人はなぜ倫理的に振る舞うべきなのか。


人はなぜ倫理的に振る舞うべきなのか。
オックスフォードに留学して初めて突きつけられたこの小論文の課題に、今なりの僕の答えを出したい。

倫理的に振る舞うとは、その個人としての生き方をまっとうする、どういうスタイルの人生を自分は貫きたいか、というスタイルにこだわる、という意味で自分を大切にする、ということにつながる。倫理的に生きるということは、したがって、その個人が最も納得する形で意味深い生を生きる、ということに等しい。

意味ある人生とは、したがって、倫理的な生き方の対局にある(と位置づける)自然のままの生き方によっては達成できない。自然のままの生き方とは、すなわち、勢い任せ・病任せ・老い任せ・すべてが自然のサイクルに委ねられた生き方であり、自分でみずから人生を構築しようという意志のもとに造られたものではない。自然の流れに対して自分が立ち向かい、自分はどうありたいのか、そう考えるとき、人は倫理的な生へ一歩踏み出す。自分はどうありたいのか、その目指すところに恥じない形で生きようとする姿が倫理的な生き方である。自分はどう生きたいのか。それを守る勇気。

自分はどの方向へ進みたいのか、というこだわりを失ったとき、人は自分の生を放棄し、自分の生を他のものに委ねる。それは、自然の衝動であり、病の深い沼であり、死である。そのとき、その人の生は、その人だけのものを超越し、より大きなものの一部となる。倫理的に生きるとは、ある意味において、ひたすら「わがまま」に生きる、自分らしさを大切にしたい、という個人的な生の選択をすることである。何かに自分の生を委ねること、これは倫理的な生ではない。 倫理的に生きるという姿勢から、責任が生まれる。自己決定の責任。自分の生きざまは自分で決める、そして自分の達成に責任を持つ。

同様に、倫理的に生きるという姿勢から、自信、誇りが生まれる。自分が選んだ人生、自分がつかんだ栄冠。


人はなぜ倫理的に生きるべきか。それは、倫理的な生を通じて、個人が、その固有の精神を開花させ、他の誰とも違う、かけがえのない存在として輝くべきものとして生を受けたからこそ(これが前提)、それを貫徹する義務を負っているからだ。この世に生を受けるということは、すなわち、個人として、自分なりの方法で、精一杯の跳躍をする義務を一人一人が負っているということだ。倫理的に生きるということは、この「自分らしく」生きるための努力をする、ということだ。

「自分らしく生きている」という実感をもてるとき、初めて人の生は、その人の自己理解において、意味を持つ。意味のある生を生きること、このために倫理的な生というものが欠かせない。

自然の衝動のまま生きること、これは自分の人生ではもはやない。それは、自然の恵みが、その若者を無尽蔵の力で放り出しているに過ぎない。そこに自己投影することは、気分は良くても、尊大な自己肥大であり、「若気の至り」というものもこういうことなのだと思う。自然の偉大さを知らない者は、また自分がその流れに完全に見放されるという現実を見ようとしないし、見放されたそのとき、人間に残されている可能性にも悲嘆にくれて気づかない。

自然の恵みに見放された老人もまた、その下り坂の自分を自分と思っては行けない。それは、自然の放出力が噴火を終えただけの話で、それ自体影響は大きくても、その老人の人生の意味とは直接は関係ない。その状況の中で、自分の意志がどう立ち上がるか、そのことによって、人生の意味が豊かになる。ここでもまた、倫理的な生きかたが問題になる。

倫理的に生きるとは、若者に対する訓示ではなく、中高年に対してもまた、必要なことなのだ。およそ意志ある限り、生きる限り、課せられた命題なのだ。

人には人生を意味に富んだものとしていきる義務がある。これが、動物と人間の違いだ。人間は、自分の行動を省み、文脈の中で評価・意味付けをできる。そして、自分のことを定義できる。自分は今何をしているのか、どういうことをしているのか。そして、それに納得しているのか。

人生に意味を与えるものは意志である。主体性である。その意志を大切にすること、これこそが、倫理的に生きること。自分の生きざまに忠実であること。

自分らしく生きること、これは自分の属する共同体の運命とは無縁か?

僕はそうは思わない。これは別の次元の問題だ。また別の機会に論じる。ブッシュ政権も誕生したことだし。(平成13年1月25日木曜日)


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