留学をするまえに見直してもらいたいこと。


問:「日本の大学生は勉強しない」。論ぜよ。

留学している人、しようとしている人の中には、日本の大学に対する何らかの幻滅・諦観・見下し?を感じている人が多いと思います。ごくごく普通の日本の教育を受けた後でイギリスに留学した僕の経験をもとに、日本の高等教育のあり方についてちょっとコメントしてみます。これを通して、留学生が固定観念として持ちがちな日本批判論にある程度反論して、日本の大学教育が本来目指しているものを見直すことと、今の日本の学生をシッタゲキレイすることが本稿の目的。

日本の大学生は勉強しない、確かに、例えばオックスブリッジの学部生のような勉強の仕方はしません。それは、教育方針が違うから、当たり前です。日本の大学――といっても最近は新しい教育方針のものも随分と増えたようですが――で目指していることは、少なくとも講義で目指しているところは、第一線の研究者の講義ノートの複製を自分のアタマ(手ではなくて!)で作ることにより、あるテーマにおける最新の研究業績や一人の学者の「世界観」について触れることにある、と僕は大学(法学部)の授業を通じて感じていました。だから、講義を咀嚼するためには、相当の予習・復習が必要だった(そうじゃないと講義ノートがただの速記録になっちゃうからね)。ある分野における最先端の研究者の頭の中を理解しようというのだから、それなりの準備をしないと理解できない、これは当たり前です。

一方で、例えばオックスブリッジにおける学部生教育というのは(別に名前にこだわっているのではなくて、ただそれしか知らないからこればかり例示しているんですが)、他のところでも書きましたが、試験で求められていることが示しているように、自分なりの議論を特定の論点につきピンポイントに掘り下げること、これを通じて、自分なりの議論の進め方を学ぶことにあります。と、いうか僕はそう理解しています。

ここでまず言いたいのは、このように教育方針が違うのだから、当然、同じ勉強の仕方はしていない。これが、日本の大学教育擁護論の大前提。

日本ような大学教育(あくまでも僕が経験的に知っているもの)の長所もあると思います。それは、何より、学生をオトナとして扱ってくれる、ということです。大学の講義は、確かに一方通行ですが、それは、学生はそれでも理解できる、何かを感じてくれる、という前提をもとにしているからです。手を取り足をとり…というお勉強に慣れている受験戦争の覇者達は、これを不安に思うかもしれない。そんな子供は、本郷の大教室に入ってはいけないと僕は思います。僕は、東京で勉強していたとき、周りが司法試験の予備校や大蔵省に入るためのお受験の準備をしているのを尻目に、法哲学や、西洋法制史や政治思想史や外交史の講義にはまり込んでいました。かなり奇特な存在だったと思いますが、その講義は、各分野の本当に第一人者達の、学問に一生を捧げた熱い思いが込められていて、それでいて、当時の僕が、様々な選択を迫られ、自分の生涯の課題としたい何か大きなテーマを見つけたと感じ、そういう想いを親友や恋人と語る上で、とても関係が深くて、大袈裟になるけど、自分の青春にとって不可欠の知的インプットだったと今でも思っています。そういう師や学友に恵まれたことは本当に幸運で、「日本の大学だったから」という理由で何らハンデを負ったと感じたことは決してなかった。

そういう出逢いに恵まれなかったり、そういう形で日本の大学の講義を感じとることのできなかった人は、実際には、多いと思う。同じ東京の大学にいた同窓生でも、「大学の講義も案外司法試験に役立つ」とか、「とにかく真面目に講義でノートをとるべきだわ」とかいう人はいたし、やっぱり大多数は「講義は何も面白味がないし、試験で単位がとれて卒業できればそれでいいじゃん」という意見だったみたいだった。

この文脈でちょっと脱線すると、漱石が「三四郎」の中で、本郷図書館の本の片隅に落書きを発見するシーンがあります。ベルリン大学でヘーゲルを講義を聴いた学生と、東大の学生が何が違うか。東大生はただの「タイプライター」だ、と切って捨てる、この落書きは僕の好きな言葉でした。

