英語で「腰痛」とはどう言うか。(2000.4.15)


「腰が痛い」というのは英語ではpain in the back(「背中が痛い」)といいます。
ここから派生して、翻訳とは、外国語で意思疎通するとはどういうことか、考えてみます。

日本語でいう「腰」という言葉と、英語でいうhipというのは、ぴったり一致する言葉ではありません。したがって、「腰が痛い」と言いたい時にmy hip is achingと言うと、これは「お尻が痛い」(臀部の筋肉痛とか)を意味することになります。my BACK is achingというのが正しい言い方です。

ここで言いたいことは、ワンポイント英会話的な豆知識ではなくて、日本語の「腰」と英語のhip、また「背中」とbackとは、辞書に表記されているのとは異なり、同一の概念ではない、すなわち、日本語と英語とでは、人体の表現一つをとっても、実体の区切り方が一致しない、ということです。一般的に、言葉とは、現実の世界を区切って把握可能にする道具であり、したがって、外国語とは、自分の親しんでいる区切り方とは異なる現実世界の把握の方法、ということです。

外国語で意思疎通をする、例えば、ここでは英語で「腰が痛い!」と言いたい時には、このように、その言語体系における物事の区切り方(この背中の下の方の、鈍痛を感じる、「この部分」は、英語では何と言うのだろう?)を分かっていないと、「君はお尻の筋肉痛に苦しんでいるのかネ」と誤解される、ということです。

似た例では、「胴が長い」というのはone's waist is longと言いますね。
身体の部分の名称、という、このうえなくなまの実感に近いと思われる言葉でさえ、こうして言語体系により区切り方がずれるのですから、文化的コンテクストにより左右されやすい言葉や抽象的概念などについて、さらにずれが拡大することはいうまでもありません。「綺麗だ」とbeautiful/pretty/cute、「艶っぽい」とsensual/sexy、「善」とgood、「正しい」とright、他にも、面白い例としては、「山吹色」とorange、「時雨」とshower。「家」とhome/family。「お上」とauthority。「お茶」とtea。いずれも、日本語と英語と双方のニュアンスを理解すればするほど、双方の不一致に気づきますね。
それでは、こんなにずれがある別々の言葉同士というのは、相互に建設的な意思疎通ができるのでしょうか?そもそも差している対象の範囲がずれているのですから、同じ対象について議論しているとはいえない、よってどんな対話もお互いの立場の独白的表明に過ぎない、のでしょうか?翻訳・通訳というのは可能なのでしょうか?異文化交流とは?外交とは?

僕の今の答えは、「簡単ではないが、努力すれば近づける」、といういい加減なものです。
異なる言語体系を、体系として(豆知識としてではなくて)理解するというのは、簡単ではありません。そのためには、言語体系全体に対する体系的理解と、なぜそのような区切り方をするようになったのか、という発生論的(歴史的背景の)理解とが不可欠です。それも、外国語についての理解と同時に、日本語についても、ですね。つまり、ここの例で言えば、英語でBackとはどこからどこまでを差すのか、hipとは、waistとはどうか。日本語で「腰」が身体の根幹(「腰を入れる」、「腰が効いている」、「腰が弱い」)と想定されている所以は何か。英語では身体の根幹はもっと内臓系の言葉(heart, guts)で表現されるようだが、それはなぜか。いずれも、容易な問題点はありません。
さらに抽象的な観念になると、もっと難しい。libertyとfreedomとはどう違うのか。「自由」という造語にはこのニュアンスは反映されていないが、そのまま使っていいのか。「義理」とobligationとは、それぞれどのような背景から発生した概念なのか。「人情」とは何か。「諸行無常」とtransience of lifeとはどうか。・・・うーむ、難しい。こうなると、キリスト教の発生とか、ルネサンスとか近代とか、はたまた古今和歌集とか源氏物語とか本居宣長とか近松門左衛門とかを分かっていないと始まらない。・・・でも、こういうことを分かっておくのは、自分の言いたいことを伝え、相手のことを理解するために欠かせない。そうでないと、「腰が痛い」ということさえ、伝えられないわけです。

このような相手と自分とに対する理解(この、「自分」についての理解、という点が、「異文化交流」において軽視されていると危惧するのですが)に加え、必要なのは、相手の立場を踏まえた上で、分かり易い親切な表現で伝える、ということです。これには気配りと器用さとが必要ですね。つまり、最初の「腰痛」の例をとれば、「日本語ではpain in the backのことは「背中が痛い」とは言わないんだ。「背中」という日本語にはこの体幹部分は含まれないで、身体の中心部分というのは、「腰」という言葉に含まれる。これは、舞踊や武道、野球にいたるまで、日本語ではよく使われる用法みたいだ。どうして英語と表現がずれるかというと・・・」

抽象的な話になれば、例えば、「芸者とはprostituteのことか、だとすれば日本の伝統社会というのは売春が公然のもので、それだけ日本では女性の地位が虐げられていたということなのか」ということに反論して、
例えば、「芸者と舞妓というのは区別されている。それから、京都の奥深いところと、赤坂あたりの安っぽいところとはこれまた違う。日本人女性がすべて六本木で米兵の尻を追っかけたいと思っているわけではない。農村の貧困という経済的事情もあった。ゲイシャという言葉にまつわるfantasyを勝手に増幅させているのは終戦直後の米兵、今なら外資系バンカーの皆さんじゃないのか。芸者にもてるということは、単細胞なmachismoとは異なり、性的支配関係だけでなく、経済的な後見や社会的な保護という関係でもあった。日本社会が一致団結して女性を虐げているというのは正しくない。そもそもそんな民族は、単純に、存続できっこないでしょ。日本には女帝もいたし、万葉集には女性の歌人も登場する。ならば、女性がアメリカ大統領になるのはいつか。・・・」とかね。これはあくまで例であって、僕個人の意見というのはまた別ですけど。

ここで言いたいのは、こうやって相互の立場を理解し体系的・発生論的な議論を展開することによって、主張の分析の鋭さと広範囲の相互関連が見えてきて、議論がより建設的になり、異なる文化圏の人間どうしても対話が、少しは、可能になるでしょ、ということです。

僕が避けるべきだと思うのは、「んーこの日本的な、なんともいえない心地良さ」という類の、知的怠慢としか思えない態度です。この「なんともいえない」という、言語化を拒否する態度では、いつまでも島国を出られないし、島国の存在を認めさせることはできない、と思うのです。同時に、白黒はっきりしたい単細胞の部外者に対して、効果的・建設的な反論もすることができない。これは、ナイーブな感覚的右翼・自爆志向体育会系ナルシシストが潜在的に多い日本への警鐘であると同時に、分析哲学と歴史とをオックスフォードで学んだ僕の、これからの目標の宣言でもあります。

同志求ム。


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