筋の通った生き方の大切さを教えてくれる。

大学を卒業した春、1年生のとき樋口陽一先生の講義で紹介されたJSミルの「自由論」の海賊版翻訳に、仙台の歴史博物館で出会った。それは、明治の自由民権運動の活動家が、当時「危険思想」として御法度だったその書物を筆写し、同志の間で地下でcirculateしていたものとして展示されていた(ように記憶している)。それを見たとき、僕は思想の重さ、展示されている1冊の書物の尊さにひどく感銘した。その後、オックスフォードでまた「自由論」を掘り下げて勉強する機会があり、ミルの他の作品も読んだ。Bodleanの書庫から「発掘」(あの手間、何とかならないものでしょうかね!)するミルの作品には、どれも学生の手垢が濃かった。ミルの置かれた歴史的な環境を知ると共に、その思想にはhuman flourishmentを尊ぶ古代ギリシャの思想が生きている、というようなことも学んだ。オックスフォードの暗い図書館で学生に交じってそう学び(静かに)興奮していたとき、僕は、古代ギリシャの思想が流れ流れてヴィクトリア朝のイギリスに受け継がれ、それが日本の自由・民主主義へと紆余曲折を経て受け継がれ、さらに東大法学部の学生に今も語り継がれ、またオックスフォードのPPE-istが今もチュートリアルでその尊さを熱く議論しているという、その壮大な思想と格闘の歴史の真っ只中に身を置き、圧倒されていた。

時の流れは、真に価値のあるものだけを選び生き残らせる最も効果的な(しかし、時間のかかる!)審判を下すことができる。市場経済という審判も、ある意味、価値のあるものを残すことができるが、本当の宝石を残す、という意味において「時間」には勝てない。(だから、市場経済が万能と信じられる時代になって、実は多くの価値あるものが、歴史から永遠に抹殺されている。)価値のあるものが歴史を通して受け継がれることを、英語で「時間の試練に耐える(to withstand the test of time)」というが、今まで生き残っているものの重みも、ヨーロッパで実感すると思う。そして、やはり、その中で謙虚さを知り、自分の価値は何か?自分という人間は何を残すことができるのか?という青春特有の悩みにもまた、大いに直面すると思う。

だけど、一番言いたいのは、何もヨーロッパまで行かなくたって、日本でも、落ち着いて身の回りを見渡せば、十分そういう重みを認識することができるんだよ、ということ。自分の家族から初めて、近所の図書館に行けば、自分の通っている大学に行けば、そこにいくらでも「宝石」が眠っている。大切なのは、流行に躍らされず、そもそも人間としての自分の本質を見つけること。日本にだってどこにも負けないくらい、美を追求し、真実を求め正義の実現のために闘ってきた人達の積み重ねが重く沈殿していて、今日に受け継がれているのだから。要するに、日本にも歴史があり、古典があるのだから。求めよ、さらば与えられん。(平成14414日)