さらに加えていうと、「日本の大学は講義ばかりでつまらない」という人は、講義に出ることを速記録を作ることと同一視しているからで、(そりゃつまらないわけだよ!)それは、単なるタイプライターに成り下がっている学生本人にも(かなり重要な)責任の一端がある。

こういう人が大学に多いのは大学の問題、といえばそうなんだが、僕はむしろ、本来、大学にまで進学する必要のない人までもが無理に、あるいは時期尚早に(偏差値が高いだけで頭の中はコドモのままで)大学に入って来ているから、起きている問題なんだと思う。そのようにご時世が変わっても、今だに昔のままの教育方針、つまり、本来の大学が目指していたものを頑なに守る東京大学は、時代錯誤なのではなくて、逆に立派だと思う。こういう僕の意見はとてもelitistに聞こえるかもしれないが、本来大学というのはエリートのためのものだったのであるし、皆が同じレベルにあることがそれ自体望ましいというのは何の根拠もない話だと思う。

それでは、なぜ日本の19歳はこうも知的な自立ができていないのでしょう?(勿論、かくいう僕も、受験勉強もバスケットボールも文化祭もただただ勢い任せに、ひたすら真面目にやっていた素直な高校生で、知的「白紙」状態で大学に入ったことを恥かしく思っていますが…)それは、よく指摘されているような、就職活動の構造(学歴偏重)とか、受験勉強に過度に傾いている中等教育(塾産業の問題含め)等など、様々な問題があるわけです。でも、これは、日本の大学教育が抱えている問題とは、とりあえずは別の問題です。

では、日本の大学は、こういう19歳が増えた現状に合わせて教育方針を変えるべきなのでしょうか。これには色々な意見があるでしょう。違いの分かるオトナの学生だけ相手にしていればよいと突き放すのも一案でしょうし、特定の技能を付けるための職業訓練に特化すべきだ(ビジネス・スクール、ロー・スクール化)という意見も最近は多いのではないでしょうか。僕は、僕自身の限られた経験に基づいて思うのは、せめて大学の教養課程をオトナになるための過渡期と位置づけて、幅広い思想、教養、外国語の勉強(高校=大学受験の延長ではなく)を授業で教えることや、学生間の共同体なり親密な交流を涵養してやることが大切だと思う。

そのためには、教える側も、本科を外されて教養課程を仕方なく教えているような冴えない学者崩れではなく、また、必ずしも研究者を養成するということを目指すのではなく、教養豊かな、そして教師自身が「本の虫」でなく真に青春を謳歌した経験があって、学生の不安・高揚を理解できて見守ってやれるようなよきチューターである必要があるんじゃないかな。あと、大学におけるインフラとして、もう少し学生のコミュニティが集まりやすい部室とかコモン・ルームの類とか、「独房」でない学生寮(キッチンを10人くらいで共有するような)が整えられてもいいかな、と思う。東大の駒場キャンパスでは色々と新しい試みがなされていて、最近どんな感じに発展しているか、ちょっと関心がある。

日本の大学教育の在り方を取り巻く問題、それに対する処方ということで何となく思いつくのはこんな感じ。ただ、誤解してほしくないのは、別に僕は東大がオックスフォードみたいになってほしいとか、あるいはハーヴァード・ロースクールみたいになってほしい、と思っているわけではないです。東大法学部はそれ自体伝統もあり、熱い想いをもった研究者が沢山いるし、面白い学生も、一部には、いると思います。一流と言われる他の大学もそうだと思います。それぞれの学風、卒業生の偉業、こういうものに自信をもって、日本社会あるいはもっと背伸びして世界が求める知識人像とは何か、真剣に考えればいいわけで、ノーベル賞の受賞の数とか、国際的に認知されているかどうかとか、そんなふわふわした基準で日本国民や留学生の知的向上を論じるべきじゃない。

