「貢献」と「contribution

海外で出会う様々な「違い」を通じて、その差異の根本にある発想の違いをidentifyし、その意義を説明し、その他者の発見から学ぶべきことはなにか考えてみる、というのは留学先で経験する最もrewardingなことだと思います。ここでは、語彙の翻訳によるニュアンスの転換、という日常的かつ分かり易い事例を通じて、幾つか気づいたことを書いてみます。

 

今回は「貢献」について。

「日本の国際貢献は」という文脈で出てくるこの言葉とcontributionという英語の語彙との差異は何か、ということから、「貢献」に臨むにあたっての姿勢の根本を見直してみます。

 

Contributionという言葉の語源は、といっても専門的に知ってるわけじゃないけど、体験に照らし合わせてもしっくりくる解釈としては、contributeから来ている。Conというのはcom-, co-,という接頭語と同じで「同じもの、共同して」(conform, concur, community…)を意味する。Tributeというのは、捧げる、貢ぐ、という意味。だから、contributeというのは、「仲間と一緒に何かを捧げる」、という意味。

一方で、貢献というのは、貢ぐ、献上する、ということが表しているように、「目上の人に対して何かを差し出す」、という意味。

大学での小さなサークルやコミュニティへの参加に際して、積極的にcontributeせよ、という言葉に出会うと思う。それは、仲間同士で何かを創ろう、共同作業をしよう、というときに、アナタなりの独自のインプットをして下さい、と求められることだ。それは、何も目上の人に対する義務としてではなく、自分なりに、周りのこともよく考えた上で、自分の所属する共同体にこうなってほしい、という思いを好きなように発表する、ということ。その中身を同胞と共有し、皆でサークルなり自治会なりの将来について議論する、という「自治」の基本にこのcontributeという参加のあり方が位置づけられている。

だから、そのサークルでは、ある決定に大人しく従う素直なだけの人、というのはcontributeできない、サークルに付加価値をもたらさないただのフリーライダーと見なされ、存在価値が認められないし、真の仲間、サークルの将来像をめぐって真剣に知恵を絞り合い、議論し合った仲間としては、認識されない。それは、サークルの議論に毎回顔を出し、参加費をきちんと納めていたとしても、変わらない。求められるcontributionというのは、そういうことではないから。

もう、僕の言わんとしていることには察しがついたことと思うけど、日本語の「貢献」というのは、こういう世界とは大分ニュアンスが違いますね。

貢ぐ、献上する、というのは、既存の体制の中に身を置き、その秩序を既に完成され存在するものとして認め、自分の低い地位をふまえて目上の人に対して恭しく貢ぎ物を差し出す、という行為であって、その体制の成立過程は何なのか、という問題意識はそもそも浮上しない。貢献せよ、というのは、会費が足りないからもう少し出してくれよ、という要求としてしか認識されないし、そこで会費を払いさえすれば、その使い道について「お上」に任せっぱなしでも、とりあえずは役目を果たしたことになってしまう。

contributeせよ、と求められて、こういう履き違えをしたことのある人は僕意外にもいると思う。もっと無茶な議論をすれば、日本の国際社会に対する貢献というのは、未だに日本語でいう「貢献」の発想で理解されていて、国際社会が実は日本に求めているのはcontributionなのだ、ということが、見落とされていると思う。

上の例で示唆したとおり、日本はもっとcontributeすべきだ、という外圧に対して、「日本は国連の分担金もアメリカに継いで多く支払っているし、そもそもアメリカがきちんと分担金を払っていないじゃないか」とか「日本は憲法の制約がある中、精一杯の貢献をしているんだ」とかいう反論をする人は、その反論自体は間違ってはいないけど、そもそも相手が何を求めているか、分かっていないから的を外している。日本が求められているcontributionというのは、本当は、国際社会を「構成する」一員として、つまり、既存の体制の仲間に入れてもらった新参者としてではなく、未知の世界を切り開こうとしている冷戦後の世界秩序に対し、何か仲間として光を照らすようなことをしてほしい、本当にアメリカの一極支配で世界が幸せになれるのか一言物申してほしい、アジアの独自の価値観(そんなものが果たしてあるのか、よく分からないけど、例えばの話)にも配慮した世界秩序のルール作りに向けて経済力をバックに発言してほしい…とういうことなのではないか。

国際社会の体制、ルールというのは、常に、in the makingだ。一部の国だけで「国際連合」を作って、そこに日本とドイツが入れてもらう、という発想は、もう50年以上前の話だ。日本は、戦後、冷戦なり自由経済なりというアメリカが作ってくれた「国際ルール」の中で最大限の発展を遂げ、今の地位を築いた。これから求められるものは、その体制が色々とチャレンジを受けている中で、どのような世界秩序を自分は求めるのか、明確に示し、それの実現に向けて堂々と世界に発信し、その立ち上げのプロセスに自ら参加することだ。そういう日本のcontributionを考え、担っていくのは、僕達の世代の日本人じゃないのか。中国がWTOに入った今、経済システムはどうあるべきなのか。アメリカの一国主義の傾向は、責任ある態度と言えるのか。EUの統合の推進は、世界のシステムにどういうインパクトをもたらすのか。その中で日本はどういう形で「名誉ある地位」を保ち、築いていこうというのか。…云々。こういう姿勢をきちんともって、積極的に発信すること、それ自体が、新しい世界を作るうえでの有意義なcontributionであるはずなのだ。日本は、今やそれだけ重要な責任を担い得るだけの規模に成長している。あとは、その責任を果たすだけの度胸と洞察力と、語りかける熱意とプレゼンテーション能力と、広く社会全体を見渡し、自分の言葉でconceptualiseする知的ガッツ(実は、これが一番のネックかもしれない?)が問われている。

