大学のエッセイ課題に取り組むような気持ちで、いつの時代にも流行った政府バッシングについて、少し建設的な反論をしてみたい。
ちなみに、英国留学を考えている人が読者の中にいたら、エッセイや試験答案の書き方の一つとして、1.Propositionに対する賛否を論じる、だけじゃなくて、2.Propositionの根拠や前提とされている発想自体にチャレンジする、という2「層」の論法が、(うまくいけば)個性的な思考力やargument力を示すいいやり方として評価される、ということを感じ取ってもらえるとありがたい(別にこの文章自体の出来がいいとは思わんが)。
ま、能書きはいいや。
背景:
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T外務大臣の私的懇談会の開催について
1.T大臣の私的懇談会第4回の会合が行われた。本日の会合は、国家論を議論のベースとして、我が国の につき意見交換が行われた。
2.本日の会合の出席者は以下の通り。
○有識者(五十音順)
・G.C. T大学名誉学長
(中略)
3.本日の会合において出された主な意見は以下の通り。
○ 国家とは、国民が幸福を追求するための国民の「道具」であるべきである。
○ 国家の意思決定権については、国家行為の負担者であり受益者である有権者集団がこれを持つべきである。
(以下略)。
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反論開始。
「国家」(=「政府」、もっというと、文脈も踏まえればここで念頭にあるのは「官僚組織」なんだけど)が、国民の幸福を追求するためにある、という点は一見納得しやすい。でも、「国家とは国民の道具である」という発想は、国家と国民が完全に分離してしまっていて、何だかオカシイ。これを、「官僚組織は国民の道具である」といえば、なんとなく、しっくりくる。それは、官僚と国民とは分離していて、放っておくと官僚組織は自己目的化して国民から乖離してゆく、というような発想が支配的な今日、なおさらタイムリーで魅力的な「標語」に思える。
でも、こういう標語の根底にある発想は、実は、国民が自らの運命を決定するという、民主主義を支える自治の精神と相容れない。そして、そのような乖離が、ワイドショーを見て「官僚ってのは困ったモンダ」と言って済む話ではなくて、本当に深刻な問題をはらんでいるということを指摘したい。結論を先に言うと、この標語は、ワイドショーの視聴者に対して「官僚って悪い人たちだねっ」と呼びかけるだけのネガティブな意味しかなくて、国民の幸福を実現するためのよりよいやり方は何か、という点になんら答えていない。そればかりか、「官僚とは違って、我こそが『有権者集団』に近い、国民と直結している、台所感覚をもっている」と標榜する独裁者の出現を用意している、とすら言える。
それでは本論。
まず言いたいのは、「国家=官僚組織」という発想を止めよう、ということ。自治、自己責任の発想をもっと持たないと、官僚組織批判も、いつまでも迫力がない。国家とは、市民一人一人が参加して作るものであって、参加する権利の上に眠っておきながら「国家批判」をするのは見当違いだ。参加する権利の上に眠る、というのは、例えば、ワイドショーを見て惰眠をむさぼること、新聞を読まないこと、社会全体の人がどんなことを考え何を望んでいるか全く気に掛けないこと…、こういうことを言う。国家は、僕たち一人一人が作っているのであって、その盛衰に関わる名誉も恥辱も、僕ら一人一人が負っている。官僚だけが日本の発展の手柄を独占するのがオカシイのと同じくらい、日本の停滞の責任を官僚だけが問われるのも不当だ。
「国家が国民の道具である」というのは、だから、「国家」は「国民」とは別に存在するもの、という発想を前提にしているという点で不当だし、この標語の「国家」を「官僚組織」に置き換えても、なお同じ。
こういう珍妙さがさらに際だつのが、「道具」という言葉。確かに、官僚組織は国民全体の福祉向上のために奉仕する道具だけど、大事なのは、その道具を誰がどうやって使うのかという点のはずで、これについては、このフレーズは何もいっていない。その次のフレーズによると、つまり、「その道具を使うのは有権者集団だゾ」ということなんだけど、じゃあ、その有権者集団とは何か、どうやって一人一人の意見を集約するのか、ということについては何も答えていない。このフレーズは、そもそも「これからこういう政治を実現致します」という公約ではなくて、「官僚って困った連中だよね」というだけのメッセージしか意図していなく、道具の使い方については沈黙している。
