職場の先輩に薦められて森嶋通夫「なぜ日本は没落するか」(岩波)を読んだ。きっとイギリス留学経験者の中には彼の議論に共感する人も少なくないのではないか、と思い、このペイジで言及してみる。
本については、彼の議論を完全に理解できた自信もなく、読んでもらうのが一番いいだろうから安易な要約はしないけど、「政治的イノヴェーションの欠落が日本を停滞に追いやる」「日本的‘和’の精神がそのイノヴェーションを妨げているということが、事態を難しくしている」というメッセージの一つは、僕も共感する。
ちなみに、この本は「学際的な試み」ということで社会科学、経済学、歴史学の視点や、氏本人の個人的体験なども含められ、知的にも面白い(氏の伝えたい結論が明確なだけ、議論が強引な印象も与えるけど)し、日本社会の現代的課題・挑戦(没落の兆候や世論の「右傾化」)に対する著者のスタンスもはっきり示され一貫したメッセージを放っていて、読み応えがある。
この本への反論をして「日本が没落するというのは正しくない」というのは技術的には可能かもしれないが、僕はむしろ「氏のいうことが正しいとしても、僕らが本気になれば、日本の没落を阻止し、日本を再興させてみせる」ということを真剣に考えてみたい。それが、僕らの世代の日本人の義務であり、「没落論」を説く人もこういう議論が僕らの世代から巻き起こることを待っている。日本の将来を論じることにシラケず情熱をもち、知的な議論のできる方法論も確立し、日本の居心地良さを再認識し国際的な視野も持ち、未来に対して誠実に取り組む責任感に燃える…そういう心ある留学生が、今、海外に知的刺激を求めている同世代の仲間の中にも少なからずいると僕は確信している。
一方で、森嶋が指摘するように、「留学して敗北した人は右傾化する」というのもまた真で、留学生の中には僕の「敵」も潜伏していることも分かっている。僕もオックスフォードで「勝利した」(?)とは思っちゃいないけど、敗北したとも思っていないので、傲慢に聞こえようが構わずrobustにやる。それがオックスフォード卒業生独特の覇気っちゅうもんだ。
最近、城山三郎の小説を久しぶりに読んだこともあって、若干熱くなっている。そろそろ自分も東京に戻る頃なので、自分が日本に帰ってからの目標を、今のうちに固めておきたいという気持ちもある。
序論の序論として、ここでは、「なぜ日本の将来について誠実に取り組む責任が発生するか」ということについて一言書きたい。政治学でいうところの、「自由・権利と義務・責任」の議論と関係している。ここでは特に、留学に出たいと思うほど日本に愛想を尽かしている人達に、留学した後でいいから、日本に戻って来て日本の将来のために力を貸してほしい、というメッセージを送るのがねらい。と同時に、単細胞の国粋主義者に自由主義の発想がもたらすダイナミズムの魅力を知ってもらい、それこそが日本の再興のカギ(この点は森嶋の議論も似ているはず)だと訴えたい。
それでは開始。
本来、人間は自由ではない。この世に産まれることも死ぬことも、どちらも人間の自由意志によるものではない。自殺というのもあるけど、自殺をする時点で人は既に自由を失われているのだから、これも自由な意志により下される決断ではないはず。
それではなぜ西洋の思想史においては「自由意志」の問題が最大のトピックとして長年議論され、西洋近代の諸思想がこの「自由」を前提に構築されているかというと(これまでの僕の文章もそういう話を沢山紹介したと思うけど)、それは自由に対抗する要素――伝統なり習俗なり宗教――の存在が当然の前提としてloomしている文脈の中で、実に非力な人間の尊厳をいかに回復するか、そういう問題意識の中で議論されてきた話だ。ヨーロッパの修道院や旧い大学に行った事のある人は、ヨーロッパにおける知的修練がどれだけ窮屈な重圧の中で行われてきたか、実感するだろうし、日本の大学にない真剣さ――個人の意志が伝統なり神なりと対峙し固体化し研ぎ澄まされるプロセス――に打ちのめされ、それを感じ取るセンスがあっても図太さに欠ける人は、吐き気をもよおすかも知れない。
人間の自由意志の問題は、思想史的には、何もない真空状態において議論された問題ではない。だから、現代の(特に日本のような)知的空白状態にある大学でそれだけを取り上げて議論するには、どこか不自然なところがあって、今の日本の学生は自由の問題――たとえば樋口陽一先生が熱弁するような――を聞いてもピンとこない。僕らの世代は不自由を経験していないから、自由の尊さも分からない。孤独を知らなければ他人の大切さも理解できない、他人の大切さを理解できない人は安定した社会の存在も大切さも理解できない…、というのと本質的には同じ問題。
