隣の国で起こったこと


自由の尊さについて

政治的自由と公共精神の覚醒

最近話題になったフォーリン・アフェアズのTiannanmen Papersを読んだ。

89年6月4日後の「沈黙」、そして刹那的な拝金主義の横暴。政治的自由の否定は、公共精神を窒息死させてしまうことを如実に物語る。僕らと同世代の若者が、沈黙を強いられ、投獄を強いられ、そしてなにより愛する祖国の地を離れざるを得ない窮地に立たされている。

対岸にいる日本の若者は、これにどう反応しているのだろうか。海峡を越えた台湾の若者は、なにを感じているのだろうか。僕らが謳歌している政治的自由、これは何のためなのか、振り返ったりはしないのだろうか。

政治的自由は集団的な意思決定への参加を可能にし、自己決定を可能にする。自己決定は、自分の決定から生じる帰結の責任と成果へのクレームを正当化する。それは転じて、自分の意思決定により影響を被る人々への慮りを生み出し、共同体への愛着とその将来への真摯な取り組みを促す。

これが、簡単に言って、トクヴィルが描く自由から公共精神を育む過程だ。この公共精神なしにして、民主政治は成り立たない。しかしもとを辿れば、その民主政治とはまず自由があって可能になる。自由を与えられて人は始めて市民となり、市民だけが、「衆愚政治」を防止することができる。自由により、自由の敵−多数の専制−を封じる。これが、19世紀後半の官僚依存のフランス社会の昏迷を解こうとしてアメリカに見出した処方だった。

日本の場合はどうか。

社会の基本的な平等性、そして「同質性」は、前提となる共同体意識を生み出しやすい。事実、共同体意識は、一部の日本では根強い。では、トクヴィルがアメリカに見出した平等性と日本の平等は何が違うか。トクヴィルは、単純に自由を与えればすべてうまくいく、とは考えていない。彼の洞察は、人々の社会意識・moersと相互作用を及ぼす社会構造にまで及んでいて、この側面を比較することによって有益な比較社会的考察ができる。ちょっとやってみる。

一つ思い付くのは、多分沢山あるんだろうけど、アメリカにおける新しい貴族階級とも言うべき「法律家」に相当するものが日本にはない。かつては、三谷太一郎先生が指摘したように、東京帝国大学法学部卒業生がこれを担ったのかも知れないが(?)、今ではこれを探すのは難しい。努力のみにより到達することのできた(少なくとも建前上)法曹への道、あるいは知的エリートへの道が、受験戦争にとって入れ替わり、それを潜り抜けた「勝者」達は、自分達の責務が何であるか知らないまま、四ッ谷大塚からまっしぐらに社会に出てしまう。 (一つの処方は、旧制高校を復活させることだと僕は思うが、それについてはまた後日。)

もう一つは、開拓時代のアメリカのような、生活の逼迫さが今の日本には決定的に欠けていることだろう。どうやってこの豊かさが築かれたのか、歴史を学ばず親世代との対話を分断された今の若者には中々知る機会がない。少し前の世代も、せっかく築いた富を何ら価値として蓄積せず躍らされて投機に走った責任も重いだろう。日々の生活に対する真摯な努力、労働の尊さ、自然の暴威の前に肩を寄せ合い新しい生活を、家を作るところから始める…こういう環境に今の日本はとうていないし、そこで育まれる個人の強さ、そして孤独な人間同士の絆の深さも、あまり学べない。

(アメリカの民主主義がいかに強靭なもので、決して井の中カワズ右翼が言うようなヤワなものでないかについては、また後日書きます。)

ぱっと週末の午後にご飯が炊き上がるの待っている間にも、こうして今の日本社会がトクヴィルから学ぶべきこと、全世界を支配する100年前のアメリカから学ぶことは何か、見えてくる。

それは、社会的尊敬に耐え得る知的エリートの使命感の自覚と、それを正統化する自由な競争と正当な評価、使命感の育成を涵養する「特殊な」(大衆迎合でない・最低公約数に合わせない・努力へのインセンティヴをかき消す悪しき平等主義を取り入れない、という意味で)教育機関の復活、そうして育ったエリートに対する相応の待遇(これがもっとも難しい。せちがらい世の中になったものだ)、そのような地位を目指すインセンティヴを生み出す社会のコンセンサス。(別に、僕は日本国民が猫も杓子も東大法学部を目指せと言いたいのではないです。)

脱線:東大法学部生って、世間で言われているほど変態ばかりではないと思う。ただ、彼らは何を目指せばいいのか、大学に入るまでは偏差値しか頭にないし、大学に入っても、天下国家なり世界平和なりを自分個人とどう関係づけるかという、オトナになる過程で必ず通らなければならないプロセスをなかなか体験できていないのだと思う。(多分、これは、前提となる「自己」の覚醒が遅いからなんだと思う。)

もう一つは、日々の生活における真摯な態度、勤労の価値をもう一度見直すことだと思う。日本人はプロテスタントじゃなくても勤労意識は高いはずだから(多分ウェーバーが指摘するような構造で、別の倫理観が作用して勤労の美徳が言われているのだと思う)、これはそう絶望する話じゃないと思う。それから、世代間の交流、特に家族における対話、というのが、若い世代にこの勤労の意味を伝えるために欠かせない。せっかく深夜まで働いているお父さんが、それを子供に伝えられないほど遅くまで残業してしまっては、本末転倒じゃん…。それから、せっかくの勤労の対価として得た金銭をもっと大事に使わなければならない。援助交際なんかやってる場合じゃない。労働に対する真摯な気持ちがなければ、手に入れた賃金の使い方も同じように下品になる。このためには、本当に価値のあるものが市場に出回っていないと駄目だ。真に文化的価値のあるもの、有意義なレジャー活動を可能にする週末の余裕、インフラの整備、有給休暇の制度、文化活動への助成…(この点の議論は僕はRazの議論が気に入っている。余裕があれば(かつ1年前に読んだ文献の記憶が生きていれば)別の機会に書きます。)

なんか話が脱線しているような印象を与えかねかねないのでこの辺で締め直すと、こういった政策戦略のもとに今の日本社会をちょっと小細工することが、必ずや、日本の民主政治を活性化することにつながると思う、ということなんです。真面目に。多分、トクヴィルも今の日本を見たら何かしら似たようなことを考えるんじゃないかなあ…。

その民主政治というのは、自治の意識を高め、共同体を大事に思う気持ちを育み、社会の理想像をめぐる議論を活発にする、という意味の民主政治であって、決して、「多数決」に還元されない、とても尊いものだと思う。「多数決」なら、中国共産党だってやってる…。

その民主政治のために、隣の国では、僕らと同じ世代の青年が命を懸けている。

「沈黙」ほど恐ろしいことはない。沈黙ほど、社会の活力を失わせ、人間の躍動感を窒息させ、人間同士の結合を根底から虫食むことはない。残るのは、刹那的な快楽の追求と、欲望がむき出しの無責任さ、将来の世代に対する卑怯な冒涜に他ならない。

そして、将来への展望を失わせることは、人間らしく生きようとする切実な祈りを踏み潰す最大の犯罪だ。

日本でこういうことを起こしては決していけない。しかし、この尊いものを守るためには、ただ惰眠をむさぼっていてはだめだ。(平成13年2月10日土曜日)

そろそろご飯が炊けたかな…。


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