なぜ歴史を学ぶか
しかし、その次に起こる思いは、その死を無駄にするまい、という決意と、その貴重な貴重な命を預かり決死の作戦を命令した上官(究極には、政府であり、国家元首であるところの天皇)に対して「アンタのために息子はここまでやったんだ。頼むから、いい加減な判断じゃなかったと言ってくれ」という、祈るような、ある種の責任追求の気持ちだろう。子供を失った親の気持ちは、ただただ美しさに感動するわけではなかろう。
11.僕は、特攻兵が単なる「殺人者」だとは、無論、考えていない。国家のために犠牲を厭わず、死の恐怖を克服できる自律心、勇気は賞賛に値する。その英霊の犠牲の上に、今の日本があると、本当に思うし、今の自分には、彼らが命を懸けて守ろうとした日本の安全と繁栄を、同じように必死に守る責任があるとも思う。
12.しかし、そのことと、特攻隊は「美しかった」と陶酔に耽るのは別だ。特攻そのものは、美しくも何ともない。
Saving Private Ryanという戦争映画の戦闘シーンが現実をよく再現していると言われるが、そこにあまり「美しさ」を感じる人はいないのではないか。ボクシングをしたことのある人も分かると思うけど、予測不能の相手の動きにびくびくしながら、逃げ、ロープに逃げ道をはばまれ、観衆に駆立てられ、興奮し、パンチを一発くらい、二発くらい、鼻血を出し、歯を折り、頭に鈍い音が響き、レバーを衝かれ呼吸ができなくなり…(武器なしかつ厳正なルールのある格闘技でこれだからね)これを美しいと思う人は、喧嘩を一度もしたことがない人か、一度喧嘩してコテンパンにやられた自分の尊厳を回復したい、と切に願っている人か、のいずれかじゃないかと疑う。13.従軍した親戚が、戦争体験を語ることは稀だった。聞くことがあっても、彼らが再現するのは、負傷して悲鳴を上げる敵味方の若い兵士の声であり、絶命するときの彼らの「お母さーん、お母さーん」という声だった。僕の祖父は、死んで行く兵士は「天皇陛下万歳」とは言わなかったし、「お父さん、お父さん」とも言わなかった、ということを教えてくれた。別の親戚は、特攻隊の上官であったことを重荷にして戦後を生きた。経験的には、僕は、戦争体験が「美しい」とも「痛快」だったとも信じられない。これは、日本が敗戦国であることとは何ら関係がない。戦争に勝つ、負けるということと、一人の兵士が経験する戦闘現場の無秩序さ、血の量、悲鳴の量、失われる命の貴重さ、とは、何も関係がないと思う。
14.戦争は美しくないし、ビルに旅客機を突っ込ませることも、美しくない。
しかし、愛する他者のために献身すること、これは美しい。それは、その献身を通じて、その一人の命が、一個人のもの以上のものになり、他者なり共同体に受け継がれ、あるいは理念の実現という形で永遠のものになるからではないか。そのとき、人は、自らの意志に基づく行動を以って、一つの固体としての存在を超越する。そこに、僕らは、人間としての「偉大さ」を見出し、美しさを見出す。…この点はまた後で触れる。
15.だけど、と言ってここで急いで付け加えるのは、その美しさを発揮するために、何も自爆する必要はない、ということ。ここで僕が言っているのは、愛する人のために自己を顧みず献身することは美しい、ということであって、「命を捧げる覚悟」は、自衛隊員は別として、市民一般に強要するものではない。
16.僕が小林よしのり「系」の議論(「系」というのは、彼の議論を完全に理解できている自信がなく、それゆえに一貫した議論として把握できていないので)と同調するのは、この共同体のために献身することの美しさを再認識しよう、という点。その献身とは、平時においては、すなわち、政治参加に他ならない。地域のため、日本のため、世界のため(小林が言うところの「公」のため)に、個人のエゴイズムを越え、心から慮る仲間、子供達のために努力することは、「侵略戦争」の肯定とは何も関係がない。市民には政治参加の義務がある、ということや、国家のために命を捧げた先人(それはなにも特攻隊員だけでなく、2.26事件で凶刃に倒れた政治家や、自分の愛する子供を戦争で失った遺族や、あるいは戦後過労死で亡くなった官僚達も、すべて含め)の名誉を回復したい、という点も、同意する。
17.同意しない点その1は、個人が同調・一体化する共同体は、ただ一つのものに固定化されない、ということ。一生を自分が生れた村で終わる人であっても、人は、生れた国のみならず、家族、友人、恋人、故郷、自分が崇拝する英雄、ファンのサッカー・チーム、…それぞれと、同時に、一体化し、それぞれのために多少の犠牲を覚悟しうる。それに、その忠誠心は、時と共に変化さえし得る。だから、例えば、僕自身が日本国民であることと、マイケル・ジョーダンのファンであることとは何ら矛盾せず、アメリカ人と一緒になって90年代のシカゴ・ブルズの黄金時代について語ることができる。
