豊かな食事とは (2000.04.09)



ヨーロッパにおける飲食店でのマナーについて、というちょっと軽いテーマから、サービスの捉え方、さらに派生して、社会の豊かさということについて考えてみます。

ヨーロッパのレストランは、注文を聴きにくるのから請求まで、とにかく時間をゆっくりとりますね。これは、そうすることが「おもてなし」だととらえているからのことです。どうぞごゆっくりくつろいで、というのがサービスなのであって、「早く、安く、うまい」ものが欲しい人はレストランに入ってはいけない。これが、ヨーロッパのレストランにおけるサービスの原点です。

食事のマナー、というと、とかく食器の扱い方とか音を立てないとか、席を立つときナプキンはどこに置くとか・・・テクニカルな詳細についての注意事項が、日本では多いです。これは、技術的な基本として知っておくべきことではあるかもしれませんが、根本的な発想は、もっと別のところにあると思います。

店の規模や値段やインテリアには関係なく、日常の食卓を離れ、親しい人と、プロの料理(どんな小さな食堂も、板前は皆プロですから)とその時間・空間・会話を共有する、ということはどういうことなのか。そこには、食材を提供した自然の恵みに始まって、一皿の料理に至るまでの様々な人々の努力への感謝の気持ち、そして、その食事を共にする貴重な友との出逢いを慈しみ、わずかな時間の再会を大切にする、という、仮に口には出さなくても、その場と相手に対する静かな思いやりが、底流として、あるわけです。このことに対する自覚を欠いては、どんなお上品な作法もただの技法の域を出ません。そしてただの技法とは、真の文化とは程遠いものです。

ヨーロッパを旅し食事をする日本人は多いと思います。しかし、レストランに入ることは、「食いだおれ」とは違います。サービスをする人とのコミュニケーション、食卓での会話。一日の疲れを癒し、健康を維持するために栄養をとる。食事の前、後のお楽しみもあるかもしれない。こうして、2,3時間かかる芝居のような様々な要素が、ゆっくりと食事をする、という「文化的」行為には含まれている、ということを、若い日本人旅行者にまず感じて欲しい。

留保したいことは、当たり前ですけど、僕はヨーロッパが文化的で日本人が野暮ったい、ヨーロッパを見習え、といっているわけでは毛頭ありません。そういうことをいう人に限って、日本の伝統文化というものに対する敬意と理解が足りないのではいでしょうか。ここでいっているようなこと(食事に対する感謝とか、同席する人への配慮とか)は、例えば、茶道でよく言われていることと変わりません。ヨーロッパでも、他人がサーブされる前に時間がないからといって食べ始める人は野暮ったいですし、料理の味について一言亭主に言うのは常識です。茶道の精神を学んだ人は、ナイフとフォークに持ち替えても、同じように、同席者との会話に興じ、また食堂のインテリアで気になるものがあれば、お軸について訊ねるのと同様に、その由緒を亭主に尋ねればいい、と僕は思います。そのとき、英語が不十分にしか話せないとか、フォークの背にご飯がのっけられないとか、ということは、気にする必要はないし、周りの人も、そんなことで気分を害したりはしません。

日本人の「マナー知らず」というのは、西洋の「マナー」についての無知ではなく、むしろ、「マナー」そのもに対するカテゴリカルな無知から来ていると思います。これは、実は、とても深刻な問題で、どんな「技法マニュアル」にも対処しがたいものです。問題の所在は、例えばここで取り上げた食事作法ということについていえば、茶道を学ぶ人が少ないというだけでなく、家庭での食事のあり方、食べ物一般についての感謝の気持ちや、食事をしながらの楽しみやコミュニケーションのあり方、という、とても基本的なところにあります。

だから、自分の家で家族とテレビを媒介してしか夕食の時間を過ごせない人は、どんなにお金を払っても、レストランで本当に食事を楽しむことはできません。なぜ「いただきます」「ごちそうさま」というのか。その一言に込められている、天の恵みと、子供の健やかな成長を何よりの喜びとしている親の愛情とへの謝意。席を隣にする縁の不思議さを想い、同席者へ払う敬意。・・・こういう意味をかみしめる余裕も繊細さもない人は、どの国でも、レストランで払う料金が何の対価なのか、分からないと思います。

日本人はいつから、どうして、「マナー知らず」になってしまったのでしょうか。

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