では、どういう人間なら、contributionができるか。それは、社会全体に対する責任を自覚すること、その社会体制を築く過程における責任を自覚すること。そして、自分なりの拠り所を明確に意識し、独自の視点からのインプットを臆せず口に出すこと。また、他の同胞からのインプットにも耳を傾ける寛容さを持ち、コミュニティ全体のためになるか否かという観点から真剣に議論すること。こういう仲間との対話を通じて、初めて、社会のルールというものが形成されてくる。この前提にあるのは、今の世界はこういう方向に向かっている、これからの世界はこうなるべき、という「世界」に対する理解・知的把握(本当の意味での世界史・システムの理解)と、その壮大な物語における自分の地位の自覚(日本が世界に誇れる思想・観念・文化は何か?)だ。そこから初めて、「こういう世界における私の責任は何か」という自覚が生まれる。

一時、世界の7つの海を支配したイギリスには、そういう壮大なストーリーを語れる乱暴さというか、ある種のプライドがあった。日本人が今持つべきプライドとか、愛国心というのは、この国際社会に対する責任と一体でなければならない。その責任が生れて始めて、貢献ではなくてcontributeこそをしなければならないという自覚が生れる。歴史上、日本人にこういう責任を伴った自尊心がなかったとは思わない。(例えば、その真偽は僕は確信できないけど、「アジア民族を西洋帝国主義から解放する」というような責任の意識。)元来、日本人は誇り高い民族、と言われていて、あながち、嘘でもないと僕は思っている。ただ、そのプライドに、社会全体に対する責任が伴っていたかどうかは、ちょっと疑問。えてして、その誇りとは、「自分だけは特別、武士は食わねど高楊枝」、という内向的な潔いやせ我慢を慫慂するものではあっても、自分には社会全体のことを考える責任があるのだ、という発想が伴っていなかった自称「憂国の士」が蔓延していたことも事実ではないか。さらに、別の議論だけど、最近に至っては、そういう「憂国の士」的な発想を持つ事すら、鼻持ちならないエリート意識、お客様志向の欠落、台所感覚の欠如、という文脈で片づけられてしまうご時世でもあり、どうも議論の方向が違う方を向いているような印象を持っている。…。

一世代前に日本がアジアのrising starだったとき、日本にcontributionを求める熱い視線が注がれたことがあった。日露戦争に勝った大日本帝国に、清やトルコやインドが、帝国主義の時代を覆す新しい力を見出し、世界地図の塗り替えを期待した、というのは嘘ではないと僕は思う。歴史は、その40年後に、彼らの願望をかなえさせる(その過程における日本の役目は、決して彼らの期待に添ったものではなかったわけだが…)。では、戦後の発展過程における日本は、どういうcontributionをしてきたのか。日本は、「貢献」の額だけはどんどん膨らんで、国連への納入金は、アメリカに継いで2位にすらなった。しかし、世界のシステムを担う張本人という自覚はその過程でどう育ったのだろうか。

僕は、何もアメリカの一極支配に対抗してアジアの大同盟を構築すべし、ということを主張しているのではない(そういう主張は、実は国際社会のためにも、日本のためにもならない、無責任な議論だと思うから)。だけれども、世界システムという既存の体制があって、そこに土下座して仲間入りさせてもらう、という時代はもう過ぎ去った。同時にまた、アメリカが高慢に暴走し始め、中国という別の原理を持った大国が参入してくる今日ほど、世界システムの再編成が必要とされている時代は、ない。そのプロセスにおいて、日本は、国際社会のルールのメンテナンスに加わる主要なメンバーとして、独自の世界観をもち、自分のアイデンティティを明確に意識し、責任ある言動を示すことができるのか。問われているのは、日本国民一人一人の自治の責任感、ひいてはcontributeできる能力そのものだ。(自治という意味では、国内政治への参加も、同列の問題。別のところで議論に触れたけど)

そういう能力のある人、少なくとも、そういう必要性を認識している人は、僕は、留学に出た人、出ようとしている人、の中に少なからずいることを(結構楽観的に)信じている。

最後に付け加えたい「貢献」と「contribution」の違いは、その品詞の成り立ちの違い。つまり、「貢献」というのは名詞だが、contributionというのは、「contributeすること」という動詞から成り立っている。この点は、丸山真男が「「文明論の概略」を読む」(岩波新書)の中で書いている「文明」と「civilisation」との差異として指摘していることと同列の話なんだけど、つまり、contributionというのは、常にcontributeし続けること、という「行動」の名詞化された概念であって、何か固定的な(一度したらそれでとりあえずオシマイというような)募金、献上物、という概念とは根本的に異なる、ということ。だから、contributeというのは、常にヤリ続ける、常に社会の在り方について疑問を発し、常に自分なりの観点から発言を怠らない、そういう執拗な行動なのだ。会費を一年に一度払ったらそれで御役御免、ヤレヤレ、という発想とはまったく違う。常に怠らないこと、継続すること、参加し口を挟みつづけること、その積み重ねこそがcontributionなのだ。

留学に出て試したいこと、チャレンジしたいころは色々あると思う。その一つに是非、「俺は世界に"contribute"できる人間なのか」という問いを加えて欲しい。(平成14年4月7日)