東欧の友人


東欧の友人

今日は珍しく天気が悪く、朝から外に出る気がちょっと失せてしまった。南半球の春が到来するのにはもう少しかかる。曇り空を見てふと思い出した東欧の友人のことを書いてみる。


彼女の職場の前で待ち合わせよう、と聞いたきりろくに地図も持たず、空港から市内に入るバスに揺られる。共産党時代に作った一本道をただひたすら走る。バラックみたいな、工場のような無味乾燥な灰色のビルが、整列して、だんだん見えてくる。…日本の団地みたいな、とも付け加えるべきか。

市場経済が導入されたことの証拠で最初に見たものは、美容整形の宣伝の看板。灰色の空に、ショッキング・ピンクの色の背景に豊満な女性の胸が度アップになった図柄の看板が突如現れる。コピーは、英語で、「It’s time to LIFT your spirits」と書いてある。不景気にもめげず、上を向いて歩こう、という意味と、胸を大きくしましょう、という意味とが掛かったpun。逆に胸が締め付けられるような気持ちを味わう西側からの観光客…。

市場経済は入っても不景気は変わらない、天気の灰色さは変わらない。気分を明るくすることといえば、胸を膨らませてもらって、男性にこびることぐらい。…というとちょっと悲観的すぎるけど、でも、市場経済がやってきて宣伝して儲けているのは、そういう人々の心理に付け込む美容整形外科医。看板が英語で書いてあるのも、灰色の空にくっきり映るピンク色も、そもそも看板と同じくらい薄っぺらい「儲けの論理」も、とにかくintrusive。でも、そもそも体制が移行するということは、新参者がそうやって力の論理で、人の一番弱いところから容赦なくえぐるように食い込んでくるものなのかも知れない。日本でも、50年くらい前にそういうことがあった。

昔モーツァルトも住んだ、ハプスブルグの都は美しい。丘に上れば、中世の教会の尖塔があちこちに聳え立ち、鐘が鳴ったり、まあ美しい。でも、ちょっと先に目をやれば、共産党時代の例の無表情な団地が遠くに不格好なまでに並んでいて、ハプスブルグと今日の間に、第一次大戦も独立もナチによる占領も、赤軍による解放も「プラハの春」もあった、100年の歴史を一挙に思い出させる。

こういうぞっとするほど暗い過去が、ヨーロッパの石畳の下にはぎっしり積み重なっている。木と紙でできた国からひょっこり旅行に行ったぐらいでは、中々分からないし、それでは今生活している人々が何を背負って生きているかも、見えてこないと思う。

友人とその仲間に出遭って、最近開店したという職場近くの東洋風軽食屋に入る。ちょっと流行りの店、という感じで、イギリスの大学での親友をもてなすのだからこれくらいのところでデートしたい、と先方に気を遣わせているのではないかと少し心配する。先方にとって日本人の異性の友人というのは当然初体験で、僕がマルクスもウェーバーもカントも読むし、東洋思想の話も少しするし、冷戦の歴史も、現代日本における女性の地位についても話すものだから、面白がって付き合ってくれていた。

彼らは西側からの観光客が行く「魔笛」のオペラを見に行く事ができなくても(地元の人にとっては高すぎるから)、音楽や演劇の話をするのが好きだった。どんなに昔の事とはいえ、モーツァルトもドヴォルザークもカフカも、彼らが心の拠り所とするところ。そして何より街の美しさ。文化というのは、何があっても絶えることがない。誰だって、自分が崇拝して、よそ者に誇れるものがほしい。

あまり話すべきではなかったかも知れないけど、歴史の話に少しなる。第2次大戦が終わるとき、チェコを米が解放するか、ソ連が解放するか、きわどい時期があった。戦後ドイツを連合軍側でどうやって管理するか、という話と一緒に、ヤルタかどこかの会議でそういう話になった。米軍はプラハから遠くないところまで進んでいたが、赤軍によって解放されることになった。それが、その後50年、そしてこれからも永遠に、このドイツとロシアに挟まれた国の運命を決めた。