留学を考えている人には冷や水かもしれないけど、英米の大学を手放しに称えるのも、本質を見落としていると思うし、見落としたままで留学するのはある種の逃避のようなものだ。日本の大学で学ぼうが留学しようが、結局、自分の主体性とか、何を学ぶのか、それは(周りの人が学歴を称えてくれるというのではなく)自分の人生にどんな意味付け・方向性を与えてくれるか、自分はそこで学んだことをもとにどうやって他者・社会に働きかけるのか、そういうことを反芻しない限り、同じことだ。要するに、大学で学んでいやしくも「インテリ」として生きることを選ぶのであれば、何を目指すのか、そういう生き方は自分にしっくり来るのか、そういうことをよく考えなきゃいけない、…というごく単純な話。留学するにせよ、日本の大学で学ぶにせよ、そもそも大学に進学しようと思う人が考えるべき、一番大事な「心得」はこの点だと思う。

自分のことを棚上げしてとやかく言いたくないけど、確かにオクスブリッジの学部生は良く勉強するけど、落ち着いて考えれば、それ自体は何ら賞賛に値するわけじゃない。学生の中にはただ要領の良さだけを身につけて卒業する人もいるし、そもそも課題が多くて「勉強させられる」から勉強しているだけの話だ。日本の大学で可能なような、自分のペースに合わせて講義を理解するための予習復習をじっくり好きなだけやる、という形の勉強は、オックスフォードではできない。ある意味、「学生はプレッシャーを課さないとダメ」という理解が前提にあって、本当に学生がオトナ扱いされているわけでもなさそうだ。

東京の大学で法律を学ぶのとオックスフォードPPEと、どちらが良いか、と問われても答えられない。それぞれ別のものを目指しているし、大学をとりまく様々な外的環境から受けるプラス・マイナスの影響もあるし。どちらが面白い学生が多いか、と問われたら、どちらも同じだと僕は思う。日本の大学では、階級なんか関係なく日本各地色々なところから学生が集まるし(国公立ならね)、総合大学なら色んな事に感心を持っている学生と出会えるし、東京みたいな大きな都市ならいわゆる一流大学も数多くあるから他の大学とも交流ができるし、時間的余裕を活かして自分の努力・自律心次第で本当に色々な勉強・経験ができる。経験上、実際そうだった。「お受験」の延長を大学(さらには就職まで!)と勘違いしている可哀相な人もいたけど、そういう学生にイライラさせられるマイナスを上回る楽しさが結構あったと思う。

オックスフォードはどうか。「苦学生」の類は少ない。宿題が多くて学期中は他のことをする余裕がなかなかない。ケンブリッジ以外は他の大学との交流というのは(東京にいるほどは)簡単じゃない。宿題・チュートリアルを付け焼き刃の知識でごまかそうとしてチューターに馬鹿にされる学生も結構いる。…勿論、他にいいことも沢山あるけど(他のところで書いてあります)、いずれにせよ、東大で六法全書を小脇にはさんでいたらつまらなくて、オックスフォードに住んでいたら突如素晴らしい人間に生まれ変わるわけではない。当たり前だけど。


「日本の大学生は勉強しない、だから私は留学するの。」真面目なところはいいけど、そういう環境依存の発想のままで留学しても得られるものは少ない。どこにいっても、大切なのは自分。環境に流されないで、それでいて色々な吸収をして、それを自分の一部として体得して、インテグリティのある知識人としてその後の人生を生き、社会に貢献すること。これが、どこであろうと、「大学」をくぐりぬけた後に到達したい目標であるはずだ。自分は何を信じ、何を大切に思い、その実現のためどう生き、今の社会の何を守り、何をどう変えたいのか。そういうことを常に考えていることが、留学する・しないよりも大切なことだし、大学生でなくなってからも考え続けなければならないことのはずだと思う。

そう思って、仕事の合間にこんなものを書いたりしているわけなんだが…。(平成13年5月26日)


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