その議論が不在なままで「国家は都合のよいように使える道具だ」ということになると、国民全体のためのはずの国家財政を地域、業界のエゴの食い物にしてしまおう、という話にすぐにつながり、争奪戦が始まる。国家百年の計なんて、あったもんじゃない。
この沈黙、政治の機能不全が危険をはらんでいる、という話を次にしたい。
政治の機能不全、有権者集団の意向をどう集約するかについて「お手上げ」という状態になっていると、「これこそが有権者の声だ」と何をとって答えても許される世界になる。今の日本国民の声は、後楽園にあるのか「台所」にあるのかセンター街にあるのか。代表的な日本国民とは、小泉弁当を買う人たちなのか、外国に流出する優秀な学生達なのか、ネットで僕の稚拙な文章を飽きずに読んでくれている皆さんなのか。こういう多様な「有権者の声」をバランス良く吸い上げ、それを国家の資源配分をどうするか、何を国家として目指すか、という意思決定に公正に関わらせるためのシステム、というのが議会制度の建前なのであって、完全ではないのはもちろんだけど、国会議員というのは、そう言う意味で、日本の有権者集団の一番正確な「縮図」であるべきだし、事実、そうなんだ。僕らが選んだのだから。だから、既存の議会制度そのものを過度に軽視すべきじゃないし、それを素通りして「有権者の思いは他のところにある」と安易に主張するべきではない。
有権者集団が国家の意思決定権をもつべき、というのは当然のあり方で、何もいまさら力んで主張する話でもなかろう。しかし、真剣に考える必要があるのはその先、つまり今存在する議会制度の建前をどうやってうまく機能させるか、という問題なのに、それをすっ飛ばして「実は有権者集団を代弁してるのは私でーす」と勝手に主張する個人が登場しだすと、これは危ない。という意味では、僕は、今の小泉純一郎、田中真紀子といった政治家の登場は、「有権者との直接の結びつき」を主張するだけに、危なっかしいなあ…と思っている。
では、なぜこういう浅はかな標語が横行するかというと、それは、既存の「有権者集団の意見の汲み上げシステム」、つまり国会議員の集合体と彼らが繰り広げる政治バトルの現状に、多くの国民(特に都市部や、こういうネット上のコラムを読むような人たち)が失望していて、参加する意義を見いだしていないからだ。このことと、官僚組織が腐敗していることとは、とりあえず直接の関係はない…と思う(つまり、型破りの政治家の登場を国民が喜び、ワイドショー感覚で国会中継を見ているのは、官僚に対する失望ではなく、永田町に対する失望から来ている)。当たり前だけど、官僚組織は、国民の利害関係を調整する役目をそもそも担っていないから。
にも関わらず、国家=官僚組織を国民の手に!という標語は、諸悪の根源を政治家から官僚にすり替える効果をもっているから、さらにタチが悪い。本来関心が向けられるべき「政治家にもっとがんばってもらって利害調整をしてもらわないと困る」というようには意識が向かず、「やっぱり官僚が悪いんじゃないの」としか発想が働かない。もちろん、こんな子供だましの操作で納得させられるほど日本国民は頭が弱いとは僕は全く思っていないけど。
じゃあ、なぜ国民の心は政治から遠ざかってしまったのか。よく言われているように、政治家の質が低いから(ひいてはそういう政治家を選んだ有権者自身の水準が低いから)、という理由は、僕は当てはまらないと思う(そもそも、そんな情けない理由を信じたくない)。僕はむしろ、日本の政治メカニズムのあり方が時代に適合しなくなったからだ、と思う。
ある意味、戦後の日本ではずうっと本格的な政治アジェンダはなかった。階級対立も地域間対立も世代間対立も驚くほどほとんど存在しなくて、1億が火のタマとなって農村を離れ都市に向かい核家族化し太平洋ベルト地帯の工業化を進め、ほとんど全国民が「全国総都市化」の流れにのった。もちろん、その過程で、そういう流れに反対した地域・階層というのはあったし、それが政治アジェンダにもなったけど(公害とか、安保とか)、国を分裂の危機にさらすような危機には至らなかった。