日本にもそういうきわどい時期があった。分断国家になる可能性も十分にあったんだと思う。それでも、空襲と原爆で、圧倒的にアメリカの支配下に入ることになり、アメリカ陣営の中で未曾有の経済成長を成し遂げた、というわけ。ドレスデンを空爆したような勢いで、プラハに原爆が落ちていたら、ソ連軍も思いとどまったのかも知れない。そっちの方が良かっただろうか?とは口には出せないけど、芝居の脚本家と一緒に同じ問いを黙ってしばし考える。

市場経済、政治の自由化、これは確かに尊い。しかし、体制移行にある国の人々に実際会ってみれば、それがすべての解決でないことも明らか。僕の友人は、生来情緒不安定な性格だったせいもあるけど、その後、男性関係やら何やらで苦労して、仕事を辞めた。最近は音信不通。何に希望を持てばいいのか、分からなくなって、あまり繊細だったために、いたたまれなくなってしまったようだった。ソ連が去った後に、市場経済という名のもとに豊胸手術屋がやってくる。これは、確かにあまり歓迎できる「体制移行」ではないし、笑えない。

市場経済の問題は何か、自由な政治制度を真に機能させるものは何か。19世紀、ヨーロッパでもっとこういう議論がなされていた時代があった。JSミルでありトクヴィルであり、マルクスでありウェーバーであり、いずれも、手放しで新しい時代を賞賛したわけではなかった。それは、あまり楽観的に未来を予告することの危険を、重苦しいヨーロッパの歴史から学んでいたからじゃないかなあ、と思う。2年間だけでも、ヨーロッパで勉強した僕でもそう思うのだから。

冷戦が終わって「歴史が終わった」と言われ、その反動でいや歴史は終わっていない、旧い昔のまま、という議論も出た。冷戦が終わって死んだのは、進歩史観だ、という人もいる。しかし、「何とか世の中を良くしたい」という願いをもつことの意義自体が死んだわけでは決してない、と思う。そういう意味においては、僕は、人間の意志の力で現状を評価し、目指すべき目標を熟慮し、真剣な議論をして、そして世の中をそういう方向に動かそうとすること、それ自体の有効性は否定しえない、と思う。僕らは意志と主体性をもった人間であり、状況に否応なく取り込まれることを拒否し、物事を自分なりに整理して、道を示し、愛する人のためにより良い社会を築こうと努力するように出来ているのだから。そしてそういう姿勢は、暗い歴史の重みによく耐えてこそ、生まれてくるものだと思う。(だから、日本人ももう少し日本の歴史を学ぶと同時に、アメリカにばかり行かないでヨーロッパに勉強しに行った方がいいと思う。特に、この90年代が人類史の出発点であるかのような誤解を持たないためにも。)

最近、ブラームスを聞いてちょっと中央ヨーロッパのロマン主義っぽい雰囲気に流されているのかな。後は、こういう書生論は程々にして、現実の世界でどう立ち振る舞うか、という点に尽きる。盲目的な行動主義は僕は好かないが、熱意は必要だ。

マルクスが19歳のときに、ベルリン大学から父親に宛てた手紙というのがある。自分の知的変遷(19歳にしでは早熟だが)を感情豊かに書いた後、父親の健康を労るとともに、追伸で、自分の恋人に宜しくお伝え下さい、という下りがある。マルクスを社会の改善へと駆立てた情熱は、19歳の青年のこういう感情から来ているのかな、と家族や恋人と離れて暮らしてみて僕も思う。 …Please give my love to dear, wonderful Jenny. I have already read her letter twelve times and I still find new delights. It is in every particular, including that of style, the most beautiful letter that I can imagine written by a woman.(平成13年8月26日)


このページは GeoCitiesです 無料ホームページをどうぞ