18.同意しない点その2は、潔く滅びゆくことは美しい、という命題。人が滅びることは、理屈ぬきで、あまりにも悲しい。神風特攻隊を考案した軍部が、それを美しいものだと自己陶酔に耽りながらその作戦を練っていたとしたら、僕は怒り狂う。桜が散ることと一人の人間の命が奪われることとが、同じく美しいものである、という感覚に僕は同意できない。僕は、桜の散る姿、これは美しいとは思う。しかし、人間の美しさというものは、自然現象の美しさとは違う次元のものであって、時には自然の流れに反してまでも自らの意志を実現しようとする、その意志の力にあるのではないのか。自然の流れのままに行動すること、これは人間としての美しさではなく、動物としての人間の姿に「過ぎない」。勿論、動物は動物として美しい。しかし、美しいのは健康な18歳の少年少女(それが動物としての人間の「全盛期」だとして)だけではなく、年齢や健康上のハンデを負いつつそれを克服しようと懸命になる姿もまた美しい。それは、そこに自然の流れから起ちあがろうとする人間としての意志の発現を見るから、美しいと感じるのではないか。そしてそれこそが、人間としての美しさではないか。
19.自然と一体化したものとしての人間(動物)の美を礼賛することには危険がある。それは、自然の勢いとして規定されるところの「現実」あるいは「その場の雰囲気」「空気」を無条件に肯定し、それを批判し変更しようとする人間の意志の自由を封じ込めてしまうからだ。人間と動物の違いを認めない、という発想も確かにあり得る(人間もまた大いなる自然の一部である、というように)。しかし、そのとき、人間としての倫理意識、人間としての自由な意志というものは、およそ否定されることになる。そして、そのような「人格の否定」は、共同体が自然に依拠したムラ社会において、特に発生しやすい…。この自然と人間の混同と、自然な共同体としての日本国家という2つの前提が合体すると、確かに「神風特攻隊は美しい」と思えるかもしれない。そして、この2つの前提の合体というのは、実は最近の「日本滅亡論」や、「明治国家礼賛論」の前提をもなしているような気がしている。どちらも、自然のように栄枯盛衰する日本国家のバイオリズムを不可避のものととらえ、人間社会があたかもそのバイオリズムと波長を同じくしたものと扱い、それを分析的に理解することも、建設的な働きかけをしようとすることも放棄してしまう発想。これは自由な意志を持つ人間のやることではないはずだ。こういう発想の支配するところでは、およそ「可能性の技術」としての政治など、実現するわけがない!あるのは、調子が良い時の勢い任せの尊大さと、調子が悪くなったときの卑屈な縮こまり。どちらも、後世に対して無責任極まりないし、せいぜい場当たり的な対処療法に終始するだけ。…バブルの前と後も、そうだったではないか。
20.(随分話が脱線…関連する話は「人はなぜ倫理的であるべきか」というところで少し触れています…したのでもとに戻って)僕が小林よしのりと同意しない点その3は、ちょっと話しの次元が変わるけど、共同体への帰属意識を強調することを良しとしない価値観(いわゆる「戦後民主主義教育の弊害」)がどこから来たか、という点。「公」に関わる際に、共同体への何らかの愛着を前提とする、という点は、僕は小林の議論に同意する。政治学の世界では、
Charles Taylor等がこの種の主張をしている(ように記憶する)。日本はこうだからカッコイイのだ、でも今の日本はそのカッコ良さに今一つ達していない、もっと政治家に、総理大臣に頑張ってもらわないと…というのが、原始的に言って、人を政治参加へと動機づける。この共同体への愛着、あるいは愛国心を取り沙汰することがタブー視されてしまっていること、これは確かに残念なことではある。しかし、その原因は、GHQの占領政策にあったのかというと、ちょっとそれは違うと思う。第一の責任は、日本人の愛国心を真剣に受け止めなかった戦前、戦時中の日本政府に帰すべきだと思う。それを、不可侵の天皇に責任が及ぶからといって議論しないのは、正論ではない。21.戦争が終わったとき、多くの国民が、傷つき、疲弊し、大切な人を多く失った。その犠牲は、個人の利害を超え天皇陛下の名の下に払われたものであって、そのこと自体が、愛国心のもたらした悪というわけでは無かったはずだ。