そういう政治アジェンダの存在しないところでは、政治メカニズムも、試練を経ることがなかった。だから、国会は、理念の相違に由来するゼロサムのバトルの場ではなく、「皆で仲良く高度成長のうまみを山分けしよう」という「分配」のシステムであれば十分だった。それを効率的にするのを手伝ったのが官僚組織でもあった(公共事業や産業振興)。
今はそれが変わりつつある。高度成長でもないし、人口はどんどん高齢化している。利害調整は、今度は、減りつつあるパイの分捕り合戦へと様相を変える。(これは醜い争いだけど、本来政治闘争というのは究極的には人間の生存競争なのであって、そういうことに命を懸けて取り組む政治家自身が汚らわしいわけじゃない。)こうなってくると、地域間(農協対都市)の対立、階級・職業間の対立、世代間の対立(社会福祉の負担分配、世代間の隔離)というのがより先鋭化したり、陣営の区分が変わってきて、これまでのやり方では対応が難しい。機能不全を引き起こしている諸戦後システムの改革の中で、一番必要なのが、こういう政治のやりかただ(例:農協の利益ばかりが声高に吸い上げられ、国際化し知識化する都市層の声がうまく吸い上げられないようなシステムをいつまで維持するのか)。だから、冒頭のようなフレーズの次には、いかに政治を改革するか、という話こそが来るべきなのであって、自己変革できないフラストがあるのは分かるけど、政治家たるもの「私は官僚の尻を頑張って叩いてます」で終わっちゃいかん。
政治改革のビジョンなしに、「国家は国民の道具、そして有権者集団の意見を誰よりもよく分かっているのは私ヨ。だから国家も官僚も、私の道具、ってわけね」という政治家が跋扈するということは、これまで同様に全体のパイが大きくなるから皆で分け前に預かろう、という旧来の発想で、停滞し高齢化する国家の貴重な資源を食い物にすることになる。そして、国家の方針すら見誤って全国民の生存を危険にさらすような悲劇が、60年ぶりに起きることにすらなりかねない。
官僚組織は確かに道具かも知れないけど(官僚の個人個人は人間的な味のある人たちだと思うけど)、その道具の腐敗を許すか、さもなくば道具の使い手の暴走を許すか、という究極の二者択一だけが僕らに残されているわけではない。「国家は国民の道具である」という標語は、その先のもっと大事な取り組み:「その道具を自分たちで賢く使えるよう、よく勉強して、よく議論して、必要な決断をして、その責任を自分で受け止め、失敗したら政治家をクビにしてよく反省して、軌道修正をしましょう」という政治の本質について沈黙しているし、問題の所在をすり替えているという意味でミスリーディングだし、さらには下手をすると「道具の使い手」の暴走を許すという危険をも孕んでいる。
そこで畳みかけるように結語。
「道具」とその使い手とのバトルは、確かにいいワイドショーの題材かも知れない。でも、そのバトルの行く末は、芸能人の幸不幸やプロレス中継と同じ次元の問題ではなくて(一見同じだからまた笑っちゃうけど)、電話が盗聴されることなく、僕らの恋人や子供達が餓死したり家から焼き出されたり集団強姦されるようなことなく、東京タワーがひん曲がったり富士山が形を変えるくらい外国に爆撃されるようなことなく、明るい未来を暮らせるかどうかを決定するだけの重みがある(現実にこういう仕打ちを受けている人は世界を見渡すと案外多い)。それだけ政治というものは、重くて尊い、幸福実現のための「可能性の技術」であったはずだ。偏差値エリートとテレビ映りだけの政治屋のプロレスをただ外野で観戦していることそれこそが、「有権者不在の政治」そのものであり、それはそのまま、有権者集団が分解するか、その結果産まれる専制政治(これこそが今僕らが闘うべき「テロ」だ)の圧迫と失政のもとに消滅するかという結末すら、予期させる。冒頭のようなフレーズは、だから、背後に独裁者の気配が感じられるという意味と、その怖さが「有権者」にあまり気づかれていないという二重の意味において、おっかない。(平成13年12月14日。違う理由で有権者が不在の軍事政権下の国より(ただいま出張中)。)
追伸:ここ(P国)では軍事政権下でもそれなりに人は楽しそうだけど、でもやっぱり、政治に参加する自由のある方がいいと思うけどなあ…。