なぜ僕らの多くは不自由を経験しないのか。それは、裕福になったからだけではなく(生死は財産でも解決できない)、核家族化・都市化によるところが大きいのではないか。おじいちゃん、おばあちゃんから伝え聞く昔の話、家庭におけるマナー、コミュニティから学ぶ相互扶助のルール。そういう「制約」が実は次世代を育てるためのものであって、どれだけ自分の両親や他の多くの人が自分の成長のために犠牲を払ってきたか、appreciateすることができない。
だから僕らが謳歌している自由――それが自分だけの力で得たものではないのに――の結果獲得したものをなぜ社会に還元しなければならないのか?という説得が必要になってくる。この辺の話は、Robert Nozick(最近亡くなりましたね)に対する社会主義からの反論、というのは僕は妥当だと思っている。でも、個人がもつ生産手段を社会全体の所有物とするという共産主義の試みは、「社会」という漠然としたものに帰属意識を持つ事ができない人間の構造を無視し、個人のインセンティブがどうやって産まれるかを正しく捉えていない考えだから、失敗したんだと思う。…ま、脱線はいいや。
例えば、僕個人は、今まで私立の学校・塾というものにろくに通ったことがなく、文部省のおかげで一番学費の安い教育を受けながら4年制大学も卒業できたし、オックスフォードにまで他人のお金で留学させてもらって、非常に幸運だと思っているし、そのこともあって、そろそろお国のために恩返しをしなきゃいけないなあ、という思いも強い。
留学している人、しようとする世代の人は、まさに「自由」そのものだと思うけど、それを可能にするまでに自分と同じくらい家族や他人が努力し様々な不自由を甘受してきたこと、今後も甘受するであろうこと――あなたのオムツを替える事から始まって、ボケ老人になったあなたの汚物を処理するまで――を忘れてはいけない。自由を強調する人は、この瞬間だけの自由を都合よく主張するのではなくて、自分とは時間を超えて存在するものである事(赤ん坊からボケ老人まで、すべて「自分」は経験する)を自覚し、その自覚から発生する責任を真摯に引き受けなければならない。そしてそれが、すべての共同体・社会の安定的存続の基本となる。
何だかまとまりが悪くなってきたので、中途半端ですがそろそろやめます。
森嶋の本では、巻末の付記「社会科学の暗黒分野」で他律的な人間の行動を現在の社会科学はうまく説明できていない、という話を書いている。このことと僕が今言わんとしていることとは無関係ではない、と思う(森嶋の指摘することは、僕は今のところ、「科学」の発想を人間に適用すること根本的なムリから由来していると考えているけど、うまく説明できないのでまたの機会に考えてみます)。
人に共同体・社会の将来を担うための責任を自覚せしめるものは何か。共同体への帰属意識はどこから生れるか。僕の考えでは、人間とは時間を超えて存在するものであることを自覚すること(いつまでも若くはないんだよ)、そしてその時間の両極の周辺(生れたときと死ぬ直前)において人間は実は不自由で他人からのサポートを必要とすることを自覚すること、それを通じて謙虚になること、がまず必要だ。
しかし、それは、いつまでも慣習を盲従していれば安定した社会が永続する、ということを意味しない。社会は常に自己変革、イノヴェーションを必要とする。ただ、そのイノヴェーションを可能にするもの、「日本をもっと良くしようじゃないか」と呼びかける事、このこともまた、日本の将来への真摯な責任感を前提としている(ニヒリズムのみならず、自分の名声・出世や、選挙区だけのことを考えての社会参加もまた、違う)。この段階で生きてくるのが、意志の自由、リベラリズムが尊ぶ自由な政治だと思う。そして、この自由と責任は両立するか?僕は可能だと思う。この点と、なぜ「日本」に帰属意識を持つべきなのか(国連や、NGOのために一生懸命になってもいいじゃないか?)という点については、また別の機会に引き続き書こうと思います。
だんだんオーストラリアも秋の気配が忍び寄ってきました。(平成14年2月10日)