しかし、上でも書いたけど、疲労困ぱいしたその次に、その貴重な犠牲を強いた軍部であり政府に対して「アンタのために息子はここまでやったんだ。頼むから、いい加減な判断じゃなかったと言ってくれ」という、祈るような、ある種の責任追求の気持ちが当然あっただろう。それは、国を愛すればこその心情である。そのとき、政府は態度を翻して「先の大戦は侵略戦争デシタ」と言ったわけではなかった。しかし、国民が目にしたものは、アメリカの圧倒的な物量であり、大本営発表のウソであって、実は犯罪的にいい加減な戦略計算・政策判断により、途方もなく無茶な戦争に駆り出されていたという現実を、占領政策など始まる前に容易に察知したであろう。こんな圧倒的な大国と戦争を闘って勝てると信じ込まされていたのか、俺達は…!という虚脱感。そしてそのとき、生き延びた国民は、自分達の愛国心が日本政府自身によりいい加減に扱われたことを知り、怒り、そしてそもそも「公」なるものを信頼しなくなったのではないか。国を愛したのが間違いだったと感じるのにGHQの洗脳を必要とするほど、国民が馬鹿だったとは思えない。命までを賭けた国民のプライドを弄び、その愛国心に応じる真剣さで責任ある政策決定を運営せず、最後には愛国心をもつことそのものに対する信頼を根底から傷つけたのは、関東軍でなく、軍部でなく、GHQでもなく、天皇陛下を最高責任者とする時の日本政府そのものなのだ。これが、当時の憲法制度上導き出される明白な正論だ。
22.戦時中の政府の過失は、一つは無茶な戦争を始めるという間違った政策判断を下したこと。もう一つは、愛国心を持つことそのものの尊さを取り替えしのつかないほど、傷つけたことだ。その損失から、今も僕らは立ち直っていない。
23.愛国心をタブー視する原因を生み出したのは愛国心を弄んだ日本政府そのものだ、というこの主張は、責任ある自治、政治のありかたの根幹に関わっている。民主的な政府とは、納得のゆく政府の決定には命を奉げても惜しくないとまで信じ込んでいる国民に対し答える義務を負っている(その責任は相当重い!)。そのような強烈な愛国心そのものが無謀な戦争を生み出すわけではなく、その信託を受けたところの政府の失策が、無茶な戦争へと国民を引きずり込む。だから、戦争を2度と起こすまいと思うなら、愛国心を否定するのではなく、政治のあり方、戦争へと参加した意思決定の過程を究明し改善することが必要になる。(だから僕は、日の丸・君が代そのものをタブー視することは不毛で、問題の本質を履き違えていると思う。)同じ理由で、GHQを目の敵にして、愛国心を国民の感情に呼び起こすことだけを目指すのも、中途半端なままだ。
分かり易く言うと、「ボクは小泉純一郎のために死ねます」という素直な金太郎アメを量産するのではなくて、「俺は小泉純一郎のために死んでもいい。しかし、今の小泉純一郎は、命を捧げたいと思うほど立派な政治をしていない。もっとこうなってもらわないと、彼のためには死ねない」という、自分の脳味噌をもった、建設的な市民の育成に取掛かる必要があるわけだ。
24.なぜ、日本政府は日本国民の愛国心を弄んだのか?なぜ無謀な戦争へと参加したのか、なぜ戦前の政府はそのような政治判断を下してしまったのか?日本が平和なままであってほしいと願う人はすべて、この問いを一度は考えたことがあるだろう。その答えは、歴史を紐解くことによって始めて見えてくる。日本の近現代史を見直そうという人達が、日本人独自のプライドを持つことを主眼に歴史教育を考えているのであるとすれば、それは中途半端なものに留めるべきではない。突き詰めて歴史を学べば、なぜ、一時の日本国家は国民のプライドを軽んじ、プライドを持つということの意味そのものに泥を塗るような行為に至ったかを理解するだろう。そのような歴史上の過ちを学ぶことによって始めて、僕らは、国民のプライドを傷付けず、国民が理想と思える政策を体現する政治の実現に一歩近づくことが可能になる。そして、何度もここで書いたことだけど、政治という仕事(政治家だけでなく、官僚や、ジャーナリストや、そして市民一人一人が担っている責任)の尊さ、重さを感じ、今の日本が、その尊さを重んじ、ひいては国民の愛国心を以前よりも真面目に受け止めるようになったのか、考えることにつながる。そこにまで至ってはじめて、日本の近現代の歴史を学び直す意義があり、こうして歴史について考えることは、責任ある態度を以って政治に参加すること、そして自分の国の歴史に自分なりの責任を受け容れることと不可分であるはずだ。
(平成14年7月26日)